金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

一.幻想の終焉
 夢境を渡る力を授かりし少女は、哀しみの深海に呑まれながら、『誰か』の夢に彷徨い出ていた。
 見渡す限り、炎の渦。朱に染まる落日の空に、大地を削り河と為り、悠々と流れゆく血潮――此の国で生まれた子供たちが、死に向かう民たちが、苦艱(くかん)の末絞り落とした(あか)く紅い血涙。視界に溢れた蘇芳色は禍々しく、迫りくる滅びを彩り象っていた。
 少女は目を覆いたく為るのを堪え、時に歩き時に走り、時に浮遊して空を泳ぎ、恐ろしい夢の世界を流れ漂う。暫くして辿り着いたのは、此の国を統べる女王の御座す処。
 彼の女王は、天に見放された己の国を、高台に在る城の露台から眼下に望んでいた。此処から見えるのは、つい先日滅ぼされた町の成れの果て。
 祖国の惨状を映し、輝きを失くした虚ろな瞳が流すのもまた、紅の涙。不可思議なことに、声も立てずに泣血する彼女の心情が、少女の胸にも流れ込んで来る。
 黒雲広がる地平の彼方、大いなる禍が上空を舞い、此の瞬間も女王の民を戮しているのだろうか。彼女が作り上げてきた国土を焼き払い、総てを灰燼(かいじん)へと帰す積もりなのだろうか。
 災厄の獣を斃すため、女王に仕える数多の武人が挑み、そして死んだ。主を、国を守るため、勝ち目の無い戦いに命を投げ出す彼らを見送り続け、女王は悲嘆に暮れた。身に染み込む哀しみに襲われながら、王としての己を保とうとしていた。
 眠ることも食すことも忘れ、只、浅い呼吸を繰り返す。生きることも死ぬことも許されず、正気を失うことも出来そうにない。彼女に残された道は、『かつて愛した』男から奪い取り、身命を懸け守り抜くと誓った祖国と共に滅びるのみ。
 悲痛な面持ちで見守る少女は、此の国と女王の行く末を可能な限り見届けることに決めた。
「誰か、おらぬか。あれから何日経った? 未だ知らせは無いのか?」
 長い時は数日、短い時は数刻おきに、女王は我に返って問い掛けた。何処からともなく否、という返答が帰ってくる度に、落胆して焦燥し、苦悩を深めて再び沈んでゆく。
 彼女が今、憂慮しているのは、己の骨と肉である男の生死。彼は王としての自分を作り上げ、離れていても魂は何時も寄り添い合う下僕。此の国で最も尊敬される賢人であり、最も強い剣士でもある彼は、怪物との死闘に当然の如く名乗りを上げた。
 男が都を離れ、消息を絶って久しい。女王の逆鱗に触れるのを恐れて不確かなことを言う者はおらず、日増しに自覚無く痩せ細る彼女のために、竜を恐れず男を捜そうとする者も居ない。
 彼の行方が掴めぬまま、死と破壊の凶報ばかりが届く。村が、町が、一つまた一つと死滅してゆく日々を送り、女王は不信心を悔いるのではなく、むしろ天を呪い憎悪した。
「陛下、『……』将軍がお戻りに!」
 ある時何の前触れも無く、女王が待ち焦がれた知らせが届く。
「『……』将軍が竜を討ち、無事お戻りになられました!」
 男が戻ったという言葉以外は、竜を討ったという朗報さえも、女王の頭には入ってこなかった。女官たちや報告に来た臣下を押しのけ、重い衣を脱ぎ捨てて、城の階段を駆け下りて行く。将軍の居る場所に近付くにつれ増してゆく嫌な予感など、気にしているどころではなかった。
「『……』!」
 名を呼び勢い良く扉を開けると、男は片膝を付き跪いていた。見たところ五体共に無事であり、酷い怪我を負っているようには見えない。頭を下げたまま少しも動かず、主を前にして挨拶一つしない。
