金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十二.守るべきもの
 意を決し、勢い勇んで塔内に乗り込んだ麗蘭だったが、入るなり拍子抜けさせられた。
 初めに現れた広間には、彼女を待ち構えている敵兵はおろか誰一人として居ない。大勢に踏み荒らされて土や埃だらけに為った床に、物が倒れたまま散らかっている。打ち捨てられ蛻の殻と為った其の様は、外観の美しさからは想像も付かない。
――本当に、姫が居るのか?
 斯様な状態の此処に、聖安の公主を捕らえているとは思えない。しかし人の気配は無いものの、ずっと感じていた黒の気だけは確かに存していた。
 蘭麗が居ないという確証は持てない。宿命の敵を前にして立ち去ることも憚られる。麗蘭は考えた末、先を急ぎ、姫不在が定かと為ってから引き返すと決めた。
 閑散とした広間を抜けると直ぐに、三波石で拵えられた螺旋状の階段を見付ける。中央は吹き抜けと為っているが、暗過ぎて天井は見えない。
 高く遠く、吸い込まれそうな暗闇が、大きな口を開けて麗蘭を待ち受けている。巫女の身体が拒む黒の力の源は、間違いなく高層に在る。果て無く伸びた石段の先に、斃さねばならぬ敵が居るのだ。
 押し潰されかねない力を頭上に感じながら、麗蘭は灰色の階段に片足を掛ける。一段、また一段と上がる度に足を速め、立ち止まること無く上ってゆく。
 聴こえるのは、自身の息遣いや足音、背負っている弓矢や手にしている剣の立てる音のみ。最上階まで続いているのであろう此の階段で、誰とも出会うことは無いと予想していたが、麗蘭の利き手は天陽をしっかりと掴んでいる。
 足取りは速い。だが何故か、全身が酷く重い。敵を間近に感じているからか――其れとも、蘭麗に対する罪の意識が伸し掛かっているからなのか。普段の麗蘭ならば、此れ位の階段を上ったところで疲労を覚えることなど無いが、今は違う。呼吸が乱れ、額に汗が滲んできている。
 高みから降る黒の神気と相俟って、息苦しさが耐え難い。更に、幾ら進んでも頂上に辿り着ける気がしない。其れでも麗蘭は、塔に踏み入り上を目指し始めたのを悔やみはしなかった。妹に会えるかもしれないという僅かな望みのために、たった一人で強大な敵に挑もうとしていることを、浅はかとは思わなかった。
 延々と続く螺旋階段で、漸く終わりが見え始めた頃。何の前触れも無く、感知していたはずの黒の気配が消失した。思わず足を止め、瞑目して集中するが、邪悪な力は届いて来ない。あたかも初めから無かったもののように、些かの痕跡も残さず消えている。
 訝しみつつ、また先へと歩き出す。『黒の気を纏う者』が『本当に』居なく為ったとしても、元来た道を戻るという考えは浮かびようもない。
「もう少し、あと少しだ」
 自分を励まし奮わせると、残りの石段を駆け上がってゆく。黒の力への拒否反応が無くなった分、ほんの少しだが身体も軽く為っている。
 遂に階段を上り切ると、次に見えたのは短い回廊。階下同様、左右の燭台には火が灯されておらず、小さな窓から差し込む光のみが内部の薄明かりを保ってくれている。
 其の直ぐ先には、重々しげで大きい木扉が在った。如何にもという鉄製ではないが、片手で押して容易に開けそうなものではない。閂を掛ける金具も有るが、今は掛けられていない。
 右側の肩と腕に体重を載せて扉を押し開けると、もう一つ空間が現れた。次の間のような室なのか、隅で倒れている椅子一つを除き何も置いていない。そして奥の方には、またもや扉が在った。
