金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十三.白き虎
 白林の城壁が崩され、多くの民や兵が妖に依って殺された日。蘢と麗蘭は新たな仲間魁斗と共に、琅華山を経由して茗を目指すことに決めた。
 魁斗が自分の滞在する宿へと戻った後に、蘢は再度白林城の瑛睡公を訪れていた。
 惨事の後処理を采州候に命じ、自らも増えた仕事に追われていた瑛睡は、蘢のために快く時間を作り、昼間同様彼を執務室に迎え入れた。暫しの間蘢の報告に耳を傾け、魁斗との合流と共闘や、明朝出立することと為った経緯などを聞いた。
 黄花梨の大机を挟んで立っている蘢は、普段通り至って沈着であり礼儀正しい。改めて部下と向かい合い、瑛睡は日中言わずにいた重要なことを伝えねばならないと思っていた。敢えて言及する必要は無いと考えて黙っていたが、白林であのような惨劇が起き、茗だけでなく非天の脅威も顕在化した今、瑛睡の心境も変化していた。
「おまえはあの青竜や玄武から、麗蘭さまを身を挺してお守りした。ゆえに言わずとも、既に覚悟しているとは思うが」
 言い掛けると、瑛睡は何か言いたげな蘢を見て言葉を切った。
「……麗蘭公主を助け、蘭麗公主を取り戻すために、私は茗の地で死ぬ覚悟です」
 そう聞いて、瑛睡は深く嘆息した。蘢が自分の言い出しにくい意を汲み、先回りしてしまうのは、往々にして有ることだ。
 率直なところ瑛睡は、未だ蘢と麗蘭の茗入りに反対していた。先刻蘢には「麗蘭が真の公主と為り、帝位を継ぐために必要」と告げたが、心底では納得していなかった。幾ら昊天君が同行してくれるとはいえ、若者たちを敵地の真ん中へ行かせるというのに、心中穏やかでいられなかった。
 協定に基づく停戦中であり、姫の命を握られている現状で、当然軍を送り込むわけにもいかない。聖安と恵帝に絶対の忠誠を誓い、かつ麗蘭公主の御身を預けられる程有能な剣士として迷わず推挙出来たのは、蘢を於いて他には居なかった。とはいえ、昔から目を掛けている前途有望な若者に死と隣り合わせの大業を背負わせるなど、とても気が気でなかった。
 そんな公の気持ちを知ってか知らずか、蘢の蒼い瞳には相も変わらず迷いが無い。瑛睡の手前見栄を張っているわけでも、何かを諦めているわけでもない。
「おまえには、上将軍に為り成し遂げたい夢が有るのだろう」
 二人の公主のために死ね、と命じようとしていたにも拘らず、瑛睡は矛盾する発言をしていた。若い彼が、落ち掛けた城を守る将の如き顔で、さも当たり前のように『殉ずる』と言ってのけたことに、複雑な思いを抱いた。しかし次の蘢の返答を聞いて、瑛睡は肩を撫で下ろした。
「其の夢も、お二人の帰還を無くしては成し得ません」
 此の少年は聖安にとって不可欠な男に為ると、出会った瞬間瑛睡に直感させた蘢の大志――其の輝きを、瑛睡は今再び彼の双眸に見出した。
「お二方の、聖安の未来のためなら、私は茗の地を喜んで死に場所としましょう――けれど、屹度生きて戻ります。どんな手段を使ってでも」
 其処まで言って、蘢は少しだけ口元を緩ませた。
「とはいえ、閣下の部下として、聖安の男として、誇りを失うことはいたしません」
 何時も通り、蘢は瑛睡の心を動かす程の余裕を感じさせる。だが其れでも尚、彼の身が案じられてならない。
 只一言「死ぬな」と、どれだけ言ってやりたいか。されど、決して言えはしない。命を擲てと口に出さずとも、茗へ送ること自体が二人の公主の盾に為れと言っているのも同然なのだから。
「おまえを信じているぞ」
 瑛睡が掛けてやれるたった一つの言葉に、蘢は彼らしい自信に満ちた笑顔で応えた。振り返ってみれば、こうした状況は初めてではない。信頼を示せば期した以上の結果で答えるのが、瑛睡の見込んだ蘢という青年である。
 強く頷いた蘢は、一礼して室を後にし、仲間たちの待つ宿へ戻って行った。


 



 道すがら出会った老媼に教えられた通り、囚われの姫君が移されたという館にやって来た蘢は、大勢の敵に包囲され戦っていた。
 良く馴染んだ細剣を閃かせ、間合いに入れた者を手心加えること無く斬ってゆく。情けを一切見せぬ戦い振りは、蘢の普段の柔らかさを知る者からすれば別人の如く映るだろう。
 鋼の意志は、不屈の精神は、肉体の限界をも超越して実力以上の潜在能力を引き出してくれる。玄武との戦いでも同じ感覚を知ったが、今程には明瞭に意識出来ていなかった。
 五人斬り十人斬り、其の後も夢中で斬ったが、途中で何が何だか解らなく為った。数年間、ほぼ休み無く戦場に出ている蘢は、敵を斬ることに慣れていたものの、少しの呵責を覚えぬ程冷淡に為り切れてはいない。しかし其れも、今は違う。暴風に似た激情が荒れ狂い、罪悪感を根刮ぎ拭い取ってしまったようだ。斯様に一心不乱に人を斬り続けたのは今回が初めてだった。 
 数度太刀を浴びたが深手は無く、全てが掠り傷。体力が尽きることも無く、蘢の戦いは止まらない。彼を駆り立てる原動力は、聖安人として、蘭麗姫を慕う者としての使命感や情熱なのか――そうでなければ、心奥に深く根付いた茗への恨みなのか。
 気付くと、視界から立っている敵は居なく為っていた。事切れた者や死なずとも動けなく為った者が其処中に倒れており、足下から呻き声が聞こえてくる。
