金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十一.死闘へ
 恭月塔を探す蘢は、敵を引き離しながら独り走り続けていた。
 青竜との戦い、そして玄武との戦いで負った全身の傷は、天真に依って治癒され回復した。休息期間が長かったため多少鈍ってはいるが、軍の訓練や戦場で鍛えた脚力を以てすれば、敵に十分差を付けられた。
 がむしゃらに走るのではなく敵を翻弄し、かつ湖へと方角を見失わずに向かうのは至難の業。しかし、蘢には其れが出来た。若くして数多くの死線を潜り抜けてきた、経験の賜である。
 追手の姿が見えなく為った頃、森の空気が変わったことを感じ取ると、敢えて細い道を選び樹木を掻き分けて進む。茂った木々の先には案の定、探し求めていた湖が在った。
 湖畔を見渡してみるが、話に聞く『塔』らしきものは影も形も無い。此の場所からでは見付けられないようだ。
 正確な位置が分からぬ以上、湖の周囲を探してみるしかない。強い神人であるという蘭麗姫に近付けば、其れらしき気を感じられるかもしれない。
 どちらの方向へ進めば良いのかすら分からずに、勘に頼って西へ進む。直ぐ側まで迫っているであろう敵に用心しつつ、別れた麗蘭の身を案じつつ、道を探しながら当ても無く歩くしかない。
――本当に、此の湖畔なのか?
 入手した地図に、恭月塔の名は記されていなかった。
――そもそも、本当に恭月塔などというものが存在するのか?
 此処に来て殆ど手掛かりの無いことが、蘢の苛立ちを募らせる。冷静さを欠き始めている自分に気付き、益々焦燥する。落ち着きを取り戻そうとすればする程上手くゆかず、らしくない自身に戸惑いを覚える。
『紫蘭の君』に、近付いていると信じたい。しかし進めば進む程不安に襲われ、前へ向かう力が削がれてゆく。
 群がり立つ木々を抜けて、視界がやや開けた場所に出た。ふと前を見やると、白髪の老婆が蹲っているのに気付く。
 何処から如何見ても、敵には見えない。腰はすっかり曲がっており、杖にした木棒で身を支えて立ち上がろうとしているが、力が入らぬようだ。
「如何しましたか?」
 迷わず老婆に駆け寄った蘢は、横から声を掛けて彼女の肩に触れる。出来るだけ丁重に身体を起こすと、側に在った切株に座らせてやった。女の目線に合わせて片膝をついたが、剣は放さず握ったままで腕を下ろす。
「ああ、済まないね……さっき、兵士が突然何人も現れたもんだから、腰を抜かしてしまって……」
 見たところ、此の近くに住む茗人のようだ。蘢のことを聖安人だと認識しているのかは分かりかねるが、警戒している様子はない。
「おまえさまは、見ない顔だね。旅のお人かい?」
「はい」
 自然に答えた積もりだったが、老婆は奇異そうな顔をしている。
「十年近く、此の辺りには余所者は寄り付かないんだよ。兵士がうようよ居るし、時々妖が出るからね。湖が綺麗だから旅人も入り込んでくるけれど、こんな奥にまで来るなんて珍しい」
「……確かに、兵が多いですね。近くに何か在るのですか?」
 何も知らぬ振りをして尋ねると、女は大きく頷いた。周りに誰も居ないことを確認してから、蘢の耳元で告げた。
「何処ぞの姫さまが閉じ込められているんだよ。時たま取り返しに来る男たちと兵士が争いに為るから、おっかなくて出歩けやしない」
「姫君……ですか」
 焦って詰問したく為るのを我慢し、蘢は落ち着いて会話を続ける。老人は彼の態度に気を許したのか、問うまでもなく話してくれた。
「あちらに真っ直ぐ、暫く歩いたところに、其の塔が在る。決して近付くでないよ。誰彼構わず、此の森に住む者でさえも、近付けば殺されるという話だ」
 彼女が指し示す方向を見て、蘢は目を細める。
「湖に映る月の美しさには、王さまでさえ恭しくお辞儀する――『恭月塔』。此の森に住む者はそう呼んでいる」
 老婆は重い腰を上げると、蘢に小声で耳打ちした。
「でもね。多分姫さまは今、あの塔には居ないよ」
「え?」
 思い掛けない話に、流石の蘢も動揺を隠せず聞き返してしまう。
「昨日、兵たちに連れられて塔から出てゆく輿を見たんだ。塔とは反対の、あっちの方角だよ。皇族のお屋敷が在るから、其処だろうね」
――蘭麗姫が、移された?