――此処に相違ない。
 麗蘭を塔の上へと誘った厭わしい力は、今はもう無い。されど、麗蘭は眼前の扉を開かねばならなかった。己のために、仲間のために。何よりも妹のために。何時も導いてくれる神巫女の神性ではなく、ちっぽけな人間としての本能こそが、此の扉に特別な意味を持たせて麗蘭に開かせるのだ。
……果たして待っていたのは、黒神ではなかった。
 絢爛とも質素とも言えぬ、洗練された女性用の居室。中央に垂れた御簾の手前に、一人の女性が背を向けて立っていた。
「遠路、御苦労であった」
 彼の女が声を発した瞬間、麗蘭は感覚的に、探し求めていた妹ではないこと、其れでいて並々ならぬ因縁の有る人物であることを察した。
「貴女は……」
 思いも寄らぬ出会いを前に戸惑い問うてみたものの、其の時既に、麗蘭は確信めいたものを持っていた。
「茗の国主、赤珠玉」
 気負い無く名乗った女は、振り返って麗蘭と正対する。
「待ちわびたぞ、神巫女」
 激しい意志と高貴さに裏打ちされた、畏怖の念を起こさせる声が響く。常人らしからぬ存在感は、彼女こそが人界中に名を知られる紅蓮の女傑であることを物語っていた。
――此の女が、珠玉。
 雲鶴文様の紅い着物を身に纏った、威有る艶冶な麗人。肌は生粋の茗人であることを示す滑らかな褐色。高く編み込んだ薄紅の髪の上に、黄金細工の煌めく歩揺冠を載せている。
 珠帝の美貌は、聖安で待つ母恵帝とは対極の性質を備えていた。世間では二人の女帝が対比して語られることがまま有るが、容姿や佇まいからして真逆さが際立っている。
 武術に長けていると噂されるだけあって、全く隙が無い。強い神人だとも言われているが、奇妙にも神気が感じられない。麗蘭は、珠帝も自身や魁斗同様、隠神術を用いて力を封じているのだろうと思料していた。
「……私も、貴女に会い訊きたいことがあった」
 はっきりと告げて礼も執らず、麗蘭は正面から向き合う。臆さず惑わず、屈しない――仇敵との対面で此の姿勢を貫くと決めていたため、女帝の覇気に圧倒されそうに為りながらも平静を保てていた。
「戦を起こして他国を侵略し、挙句自国の民まで犠牲にして、貴女は何を望んでいる?」
「自国の民?」
 麗蘭の問いに、珠帝は暫時黙考する。
「ああ、珪楽のことか。そなたの物差しで見るならば、そう捉えても致し方ないであろうな」
 袖から覗かせた己の両手を撫でつつ、事も無げに言う。
「必要だったからだ。望むものを手にし、守るべきものを守るためには、彼の地に血が流れようとも構わなかった」
――守るべきもの?
 焔の女傑から斯様な言葉を聞くとは、思いもしなかった。含みの有る言い方も気には為ったが、どんな理由であれ、麗蘭には理解出来る気がしなかった。
「では、妾も問おう。何故金竜を滅さなかった?」
 其の一言で一瞬にして、場を取り巻く空気が変わった。
「昊天君とそなたならば、彼の怪物を滅することが出来たのだろう。何故、躊躇ったのだ?」
 麗蘭の身体が、凍り付く。心臓が早鐘のように打ち、ぞくぞくとした身震いが走り抜ける。
「よもや、青竜のためとは言うまいな? 金竜と命を繋げている敵を生かすために、折角の好機を棒に振った……まさか、そんな愚かな話ではあるまい」
 金竜との戦いを見ていたかのように話し、口元に笑みを残しつつも責め立てる珠帝。尋常ではない威圧感に、麗蘭は剣を握る右手に力を篭める。
「もし其の答えが是ならば、斯様な偽善は決して罷り通らぬ。『仮に』妾が罪を犯しているとしても、重さで言えば比べるべくもない。実に、醜悪だ」
――此れは……殺気?