 途中から無心で剣を振っていたため、全員を戦闘不能に出来たかどうか確かめる余裕が無かった。一人でも逃していれば、更に敵を増やすことに為り兼ねない。しかし、今の状況では如何にも出来ない。不覚を取り敵に囲まれた我が身を省みるよりも、自身の危機を回避するよりも、先を目指さねばならぬのだ。
 館からは先刻と変わらず大きな神気の存在を感じる。一対多数で迎え撃ったため呼吸は荒く為っているが、腕も脚も、未だ支障無く動いてくれる。復帰戦であるにも拘らず、むしろ何時も以上に自由が利く気がする。
――天真には感謝してもし切れないな。
 珪楽で別れた少年の顔を思い出し、声に出さずに呟くと、血振りをして鞘に剣を納める。倒した敵を避けながら、館の方へと走って行く。
 程無くして、煉瓦を積み上げた巨大な門に辿り着いた。高い壁が左右に伸びており、遠過ぎて端は見えない。此処にもやはり、数名の門兵が剣を抜いて待ち構えていた。
 向かい来る敵を返り討ち、立ち止まらずに中へと進む。前庭に居た幾名かの兵も斬って返り血を浴び、形を整えられた木々や石に囲まれた池の間を夢中で駆け抜ける。
 漸く建物の前に着き、精巧な木彫が施された扉を見上げると、上部に二頭の麒麟が向かい合う紋が彫り込まれていた。其れは即ち、茗皇家の所有物である証。老女の言にも有った通り、皇族の離宮か何かなのだろう。
 森の中に在るがゆえに、外からでは敷地の大きさを測りにくい。中に如何程の敵が居るのか、蘭麗姫が居るとすればどれ程奥に幽されているのか、見当も付かない。されど突入するしかない蘢は、警戒しつつも扉に手を掛けて開け放った。
 典型的な茗の建築様式に則り造られた邸宅だが、やはり単なる貴族の館ではない。家具は紫檀や黒檀などの銘木で拵えられた一級品で、上質な絹織物の壁掛けには麒麟紋が刺繍されている。翡翠や珊瑚、紫水晶や琥珀で出来た器や置物などが計算し尽くされた場所に置かれ、余分な物や周囲に見劣りする物が一切無い。
 内装、調度は豪奢であるが、屋敷内は薄暗くひっそりと静まり返っている。衛兵は推定より遙かに少なく、所々に少数の兵が居るのみ。装備からして彼らも禁軍ではなく、外で戦った男たちと同じ一団のようだ。
 侵入者を見て何の動揺も示さぬのを見るに、蘢が来ると予め知っていたことが窺える。だが事前に察知しているにしては屋内の防備が手薄過ぎる。表で襲ってきた者の人数に比べ、人員配分の仕方が極端に違う。
 全貌を把握出来ない敵の懐の中で、唯一頼りと為るのは神人の存在を示す神気だけ。追っている大きな波動を目指し、更に内奥へと進んでゆく。
――神気は二つ。僕の勘が正しければ、四神『白虎』と……蘭麗姫。
 二つの気は離れた所に在り、うち一つには着実に近付いている。蘭麗とは昔一度会ったことが有るとはいえ、かなりの年月を経ている今、どちらの気が彼女のものか確信は持てない。
 退路を考え自身の位置を見失わぬよう、頭で地図を描き目印と為る物を記憶する。最初に入った建物を抜けると屋根の有る渡り廊に出て、主殿と思しき所に着いた。
 途中幾人かの兵を倒しつつ、やがて四十畳程の広間に出た。床は一面御影石が敷き詰められ、四方の壁は王の間であることを示す青色。奥の壇上には金色の玉座が据えられている。両側の壁に設えられた燭台の光や、天窓より流れ込む夕日が寂しげに室内を照らす。そして室の中央には――一人の男が立っていた。
 蘢が感じ取った強い神力の持ち主は、紛れもなく此の男。他の兵達とは異なる黒装束で身を包み、腰帯に二剣を携えている。
「蒼稀上校か」
 確信に満ちた問いには否定も肯定もせず、蘢は逆に尋ねた。
「貴殿は」
「白虎、と名乗れば認識出来るか」
 予想していたものの、思わず耳を疑ってしまう。四神の一を名乗る此の男は、青竜や玄武とは風貌をまるで異にしていたのだ。
 線が細く中性的で、顔の造形からか相当若く見える。若く見積もっても蘢よりも二十才近く上のはずだが、とてもそうは見えない。
 如何にも強者らしい他二人の四神とは違う、独特の存在感。紫色の双瞳が放つ刺すような眼光の威力は、鷹と呼ばれた玄武の其れに引けを取らない。洞穴の奥で耽耽とする虎狼の如く、対した相手を居竦ませ慄かせる冷気を帯びていた。
「大御史殿、此方には時間が無いので単刀直入に伺う。此処に我らの公主は居られるか?」
 反応に期待せずに尋ねると、白虎は抑揚の無い声で返してくる。
「答える積もりは無い。其れに問うてみずとも、薄々気付いているのだろう」
 こうした答えを聞いて、蘢は白虎が一筋縄ではいかぬ男だと悟る。実際に姫が居るか否かは別として、無回答よりも此の返答の方が相手の動揺を誘えると見抜いているのだ。
 現に、蘭麗公主が此処に居るという確信を強めている蘢は、彼女が気になって仕方がない。彼女に対し特別な想いを抱いている分尚更だ。今対峙している白虎に注意を向けねばならぬのに、彼の発言に依って容易く思考の乱れを増長させられてしまう。
 敢えて何かを言われずとも、蘢は白虎と剣を交えねばならぬと察していた。面には出していないものの、相手には明確な闘志が在り、其れを押さえ込んでいるようにも見えなかったためだ。
――武器は、短い双剣。
 腰に差している二本の剣は、いずれも刃長が短く華奢なもの。細身の体躯から見ても、力で押し切る型ではないだろう。