 訝る蘢は、疑念を表情に出すことなく老女の顔をじっと見詰めた。其の輿が本当に蘭麗の乗るものだったとは限らないし、何らかの思惑で女が嘘を吐いている可能性も有る。
 しかし、不自然な話でもなかった。蘢と麗蘭の動きを敵が把握しているなら、姫を塔から別の場所へ移したとしてもおかしくはない。
「姫さまを奪いに来た何人もの男たちが、失敗して殺されている。一人くらい、取り返せる者が居ないものかね。あたしらにとっても、姫さまが居なくなってくれた方が平穏に暮らせるんだが」
 理不尽にも公主を奪われた聖安人にとっては怒りを覚える発言ではあるが、老女に悪気は無い。此の森の住人には切実な願いなのだろう。蘢には何故か、女の言葉が己に向けられたもののように聞こえた。
 やがて、老婆は森の奥へと消えて行った。彼女の示した恭月塔の方でも、姫の移送先の方でもない、別の方向へ。
 残された蘢は、選択を迫られる。恭月塔に向かうか、現在蘭麗が居るという場所へ向かうか。他に情報がなく、敵に追われている今、取り得る選択は此の二つしかないと思われた。
――あの御老人は、恐らく敵の命令で僕に近付いたのだろう。違ったとしても、其の想定のもと動いておくべきだ。
 そう読んでいた蘢が、限られた時間の中で出した答えは恭月塔ではなく――老婆が話していた、塔とは反対の方へ進むこと。
『蘭麗姫の許で落ち合おう――もし落ち合えなくても、互いに姫を救うことを第一に考えよう』
 麗蘭と交わした約束は、互いが互いを信じ、蘭麗救出を為し遂げること。
――麗蘭を信じよう。紫蘭の君をお救いするために。


 老女の示した方角へ森を進んでゆくと、少し開けた場所に出た。話の通り奥の方には大きな館が建っているが、殺気を帯びた男たちの一団が行く手を阻んでいた。
 蘢が現れた途端、彼らは身構えて抜剣する。見たところ先刻の兵とは異なり弓は持っておらず、良く訓練された剣兵のようだ。
 武器は剣のみで、軽めの革鎧を身に着けている。禁軍のものではないが、黒色に統一した揃いの装備からして何らかに属する一隊なのだろう。館前を埋めて並び立ち、皆蘢へ敵意を向けている。
 予想通りの展開に苦笑を漏らしつつ、蘢も剣を抜く。ざっと数えてみるが、見えている者だけでも三十人……四十人はおり、周囲の木陰に隠れているであろう者を含めると其れ以上に為ると思われた。
――やっぱり、罠だったのかな?
 老婆の言を疑いながらも、蘢が此方に来たのには訳が在った。
 自分か麗蘭かのどちらかが蘭麗姫の許へ辿り着きたい今、麗蘭が恭月塔を目指すなら、自身はもう片方の可能性に当たった方が良いと考えた。もし老婆の情報が嘘であったとしても、敵の目を引き付け少しでも兵の数を割かせることが出来る。
 以前の蘢なら、麗蘭を心配して探しに行くか、気持ちが落ち着かず注意散漫に為っていたことだろう。ところが、今は違う。彼女なら大丈夫だと心から安心し、任せられる。そう思うのは、気が急き判断力が鈍っている所為ではない。
――魁斗に「麗蘭を頼んだ」と言われたのに、途中で別れてしまったのは申し訳ないけれど。
 剣を握り直し、改めて衆敵を見回す。呪を唱え、刃毀れを防ぐため刀身に神力を籠めてゆく。同時に気を探ってみたところ、幾人か神人も混じっているようだ。
 茗側が此の人数を配置した理由は、蘢には未だ分からない。厳重な警備は蘢を罠に嵌めるためのものではなく、此の先の館に居る蘭麗姫を守るためのものかもしれぬ。事実、誰のものなのか特定は出来ないが、敵の向こう側に幾つかの大きな神気が固まって存在している。
――とにかく、此処を切り抜けるしかない。
 覚悟を決めると、考えるのを止めて眼前の敵に専心する。剣を交えるしかない以上、集中して一人でも数を減らしておくべきだし、そもそも思考を巡らせつつ此の場を突破するのは無理が有る。複数の敵を相手に一人で戦ったことが無い訳ではないが、此れだけの人数とも為ると経験が無い。
「聖安禁軍、蒼稀上校とお見受けする」
 突然、最前に居た壮年の男が口を開いた。
「主の命ゆえ、死んでいただく。無駄な抵抗は止められよ」
 眉を顰めた蘢は薄く失笑し、戦意に満ちた挑発的な目を向ける。
「……笑わせるな」
 静かに吐き捨てると、蒼き獅子は迷うことなく死闘に挑む。剣を振り上げる腕は軽く、魂は高揚する――焦がれ続けた少女との再会の時が、目前まで迫っていた。
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