 長年戦いに身を置いてきた麗蘭は、直覚した。穏やかな言動の奥に隠された、珠帝の灼熱を。敵国の公主に向ける敵対心とは明らかに違う、自身へと発せられる冷たくも荒らかな気迫――凄絶な憤怒を。
「そなたらは力を持ちながら、金竜に依って人界に齎される大いなる悲劇を許したことに為るのだから」
 暫し、敵の酷烈な言葉に呑まれていたが、やがて麗蘭は力強く言い放った。
「また金竜が現れたとしても、何もさせはしない。誰も傷付けさせない」
 勇気と誓いに満ちた凛然たる声に、幾ばくかの不安心が滲む。動揺を見抜かれまいと、珠帝から目を逸らしたく為るものの、其れは敗北と同義――自分と魁斗が間違っていたと認めるも同然である。
――此処で負けるわけにはいかないのに……私は、此の女を恐れているのか?
 気付けば、珠帝の顔から笑みが消えていた。朱色の瞳で麗蘭を射抜き、一切の甘えを許さぬ厳たる面持ちで静かに告げる。
「若き巫女よ……王の座を継ぐ者よ。守りたいものが有るなら、何かを差し出さねばならぬ。其れは人も王も同じこと――此の珠玉も、そなたの母もな」
 辛辣な批難を浴びせていた先程までとは変わり、諭すかのように言う珠帝。重ねられゆく意外な発言が、麗蘭が思い描いていた彼女の像を打ち崩す。聖安の民や珪楽の民を虐げてきた、利己的で高圧的な暴君の姿が薄れてしまいそうだ。
 同時に苛立ちを覚えたのは、母恵帝と珠玉が「同じ」と言われたことだった。母ならば、たとえ何があろうと己の民を犠牲になどしない。どんな事情であれ、民を苦しめる選択などしないだろう。
――詭弁でないとすれば、人の命と引き換えに珠玉が守ろうとしたものとは……何だというのだ?
 疑問を募らせる麗蘭が反応する間も無く、珠帝は口の端を僅かに緩めて話し続ける。
「だが……神巫女とやらは、違うのか? 神の如く振る舞い、何の代償を払わずとも許されるのか?」
 其の問い掛けが自分に対するものではなく、何か大いなるものに向けられたものであると、麗蘭には直ぐに分かった。珠帝の表情や物言いに入り混じるのは、神々への畏敬ではなく憤り。彼女の深くに根ざした怨嗟の表れだと、瞬時に察知することが出来た。
「天の恩寵に与るのみで胡座をかく積もりは無い。下された天命は果たすが、道は己で切り開く。如何に苦しみ足掻こうが、大切なものを犠牲にすることなく戦い抜いてみせる」
 麗蘭は左程考えることなく答えていた。強敵との対峙や天陽の継承を通して固めてきた決意に、少しの揺らぎもない。自身でも驚く位、迷いも躊躇いも生じていなかった。
――只一心に、為すべきことを為すのみ。
 今為すべきは蘭麗姫の奪還。恭月塔に辿り着き、予期せずして宿敵との邂逅を果たしたとはいえ、其れが何よりも先決だ。
「珠帝陛下。我が聖安と貴国の停戦協定は、最早破られている。蘭麗公主を返してもらおう」
 もう、女傑に気圧され震えはしない。瞬きすらせずに鋭い眼差しを向け、堂々たる態度で一歩も譲ろうとしない。皇女として生まれた麗蘭が下様に溶け込みながらも持ち続けた王気の片鱗は、珠帝を前にしても霞むことはなかった。
 対する珠帝は無言の微笑みを漏らすと、麗蘭から目を離して室内を見渡してゆく。
「此処は、そなたの妹が九年もの間過ごしてきた場所だ」
 感慨深げに発した言葉で麗蘭の不意を衝き、再び彼女を見詰めた。
「国を、そなたを守るため、母が妾に差し出した気高き姫――そなたは、あの優しい妹を如何にして救う? 姫の深奥を覆い始めた翳りを、如何にして打ち払う?」