 青竜や玄武とは異なり情報が無いに等しい分、得物や体格から戦い方を推考せざるを得ない。蘢は己の剣の鞘に手を掛けつつ、出方を見極めようとしていた。
 対する白虎の方も、片方の剣のみ柄を掴んで半歩引き下がる。静謐な広間の中心から緊迫感が満ちてゆき、命のやり取りをする際特有の息苦しい空気が流れる。
 聖安の都を発ってから、強敵との死闘を三度経験した。いずれも生きて切り抜けてきたが、此の戦い程負けられないと感じることは無かった。敵が茗の四神である以上、敗北は死を意味する。しかし蘢にとっては其の死よりも、自分が蘭麗姫を救えない未来の方が怖ろしかった。此処で白虎を倒せず、麗蘭に更なる危険が迫ることの方が耐えられなかった。
……剣を抜いたのはほぼ同時。僅かに白虎が早かったかもしれぬ。上段を取った白虎が打ち下ろしてくるのを低めの位置で受け止めた蘢は、勢いを付けて前へ押し出した。
 剣が短い分、白虎の方が動きは速く為るが、攻撃力では蘢の剣に劣る。機先を制された場合、初めの太刀を躱して隙を突き、一気に畳み掛ける――頭に描いた通り、蘢は素早く剣を振り抜き二撃、三撃と打ち込んでゆく。
 速さには自信の有る蘢だが、連撃は全て難なく弾かれていた。剣の軽さを活かした白虎の防御力は高く、間隙を生じさせない。蘢の打突に応じて手首を回し負担を最小にしながら、摺り上げたり摺り下げたりして防いでしまう。
 白虎の剣は、かつて蘢が戦った玄武とは対照的な剣だった。玄武の剣捌きが天性の武才が齎す型に嵌まらぬものだったのに対し、白虎の太刀筋は実に美しい、型に忠実なもの。玄武の剣撃のような激烈な勢いは無いが、効率的な動きで蘢の剣を受け流して攻めに回り、喉元などの急所を確実に狙ってくる。
 劣勢に陥っているという程ではないものの、なかなか中てることの出来ない蘢は早くも苛立ち始めていた。彼の性格から言って、此れしきの膠着状態で焦燥することなど珍しいのだが、やはり今回の戦いは違う。良くないと知っていても、平静を保てずにいる――しかし、其れも長くは続かなかった。
 鍔迫り合いの最中、白虎の押し込みで蘢が崩れ、身体を引いた白虎が間合いから飛び出した。残っていた腰の剣に左手を掛けると、不自由さを感じさせない手付きで抜き払い、中段で二剣を交差させて構える。
――やはり二刀使いか。
 想定はしていたが、いざ剣を合わせると為ると戦い方に迷わされる。二刀流は学ぶ者が少なく、蘢自身ほんの数回しか戦ったことがないのだ。
 十分に考える間も無く、白虎が先制して右の剣を薙ぐ。蘢が己の剣で受け止めると、空かさず頭上から左手に依る斬撃が降ってくる。幾度か斬り結ぶうちに、白虎が自在に操る二剣の連撃に耐えられなく為る。
 守りが緩んで切り崩され、身を引き剣先を避けようとするが間に合わない。蘢は左肩を斬られ、もう片方からの二撃目を剣で弾き返す。後方に退いて遠間に離れると、衣服の下で血が流れている左腕をだらりと下ろした。
 血を止める余裕は無い。呪を唱えるどころか、腕を押さえる間さえ命取りに為る。打たせる隙を見せれば、白虎は瞬く間に間合いを詰めてくるだろう。
 両者共に睨み合い、相手の出方を窺う。戦い始めてから暫く経ち、それぞれが疲れを見せていたが、内に秘めた激情は双方少しも衰えていない。館の前で大勢に襲撃された蘢は、消耗した体力を気力で補い戦気を漲らせていたし、二本目の剣を抜いてからは押しているように見える白虎にも、気を緩める様子が全く無い。
 合わせた剣を通じて、何時しか蘢も勘付いていた。白虎の心中を見たわけではないが、彼もまた、負けられない戦いに身を投じているのだと。彼の強さは其の覚悟から生み出されているのだと。
 腕だけで言えば、白虎より玄武の方が上。珪楽で二度目に戦った玄武は余りに手強く、其の名の通りの『猛禽』だった。だが白虎の冷たくも激しい気迫は玄武とは別のところから来ており、勝利に対する執着は確かに玄武を上回っている。
――負けられない。負ければ全てが終わる。
 勝たねばならぬのは蘢とて同じ。蘭麗姫の御前に勝者として参じ、長き苦難から姫を解き放てなければ、懐かしきあの出会いの日以降の自分は死んだも同然――幼い自分を救ってくれた彼女への恩を返せなければ、たとえ戦いから生還したとしても先へは進めぬだろう。
――瑛睡閣下にも、生きて戻ると誓ったんだ。
 蘢は白虎の双剣へと視線を下げ、何かを決心したかのように再び前を見据えた。彼が地を蹴ると、白虎も剣気を立ち昇らせる。
 剣を其の場に落として捨てたかと思えば、振り下ろされる白虎の刃を物ともせず、彼の懐に飛び込んでゆく。頭上からの太刀を紙一重で避け、白虎の右手を両手で掴み、捻り上げて剣を奪い取った。
 其のまま白虎の動きを制そうと試みるが、阻まれる。敵は武器を持ったままの左腕で、蘢の頸椎目掛けて肘鉄を繰り出した。
 身を翻して逃れた蘢は、素早く離れて体勢を立て直す。もぎ取った剣を正眼に構えようとしたところで、既に白虎が眼前に迫っていた。
 何時の間に剣を捨てていた白虎は、防御させる時間すら与えず蘢の手首に手刀を打ち込む。反応に遅れた蘢が剣を取り落とすと同時に胸部を強く蹴り上げ、続けざまに右頬を殴打した。