 人払いして二人切りに為ると、彼女は久方振りの笑みを零し、将軍に近付いてゆく。
「『……』、良く戻って来た」
 安堵の色を包み隠さず、女王は嬉しそうに言葉を掛ける。王である彼女が憚ることなく身を屈め、男の広い肩に触れようと手を伸ばす――すると信じ難いことに、彼は主の手を払って拒んだのだ。
「陛下、お許しを。私に触れてはなりませぬ」
 此の時漸く、女王は受け入れ始めた。奇跡的に生還した将軍が変貌し、以前の彼とは異なる存在に為っていたという、悪夢の如き現実を。
「私に触れることも、私の眼をご覧になることも……もはや、なりませぬ」
 彼女とて、見えざるものを見る神人である。男が何をしてきたのか、如何やって竜を『討った』のか、質さずとも分かっていた。
「……何を申す。そなたは妾のものぞ。何時触れるか何時抱くか、妾が決める。死に場所さえもな」
 そう言って、女王は下僕の顎に触れて面を上げさせた。彼は抵抗することなく従ったが、目線は下げたままで主と合わせようとしなかった――彼は顔の左半分に幾重にも包帯を巻き、覆っていた。
「お許しを。此のように醜い顔を、陛下にお見せする訳には参りません」
 包帯の上から更に隠そうとする彼の手を、女王が掴んで制止する。
「……そなた、其処に宿したのか」
 男の意に反し、女王は彼の顔を凝視した。覆い切れていない顔の皮膚は爛れ変色し、異様な形に歪められている。
「左の眼球に封じ込める邪術を用いました。『暫くは』逃しませぬ」
 静かに言う男に対し、女王は無言で俯いた。沈黙が流れ、次に顔を上げた際彼女の面に表れていたのは、怒りでも悲しみでもない虚ろな闇であった。
「『暫く』とは? 其の後は? そなたは一体、如何為るのだ?」
 問うてみたところで、男が困惑するだけだと分かっている。其れでも女王は、尋ねずにはいられなかった。誰よりも聡い彼が、何か希望を抱ける答えを持っているのではないかという、微かな期待を込めて。
「いずれ、私が死ぬ瞬間まで、奴を縛し続けます」
 男の返答に、光明は無かった。十年以上もの間女王に仕え続けてきた彼は、寡黙で愚直だが弱気な男ではない。人界最高の将軍の名に恥じず、如何なる窮地に在っても並外れた機転と武力で切り抜けてきた。其の彼が、初めて主君に弱さを見せたのである。
「そんな誓言は許さぬ。聞きたくない。そなた、妾を失望させる積もりか」
 心の平静を失い、女王は声を荒げていた。片手で男の肩を掴み、もう一方の手で厚い胸板を叩いて、騒ぎ立つ感情を露骨に表している――今の彼女は、癇癪を起こす只の女に過ぎなかった。
 弱り切っているとはいえ、男の屈強な身体は女王が揺さぶった程度ではびくともしない。怪物の邪気が漏れ出て彼女を穢さぬよう注意を払う以外、今の彼には何も出来ない。
 此の男と共にいれば、為せぬことなど有りはしない。女王は、そう信じてきた。しかし、其の幻想は呆気なく消え去った。責めるべきは彼ではないと分かっている。彼女が真に罰したいのは、他の誰でもない、非力な己自身だった。
「……妾が……やる。妾が……を救ってやる」
 将軍の胸に顔を埋めたまま、女王は声にならぬ声を絞る。彼の方は、か細い主の身体が小刻みに震えて止まらないのに気付いていた。其れでも、彼女の背に腕を回してやることすら出来ない。
 互いが互いの無力さを恨み、失われ掛けた未来に苛まれ、痛ましい苦悶に陥っている――想い合い擦れ違う主従の過去を辿る少女の夢は、其処で何の前触れも無く、ひっそりと終わりを告げた。
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