 刹那、麗蘭は己の内側から炎熱が生まれるのを感じた。怒りと呼ぶものよりも灼然とした、初めて知る感情が溢れ出す。燃える烈火を抑え切れずに、我にもなく剣を抜いていた。
 天陽の剣先は、珠帝の顔へと真っ直ぐに向けられている。剥き出しの戦意と敵意を目の当りにしても尚、少しも身動ぎしない女帝は、鋭くも微かに揺れる少女の双眸を見据えて艶笑を浮かべた。
 敵であるとはいえ、一国の国主に武器を突き付けることの意味は、麗蘭も十二分に心得ている。だが説明し難い「何か」が剣を握らせ、下ろさせようとしない。恐れていたはずの女傑から、視線を外させようとしない。
――私は……此の女が憎いのか。
 自覚して、麗蘭は衝撃を受けた。相手が敵であるとはいえ、此れまで他人に対し、瞭然たる憎悪の感情を抱いたことなど無かったのだ。
 自身の、そして妹の運命を捻じ曲げ、今なお弄ぼうとしている珠帝が許せない。此の場で糾弾し罪を認めさせねば気が済まない。明確に意識すると、尚更剣を下げられなく為る。
 そうした当惑を見抜いているのか、珠帝は余裕を保った表情のまま歩き出し、動かぬ麗蘭の横を通り過ぎて出口へと向かう。立ち止まって肩越しに彼女を見ると、出し抜けに耳を疑う言葉を口にした。
「蘭麗公主は此処にはおらぬ。取り返したくば仲間を追うが良い」
 余程、蘭麗を奪われぬ自信が有るのか。或いはやはり、蘭麗への関心を失ったのか。何の執着も感じさせない珠帝に対し、麗蘭は反応に迷う。
 やや目を細めて自分を注視してくる彼女に構わず、去りゆく珠帝。蘭麗に関する敵の真意を探れなかったことで、最後の発言が余計に気に為ってしまう。
 一方で、思わぬところで遭遇した宿敵を見逃して良いものか、追い掛けるべきかと判断に苦しむ。
『取り返したくば仲間を追うが良い』 
 優先すべきは考えるまでもなく、蘭麗救出。恭月塔であるという此処に彼女が居ない以上、手掛かりと為るのは珠帝の残した其の言葉のみ。
 当初感じていた黒の気も、今や欠片すら見えてこない。こうした状況の中、此の場に止まる必要は無くなっていた。
――蘢の許へ行けば、道が開ける気がする。
 根拠の薄い予感だけを頼りに、麗蘭は塔を出ると決める。抜き身の天陽を鞘に納め、珠帝が出て行った方へと歩いてゆく。
 途中、ふと足を止め、後ろを見返る。誰も居ない室には、此処に九年間閉じ込められていた蘭麗の幻影も、つい先程まで対決していた珠帝の残り香も無く、寂寥が広がるだけ。
――確かに居たのか、此の哀しげな室に。
 御簾の向こうには蘭麗が居て、窓から遥か故郷を眺め見ていたのだろうか。敵地の真ん中でたった一人、身の危険を覚えながら、屈辱に耐え続けてきたのだろうか。
 想像が膨らむにつれ、悔しさが込み上げる。罪悪感と怒りの感情を何処へ向かわせるべきか分からず、只唇を噛み締めることしか出来ない。
――迷うよりも先に……進まねば。
 深く呼吸して、出口へと踏み出す。あれ程気にしていた黒の気の存在については、何時しか麗蘭の頭から離れていた。
 以前魁斗も指摘していた珠帝と黒神の繋がりを、意識していない訳ではなかった。しかし、珠帝が黒神から譲り受けた力を用いて自分を誘き寄せたなどとは、思い及びもしなかった。
 残酷な白日夢の中、幾度も耳にした蘭麗の声。麗蘭を奮わせ、時に苦悩させてきた清らかな音色は遠ざかり、もはや聴こえない。彼女は妹を取り戻そうと逸る余り、其の訳を見付け出そうとはしなかった。憎き珠帝に依って失われた過去よりも、姉妹としての未来を奪い返すことばかりに心を傾けていたのだ。
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