 白虎の体術は蘢の思っていた以上に鮮やかで、相当な年月の間修練を積んだであろうことが窺える。一撃目の蹴りは胸骨、二撃目の拳はこめかみと、どちらも急所を狙ったもので、蘢が咄嗟にずらせていなければ動けなく為っていただろう。
 後ろに倒れれば、今度は頭部を踏み付けられ潰されかねない。ふらつく両脚に力を入れ辛うじて止まると、何とか呪を唱えて風を纏う。瞬間的に神力を爆発させ、次の拳打を仕掛けようとしていた白虎を遠間へと撥ね飛ばした。



 寝台の上で蒲団も掛けず、転寝していた蘭麗は、冷やりとした寒さに独り目を覚ました。
 茗は一年を通じて祖国聖安よりも温暖だが、冬に近付くと徐々に気温が下がりゆく。窓が無いため外の様子は分からないが、今は屹度夕暮れ時か、既に夜を迎えているのかもしれない。
 中途半端な時刻に寝てしまった所為か、軽い頭痛がする。女官に命じて水を持ってこさせようとするが、呼び掛けても返答が無い。
 室内に蘭麗を監視する者は居ない。眠りに就く前に室の直ぐ外、扉の向こう側に居た白虎の気配も感じられない。
 ぼんやりとした瞳で、静寂な室を見渡してみる。気を紛らわせるために使えそうな物は、もはや残っていない。持参した数冊の書物も、少し目を通しただけで飽きてしまった。というより、何も読む気がしない。白虎が選んでくれた本だというだけで、彼を思い出してしまうこともある。
 此れまで如何しても困った時は、窓から遠い故郷の方向を眺め見て、あれこれと思いを馳せたものだった――だが此の檻には窓すら無い。有ったとしても、正しい方角が分からないのでどちらを向けば良いか迷ってしまうだろう。
 ふと、床に置いてある脚の無い長櫃が目に付く。蘭麗が塔から持ち出した物ではない。此処に来た時から在ったことには気付いていたが、特段興味を引かれず開けぬままと為っていた。
 何とはなしに蓋を持ち上げたところ、底に一本の細長いものが在るだけで、他には何も入っていなかった。
「此れは……」
 取り出してみると、其れは黒漆塗りの懐剣であった。反射的に辺りを見回し、誰も見ていないことを確かめる。もう一度手元へ視線を移して目を細めてみるも、見間違いではないようだ。
 場所からして、態と目に付く所に置かれた訳ではないが、隠されていたようにも見えない。蘭麗が移ってくる前に片付け忘れたと考えるにも、不可解さが残る。
 蘭麗は幽閉されてから、只の一度も刃物類を手にしたことがない。刃物だけでなく、武器に成り得たり自決に使えそうなものは全て遠ざけられている。
――彼にしては甘いわね。
 不審に思いながら、初めて持つ短刀を恐る恐る鞘から抜いてみると、磨かれて斬れ味の良さそうな銀色の刃が覗く。
 鈍らではなく、意図的に残されたとしか思えぬ短刀に、密室に閉じ込められている今の状況。蘭麗の頭には、恐ろしい想見が過る。
――私に、自ら命を絶てと言っているの?
 何故そんな推測をし始めたのか、良く解らない。しかし紫暗の言を断片的に思い出すと、徐々に其れが正しいという気がしてならなく為る。
『貴女を聖安の者には渡さない――私の任は其れだけです。其れがお嫌なら、御自分のお力で何とかなさることだ』
 彼が斯様なことを口にした理由が、元より蘭麗には読めなかった。自由に身動き出来ない無力な自分に『自力で』道を開けと言う真意が、如何しても見えなかった。
 恭月塔に居た頃、逃げ場を失くして窓から身を投げようとしたことが有る。何度かは本気で実行しようとしたが、其の度踏み止まった。未だ見ぬ大切な人々への未練や、公主としての――人柱としての責任感が、何時も思い止まらせてきたのだ。
 塔より移され一日中紫暗に見張られているのは、先日の襲撃のことも有るだろうが、麗蘭たちが近付いているためなのだろう。珠帝の狙いが麗蘭である以上、彼女を誘き出してしまえば、いよいよ自分は用済みに為るのかもしれない。
 誇り高き聖安の皇族の血が、憎き敵に依って流される――屈辱的で、絶望的な未来が迫っている。其のような辱めを受けるよりは自刃して果てよという、紫暗なりの情けなのだろうか。或いは、珠帝の計らいなのだろうか。
 小刀を持つ両の手が小刻みに震え出す。もう一度辺りを見回すが、やはり誰も居ない。
 もし紫暗や珠帝の故意でないのなら、いずれ武器は取り上げられてしまうだろう。長い間隠しておける場所も此処には無い。
 ところが今しかないと思うと、途端に足が竦んでしまう。今は未だ時ではないと、信じていたい自分を見付けて項垂れる。
――此のまま……死んだとして。其れこそ敵の思う壺ではないかしら。私を体良く消せるのだから。
 逡巡を繰り返しては、自己否定の底へと沈みゆく。短刀を戻すことも、自身の胸に突き立てることも出来ずに、時だけが経過していく。
……どれだけの時間が経っただろうか。蘭麗が我に返ったのは、室の外で起きている異変に気付いた時だった。
 何処か遠くで、大きな神力が爆ぜるのを感じた。館の全体像を掴めていないため、どの辺りで起きたのか見当が付かない。落ち着いて感覚を研ぎ澄ませてみると、紫暗のものに加え、知らない人物の神気を探り当てた。
 大きさや明度は紫暗と同程度で、真っ直ぐで純粋な強さ。相鬩ぎ合い、明滅を繰り返している二つの神気は、蘭麗にある直感を起こさせた。
――誰かが戦っている。白虎と誰かが……?
