金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十.恭月塔
 蘢と別れ、森の中を独りで駆ける麗蘭は、森に入って以来感じ続けている邪気の源を追っていた。手掛かりと為るものが他に無く、異様な胸騒ぎからもそうせざるを得なかったのだ。
 一度は敵と剣を交えたが、数が少なく直ぐに撒くことが出来た。自分の追手が少ないということは、其の分蘢を狙う敵が多いのではないかと心配に為る。其れでも今は気にし過ぎず、進めるだけ進むしかない。
 直覚を頼りにして、心と身体の命ずる通り走るうちに、麗蘭は求めていた地に着くことが出来た――恭月塔の在る、彩霞湖である。
 惹かれるままに水際へと近付き、水面を見下ろす。想像以上に美しい藍色の湖水は、陽光が当たる角度や水深に依って彩を変える。汚れ一つ無い水の鏡は向こう岸の山を映し、澄んだ水中を覗き込むと群れで泳ぐ小魚が見えた。
 何時しか、蘢と別れて半刻程が経過していた。淡く広がっていた霧が濃さを増すと共に、空気が変わって呼吸が苦しく為っていく。
 再び歩き出した後少し経つと、つい先刻まで聞こえていた鳥の囀りや小動物の鳴き声など、生き物の息吹が消え失せる。穏やかに流れていた風すらも止み、徒ならぬ様相を呈し始めた。
 異変に気付くとややあって、麗蘭は白霧の中から建物の一部らしき赤い塊を見付ける。瞬きした後目を凝らし、驚く程高い塔の姿を見出した。
「恭月塔……か?」
 麗蘭の訪れを待っていたかのように霧は晴れゆき、塔が其の一端を現した。実際には七層八角、三十三間もの高さを有するが、上部を包む煙霧のため、見上げてみても全容を視界に入れることは出来なかった。
 見えている範囲の外装は木造で鮮やかな朱に彩られ、一辺に三つずつ配置された窓の枠には繊細な彫刻が施されている。
 壮麗だが華美過ぎることはなく、山水に調和して聳える塔――想像を超えた威容に数瞬呑まれた麗蘭だったが、直ぐに我に返って辺りを見回した。
 周辺に人の姿はないが、塔内から漂う濃厚な黒い神気に寒気立つ。混じり気のない純粋なる闇の力は、琅華山で遭遇した、黒神の剣が放つ邪力を彷彿とさせる。
 今なら分かる――此の気は、瑠璃のものではない。同じ『黒の気』を正しく判別するのは難しいが、天陽を得てより光龍に近付いた麗蘭には、其の推測に相当の自信が有った。
――だとすると、此処に居るのは……黒神?
『今此の瞬間から、僕と君は敵同士……次に見える時は、君は僕に敵意を抱いているだろう』
 俄かに思い出されたのは、幼い麗蘭の前に降臨した黒神の言葉。あれから九年近く経つというのに、魂の宿敵の姿形や声の全てを克明に記憶している。
 子供だった所為か、あの頃は何故か恐ろしさを感じなかった。だが、今は違う――彼が残した言葉通り、麗蘭は黒神に対し強い敵愾心と否定し切れない畏怖を抱いている。
 塔内に彼の存在を認めて膨れ上がるのは、頭の隅に見え隠れしていた懸念。黒神が蘭麗に接し、害を為しているのではという疑懼である。
 もし此の塔が恭月塔で、蘭麗姫が幽されているとすれば、其の可能性は大いに有る。今こうして塔の前に立ち尽くしている時間が惜しい。
 だが一方で、現況が甚だしく怪しいことも確かだった。兵の姿、気配は何処にも見当たらない、蘭麗が居るとは思えぬ薄過ぎる警備。そして、まるで麗蘭に見付けてくれと言わんばかりに存在感を放っている黒の気。
 早急に入って確かめたいが、蘢のことが気に掛かる。神気を探ってみるに、彼が先に来ている様子はない。
 合流する前に入って行って良いだろうかと迷うものの、仮に落ち合えなくとも蘭麗の身を第一位に考えるという約束も有る。
「蘢と自分を信じて……入るしかないか」
 決意して、麗蘭は踏み出した。強大な敵との再会と、己の出自を知った十六の生辰以来待ち侘びた、妹との出会いを予感しながら。
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