 神力の衝突を追うと、紫暗の神力が激しい振れ幅で変動している。余裕を持てる相手ではなく、力が拮抗しているか劣勢に立っているかのどちらかだろう。
 果たし合いなど、実際に見たことがないので想像に過ぎないが、苦戦する敵であれば紫暗も戦いに集中しているはず。此方への注意も疎かになっているはず――と、蘭麗は考えた。
――逃げるなら、今。
 其処まで思案を巡らせたところで、蘭麗は息を呑んだ。自決するかどうかを悩んでいたというのに、突然如何やって逃走するかという問いが浮かんだのが不思議だったのだ。
 思考が錯綜し、混乱する。鞘に納めた小刀を胸元で抱き締め、ぴたりと閉められた出口の戸をじっと見詰める。恭月塔の居室の戸とは異なり、此方の木で作られた戸ならば何とか破れそうだ。
 強い神人である母や、光龍である姉の神力は、蘭麗にも色濃く受け継がれている。紫暗が戦いに気を取られているとすれば、力を発して戸を破壊し逃げ出したとしても気付かぬかもしれぬ。だが室から出られたとしても、立ちはだかる兵たちから如何にして逃げ切るかという問題も有る。
 そして同時に気に為ったのが――紫暗と戦っているであろう者の存在だった。
――もしかして、今度こそ……姉上?
 自問してみるが、答えは否と分かっている。以前夢の中で出会った際に感じた姉の光は、桁違いに輝いていた。
 目を閉じると、恭月塔で目撃した死体の山を否が応でも思い出してしまう。胸を切り裂かれる痛みが襲い来て、二度と同じ犠牲を出してはならぬという思いを強くする。
 たとえ姉でないとしても、誰であろうと自分の側で人が死ぬのには耐えられない。更に言えば、此れ以上紫暗に人を殺して欲しくないという深層の心が有ったが、蘭麗に其の自覚は無かった。
 顔を上げた蘭麗は、戸の前へと歩み出る。身の内に宿る力を感じながら、決意の瞳で扉の向こうを見据えていた。




 神力を弾けさせ、辛くも白虎を吹き飛ばした蘢は、胸を押さえて右膝を地につけた。頬を殴られた際に口の奥が切れたらしく、得も言われぬ血の味が喉へと広がってゆく。
 対する白虎は、機敏な動きで上手く着地し全身を打つのは免れたものの、左足を痛めた。未だ立ち上がれるが、速さは落ちるであろうし、蹴撃には支障が出るだろう。
 剣と剣との対決において、不利な場面であっても神力での攻撃は出来るだけ避ける――蘢の何時もの戦い方だ。瞬時に判断したこととはいえ、其れだけ彼は必死であった。悔いが残らぬとは言えないが、瑛睡にも告げたとおり、如何なる手段を以てしても勝たねばならぬのだ。
 互いに間隔を取ったまま様子を窺い、次の戦術を考える。幕間と雖も、双方の殺気は収まるどころか盛んに為るばかり。二人共剣を手放しており、それぞれ武器から離れた位置に居る。此のままいけば、後半戦は徒手空拳の戦と為りそうだ。
 数撃喰らわされただけでも、白虎の体術は格段に優れていると認めざるを得ない。蘢も自信が無いわけではないが、剣術の方を得意としているのは事実。優勢に立てるとは言い切れない。
 身体を白虎へ向けたまま、彼の後ろに在る自身の剣を一瞥すると、蘢は動き出した。右拳で敵の額を突こうとするも横に躱され、後の先で顔面を攻撃される。標的は蘢の眼球――白虎が眼窩に突き込もうとした指を、蘢が手の甲で弾いて防ぐ。
 どちらも引くこと無しに技を掛け合い、剣での戦いと同様膠着状態と為る。共に相手が傷を負っている左側を集中的に狙うが、突きも蹴りも入らない。
 勝機が見えず体力だけが奪われてゆき、剣を拾う隙も見出せない。過酷な戦いが続く中、一歩先に出たのは白虎だった。
 蘢の拳を右の掌で受け止めると、透かさず腕を絡め取り投げ倒そうとする。此の殺し合いにおいて、身を地へ沈めるは死に通じる。蘢は歯を食いしばって左手を己が懐に差し入れ、忍ばせておいた匕首を抜いた。
 気付いた白虎に防ぐ間も与えず、右大腿に突き立てる。短い刃ではあるが深く抉り、太い血脈を損傷させて失血を狙う。痛みに顔を歪めた白虎は蘢の鳩尾に下方から拳打を加え、無理に彼を引き離した。
 腹部を抱えて後ろへ下がった蘢は、よろめきながらも急ぎ前を直視する。白虎は足に刺さった匕首を抜き捨て、血が噴き出ている刺し傷を掌で押さえ付けていた。蘢は其の隙に間合いを詰めようとしたが、急所への一撃が効き目眩で動けなかった。
――致命傷は与えられなかったけれど、此れで幾らか自由を奪えたはず。
 剣を手放した際の護身用に持っていた匕首は、あの一本のみ。勝機を作るために、また別の一手を考えねばならない。
 一対一の戦いでは正々堂々と臨む蘢が、命が危うく為った場面とはいえ暗器を用いて反撃するなど初めてのこと。蘢に関する情報を事前に集めていた白虎にとっても、斯様な形で不意を突かれるとは意外だった。
 蘢自身、何時もなら己を戒め決して使わぬ手だが、此の戦いは違う。戦法など、紫蘭の君を取り戻すためならば納得の上で変えられる。
『屹度生きて戻ります。どんな手段を使ってでも。とはいえ、閣下の部下として、聖安の男として、誇りを失うことはいたしません』
 国の宝であり、思い出の中の大切な姫君を救い出すことこそが、蘢にとっての誇り。後に此の決闘を知り、彼を蔑む者が現れようと構いはしない。姫を捜すために、先ずは白虎を倒さねば始まらない。
 苦しげに肩を上下させる蘢に、大量の血を流して痛みに耐える白虎。戦いの最中、殆ど言葉を交わすことは無かったが、始めの頃から相互に感じていた勝利への執心は、薄まるどころか一層濃くなるばかりだった。
 立場は異なれど、勝って目的を達そうとする意志は強力であり、しかも其の目的は共通している――「紫蘭の君」であり「月白姫」でもある、たった一人の少女だ。
「行くぞ」
 短く言い捨て、先に動いたのは白虎だった。足に怪我を負っているとは思えぬ俊敏さで走り出し、蘢との距離を詰めてゆく。身構える蘢だったが、白虎の両手で青白い炎が練られているのに気付き、反射的に防御の呪を唱え始めた。
 僅かの間に火炎を膨らませた白虎は、容赦無く蘢へと放つ。人一人を飲み込む程大きな火に襲われるが、既のところで防壁を完成させて食い止める。壁に阻まれた炎は、徐々に鎮火され空中に散じて無く為った。
 神力の焔が消え去ると、蘢の神術も解けて護りが失われる。剣鞘を拾っていた白虎は、底を蘢へ向けていた。
 防ぐ間も無く鉄拵の棒で胸部を突かれた蘢は、一撃で複数の肋骨を砕かれる。続いて握り拳で下から顎を突き上げられ、後方へ飛ばされて仰向けに倒れ伏した。
 打撃に速さと重さが足りず、顎が砕けることは無かったものの、脳が震盪し蘢は意識を失っていた。天井を向いたままで、白虎が近くに立っているのにも拘らず目を閉じ微動だにしない。
 傍目からは、蘢は生きているようにも死んでいるようにも見える。白虎は彼の生死を確かめもせず、只見下ろしているのみだった。
――成る程、緑鷹を倒したというのも、納得出来ぬ話ではない。
 未だ若いとはいえ、聖安の「天才」の剣腕は申し分無い。多数の兵をぶつけて疲弊させていなければ、もっと苦戦していただろう。其れに同行しているという麗蘭公主を引き離せていなければ、結果は変わっていたかもしれない。
 蘭麗姫を恭月塔から此の屋敷に移動させたのは、珠帝の命に依る。何も語らなかった主のはっきりとした意図は推し量れない。だが白虎は、珠帝が此の展開を全て見通していたのではないかと考えていた。蘢と麗蘭が別行動を取り、蘢の方が蘭麗の居る此方へと引き寄せられることを。
 戦いを制してからも、白虎は脚の止血すら忘れていた。刺傷からは止め処無く血が流れ、痛みの感覚が麻痺し始めている。血を失くし過ぎた所為で、思考が上手く働かなく為ってくる。
――上校を、殺さなければ。
 殺さないという選択肢は無い。茗にとっての敵だからでも、旧友であった緑鷹を負かしたからでもなく、此の青年が月白姫を奪還せんとしているからだ。長い長い時間、姫を取り返そうとする者は全て白虎が殺すべき敵だった。聖安の若者が死に、姫がまたも嘆こうと、構わず排除せねばならぬのだ。
「月白姫は――渡さん」
 乱れた呼吸を鎮めつつ、我知らず言い放つ。落ちていた双剣のうち片方を拾いに行き、右脚を引き摺りながら戻って来た。
 剣を両手で握って持ち上げ、蘢の心の臓へと狙いを付ける。彼の胸に剣先を落とそうとしていた時、背後から何者かの張り上げた声が聴こえた。
「白虎!」
 己を呼ぶ其の声は、長年良く聞き知った「彼の女」の声に似ていた。されど、直ぐに人違いだと思い直した。貴い身分に生まれ付いた彼女の声は、あのように大きくは為らない。あれだけ泣き腫らした後では、もっと掠れているに違いない。そして何より――自分に対して斯様に敵意を孕んだ声で呼び掛けるなど、有り得ない。
「白虎!」
 気付けば、覇気に富んだ声の持ち主が駆け寄って来ていた。其の娘が蘭麗であるという現実を受け入れる前に、彼女が手にした短刀が白虎の後腰に突き刺さっていた。
――何故、姫が?
 驚愕しながら下を見やると、蘭麗の震える両手が短刀を引き抜いていく。白虎の腰を抉った刃と姫の美しい手を、深紅の血が濡らして滴り落ちていた。
 苦悶の声一つ漏らさずに、白虎は手で傷を押さえ付けて地に膝をつく。姫が意図して其処を刺したとは思えないが、内臓を傷付けられたらしく出血が酷い。
――何故姫が武器を?
 搭から此方に移る前、女官に室内を入念に調べさせて殺傷力の有る物は全て排除したはずだ。
――「女官に調べさせた」……だと。
 脱出や自害を僅かでも可能にする物を姫から遠ざけるというのは、紫暗が第一に徹底せねばならぬこと。斯様に重大な事項を他人に任せ切りにするなど、今から考えれば甘過ぎる愚かな所業だ。
――姫の部屋から此処までの間にも兵を置いていたはず。其れらも全て振り切って来たというのか?
 蒼稀上校を警戒し兵力の殆どを館の入口に割いたため、姫を見張る人員が不十分だったのは否めない。剣を振るえずとも、姫が宿す神力を以てすれば振り離すことは可能だっただろう。
 荒波の如き激痛に苛まれ、血潮と共に力が抜け膝立ちしているだけでも辛く為ってくる。其れでも頭は不思議な程はっきりとして、此処数日で姫と交わした言葉の数々が甦ってくる。
『貴女を聖安の者には渡さない――私の任は其れだけです。其れがお嫌なら、御自分のお力で何とかなさることだ』
――如何してあのようなことを口走ったのだろう。
 無力な姫を嘲る積もりで言ったのではない。彼女には到底出来ぬと思っているから出た発言ではない。其のように月白姫を軽んじたことなど、此の九年間で一度たりとて無い。
――では、何故だ。言葉通り姫に「何とかして欲しい」と思ったというのか? 俺の手から抜け出て逃れて欲しいと、俺自身が望んだとでも?
 月白姫は放心したまま、愛らしい両の瞳から汚れ無い涙を溢れさせている。彼女が何故泣いているのか分からぬ程、白虎の心は凍っていない――いや、姫と出会い九年という年月を経ていなければ、凍ったままだったやもしれぬ。
――そなたは、此処から……俺の手から逃れることを、望んでいるのだな。
「其れで……良い。月白姫」
「え……?」
 何が「其れで良い」のか、蘭麗にはさっぱり見えない。彼が何故、また懐かしい名で呼んだのかも分からない。白虎に続きを促すような視線を送っても、傷口を片手で押さえて苦しみ息を漏らすのみで、顔を伏せてしまった。
 人を剣で刺せば如何為るのか、蘭麗はちゃんと知っている積もりだった。白虎を敵と見なすと決めてからというもの、覚悟は出来ていたはずだった。だからこそ此の憎い男に――珠帝と共謀して自分を捕虜として扱い続け、聖安の剣士たちを虫螻の如く殺してきた四神の白虎に、公主として制裁を加えたのだ。
「だって……こうしなければ、貴方はまた一人……殺していた」
 頭の中で渦巻いている思考と口から出る言葉が喰い違い、心と身体の震撼が止まらない。大人びてはいても一人の少女に過ぎぬ蘭麗には、感情の激動をどうして良いのか分からない。
――もう、此の男のために泣くことは無いと……決めたはずなのに。
 自分の心も白虎の心も分からず動転し、短刀を手から滑り落として倒れた白虎を見下ろす。彼を刺した理由すら忘れ、血を止める神術を使うべく屈もうとしたが、我に返り止まる。少し先で伏している、重傷を負った蒼い髪の青年が目に入ったのだ。命を懸けて白虎と戦ってくれたのであろう、真に助けるべき青年が。
 白虎を一瞥して離れる瞬間、蘭麗は彼が自分を見て微笑んでいるのに気付く。彼女が初めて目にする男の笑みは、氷刃の如き男には似つかわしくない優しいものだった。
「しっかりして!」
 蘭麗は蘢の許まで来ると、手に付いた紫暗の血を自身の着物で拭き取り、流れ続ける涙も袖で拭って困惑を振り切った。床に膝をついて、死んだように動かない青年を覗き込み、彼の胸に耳を当てて心音を確かめる。
――良かった。気を失っているだけ。
 安心するも、悪い状態には変わりない。力の無い蘢の右手を取り瞑目すると、以前書物で学んだ呪をうろ覚えながらも唱え始めた。
 此処まで来るのに力を使い続けた所為で、神力は限られている。残りの神気で全身の傷を癒し、彼の命を繋ぎ止めねばならない。
 温かい光が蘭麗の掌より生まれ、見る見るうちに二人を包んでゆく。其の輝きは朧に白く、傷付いた蘢に降り注ぐ。
 彼女の齎す神光は、かつて麗蘭が蘢を救った時に発したものと比べればやや心許無い。しかし姉の力と良く似た温かさが有り柔らかさが有り、麗らかさが有った。其れはまるで、二人の少女が同様に高潔な魂を持つこと、宿で結ばれた姉妹であることを示しているかのようだった。
 そう時間が経たぬうちに、蘢が反応を見せ始めた。閉じられていた瞼が揺れ、ゆっくりと目を開けてゆく。収まり掛けていた光が眩しかったのか、腕を上げて眼界を遮った。
「貴女は……」
 ぼやけていた視界が徐々に明るく為り、蘢は自身を見詰める少女の姿を認識する。顔を紅く染め頬を涙で濡らしている彼女に、一瞬にして心を奪われてしまう――胡桃色の髪と月白色の双眸を持つ少女は、九年間蘢が焦がれ続けてきた姫君其の人だったのだ。
 ほんの少し前まで意識を失っていたとは思えぬ程の素早さで、蘢は上体を起こして立て膝を付いた。驚いた少女が立ち上がると、無理を押して自身も立ち、畏まって首を垂れる。
「お初にお目に掛かります。私は聖安禁軍、瑛睡公麾下の上校蒼稀蘢と申します」
 幼少のみぎりから幾度も思い描いた通り、極力冷静で柔和に、最大の敬意を篭め改めて膝を屈する。全身至る所に鈍い痛みを感じていた所為か、動きがどうも滑らかでない。
「面を上げてください」
 慈しみ深く労う声は、恵帝のものに似た麗しく耳触りの良い声だが涙声であった。頭を上げる際、緊張の面持ちを隠すよう努めてみたものの、ますます肩に力が入り上手くいったか否か自信が無い。
「私は聖安帝国公主、清蘭麗」
 凛然として名乗った少女は、正しく『紫蘭の君』。幼い頃の面影を残しつつ、可憐な白花の如く――或いは眩い皓月さながらに、清雅なる成長を遂げた姫君。
 直感が当たっていたと分かり、蘢の心音は更に大きく速く為る。身体の奥底から歓びが迸り、魂を震わせ横溢する。
 感極まって言葉を失くし、非礼にも姫の尊顔に見入ってしまいそうに為るが、我に返り粛然と告げる。
「母君、恵帝陛下の勅命により、貴女をお迎えに参りました」
 言いながら、血で汚れた自身の身形が酷いことに気付いて呆れてしまう。初めて姫に見えた際、己のみすぼらしさを恥じ悔しくて堪らず、身を立て名を揚げると誓ったものだったが、結局格好だけで言えばあの時とさして変わらぬではないか――と。
 右手を胸に当て、もう一度深く頭を下げる。痛みと疲労で身体が震えるのを抑え付けて少しも動かず泰然とした蘢は、武の者としての美しさに輝いていた。
 命を賭して己を救いに来てくれた立派な青年に、蘭麗は純粋なる敬意を表して右手を差し伸べる。
「大儀でした。蒼稀上校」
 自身に向けられた姫からの慈愛と褒賞に、数瞬戸惑い反応に迷う。されど蘢は其の当惑を微塵にも見せず、蘭麗の小さな手を取り恭しげに口付けた。
「有り難き幸せにございます」
 此の御手に、畏れ多くも今暫く触れていたい――そんな誘惑に駆られそうに為るも、我に返った蘢は姫の手を静かに離す。戦闘に依って血や埃に塗れた自分の手が、彼女を汚すのを恐れたのだ。
 幾年幾度も夢に見た紫蘭の君との再会に浸れる時間は、そう長くはなかった。蘢はつい先刻まで死闘を繰り広げた白虎のことを思い出し、広間内を回視する。残されていたのは双剣の一本と赤黒い血溜まり、其処から出口に向かって点々と落ちている血のみだった。
「蘭麗公主。私の傷は、貴女が……?」
 意識を失う前に負った一番の深手は、肋骨を折られた胸部だったはず。未だに痛みは有るものの、骨が折れている感じはしない。
「……はい」
 公主が頷いたのを認めると、蘢は改めて謝意を示し低頭する。
「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません。ありがとうございます」
 蘢は焦っていた。あれ程の重傷が此処まで回復しているのを見るに、治癒術で相当の神力を使わせてしまったに違いない。姫の許に着き喜んでいた先程までの自分が恥ずかしく、愚かしく思えて我慢ならない。
「あの男が……四神の白虎が此処に居りませんでしたか」
「い……いいえ。私が来た時には、貴方しか」
 蘭麗は咄嗟に嘘を吐いていた。自分が白虎を短剣で刺したという真実はしまっておいた方が良い――言えば此の忠義に厚く崇高な剣士は失望し、姫の手を汚させた自身を責めるに違いない。
 また蘭麗は、何時の間に白虎が居なく為っていたことに動揺していた。あの重傷で、蘢を治している間に立ち去ったというのか。現在彼の気配を見付けられないのは、彼が館から離れた所為なのか、或いは途中で力尽き命を落としたからなのか。
 戦いの最中、白虎から尋常ではない殺気を感じていたことも有り、蘢は姫の返答に若干の違和感を覚えたが、其れ以上は問わなかった。彼女の着物や手にも少量の血が付いていることが気に為ったものの、恐らく自分を助けた時に付いたものとだと己を得心させた。
――とにかく、姫をお連れすることが先だ。
 訊きたいことは他にも数多く有るが、今は先ず、脱出して麗蘭と合流しなければならない。一刻も早く此の姉妹を会わせてやらねばならない。
「公主殿下、一先ず此処を離れましょう。姉君の麗蘭公主も、直ぐ近くまでお出でです」
「……やはり、姉上が居らしているのですね」
 さして驚いている様子はなく、かと言って嬉しさに満ち溢れている様子もない。蘢には蘭麗の心底が分かりかねたが、少なくとも彼女が麗蘭の来訪を予見していたことは確かだ。
 何かに悩むような姫の表情を気にしつつ、蘢は会釈をした後落ちている自分の剣を拾いに行く。焦がれに焦がれた再会を果たし、其の幸福に浸っていたいと思うものの、ゆるりとしている時間は無い。
「参りましょう。敵が何時戻るとも知れません」
 公主を護り抜く気魄は無論、残っている。しかし、体力が疾うに限界を迎えているのは否定出来ない。次なる強敵が現れてなお生き残り、姫を奪い返されぬ自信が十二分に有るとは言えない。
 片腕を広げて促す蘢に、蘭麗も小さく頷いてみせた。
「……はい」
 目の前の青年に感謝しながらも、蘭麗は未だに急激な展開を受け入れ切れずにいた。九年もの歳月囚われていた牢獄を脱し、自由を取り戻した現実を実感出来ずにいた。己を監視し、近付く者は容赦なく惨殺してきた『白虎』に対し、『復讐』を為し遂げた自分自身が、何処か遠い存在のように思えてならなかった。
――『紫暗』
 彼の者の語りに興じ、寂しさを忘れられた夜や、彼の者の言葉に迷い、涙した夜。そんな夜は、もう二度と来ないであろう。
――お別れですね。
 蘭麗は、既に此の場を去り生死も定かでない紫暗に別れを告げた。そして其の別離こそが、彼女の新たな人生の始まりでもあったのだ。
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