金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十四.想い、交錯する
 珠帝との予期せぬ出会いの後、麗蘭は急いで恭月塔を下り、蘢を探すのに気持ちを集中させ始めた。
 搭から出ると入口の前に立ち、蘢と別れた辺りの方へと身体を向けて目を閉じる。黒神の気はもはや無く、麗蘭が神力を振るうのを妨げるものは何も無い。
 天陽を得て巫女としての能力を強めた麗蘭にとっては、離れた所に居る神人の探知もそう難しい業ではない。共に旅をし、気の特徴を知り尽くしている蘢ならば尚更見付け易い。程無くして彼の神気の一端を感じると、糸を手繰り寄せるようにして辿ってゆく。
 方角を見定め、天陽を握り締めて走り出す。森へと誘われて再び奥へと進み、元来た方へと引き返す。
――見える……! 此の道が、私を導いてくれている。
 日が暮れてゆく森の中に、一本の白い道が通っているかのようだ。神気を探る際、斯様にはっきりと目に視えるのは初めてだった。
――そして、もう一つ。
 蘢のものであろう気の他に、別の大きな気配を感じる。微かに覚えの有る其の存在に、麗蘭は確信を抱いていた。
 途中、只の一人とも遭遇しないのを疑問に思ったが、止まらず進み続けた。赤赤と漲る西日を受けつつ四半刻も走らぬうちに、高い石造の塀と小さな門が見えてくる。
 後少しという処まで来た時、中から鉄門を押し開けて出て来る者が居た。周りを窺いながら出てきた彼も、前方より接近してくる麗蘭を認めたようだ。
「蘢!」
「麗蘭、良かった」
 近付いて見ると、蘢は整った顔に幾つか痣を作っており、肩などを斬られ胸にも怪我を負っている。何時もの如く、平気な顔をして動き回っているのが信じられない。
「神気がかなり落ちているな。大丈夫なのか?」
「うん、途中で天真にもらった薬も塗ったし。其れより……」
 蘢が側らへ退くと、後ろに居た着物姿の少女が歩み出た。身に着けているのは所々汚れているがかなり上質な反物で、付着している血は本人の物ではないようだ。
 月白とも藍白とも取れる、大粒の楚々とした瞳が麗蘭の目と合う。此の美少女こそが仲間と共に追い求めていた妹姫だと思い至った時、相手の方が先に礼礼しく頭を下げていた。
「初めまして。蘭麗にございます」
 至宝と呼ばれて愛しまれたという美貌もさることながら、何と綺麗な立ち居振る舞いであろうか――背は凛と伸ばしたままで、手は自然な形で脚の前に置き、腰を起点に低頭する蘭麗に、思わず見入ってしまう。
「初め……まして」
 会えて嬉しいと言い掛けるが、其れは禁句であることを思い出し、ぐっと喉の奥に飲み込む。
『姉上はお幸せな方ね……何も御存知ない。そんな言葉で、私が喜ぶとでも?』
 あの時の蘭麗と今の蘭麗は、違う。そう信じたいが、自信は持てない。
「姉上の大切な御身を危険に晒させてしまい、申し訳ございません」
「何を言う、私の方こそ……」
――そなたを苦しめた。母上と引き離し、悲しみの底へと突き落とした。
 とても、最後まで口には出せなかった。妹を残酷で恐ろしい定めに投げ出した自分自身が、余りにも罪深く感じられていたから。
 待ち侘びていた再会の時を迎えたものの、姉妹の間に流れる空気は重苦しい。此れ以上、紡ぐべき言葉を見出せない麗蘭は、惑いの表情で蘭麗を見据えたまま黙する。そして其の様は、蘭麗もまた同じであった。
――謝らなければ……夢境で心無い言葉を投げ掛けた罪の、許しを請わなければ。
 姉と生きて会えたなら、必ずや自分の真実の想いを伝えると決めていた。其れなのに、素直に表せないのは何故なのか。言葉に詰まってしまうのは何故なのか。
 やっと出会えた麗蘭は、幾年も想像してきた姿よりも、夢で覗いた姿よりも、格段に麗しかった。何人たりとも侵せぬ神聖さに、市井に紛れて暮らしてきたとは思えない高貴な優美さ。そして何よりも、生まれ持ってのものであろう上に立つ者としての風格は、あの珠帝を彷彿とさせるものが在る。
 謝罪の言葉一つ発せられないのは、後ろめたさからだけではない。己と血を分けた者であると俄かには思い難い、姉の纏う麗容と天威が、蘭麗から姉に話し掛ける意思を奪うのだ。
「麗蘭。済まないけれど、此処を動かなければ」
 沈黙を破った蘢が申し訳なさそうに割って入ると、麗蘭は安堵すると同時に現実へ引き戻された。蘭麗を奪還したは良いが、此処は未だ敵地の中心。彼の言うとおり早急に戻る方法を講じねばならなかった。
「公主殿下。恐れながら、隠神術はお使いになりますか? 敵軍に襲われぬよう、隠れ忍んで行かねばなりません」
 麗蘭程ではないが、蘭麗の神気も判る者には判る特徴的な性質が有るため、隠しておくに越したことは無い。蘢の問い掛けに、蘭麗は心許なげに頷いた。
「はい。恐らく出来ると思います」
 彼女はそう答えながらも、先刻の紫暗の様子からして追っ手が掛かる可能性は低いと考えていた。あの男の本心が読めぬ笑みから、彼が自身への執着を失ったと直感したのだ。
「直、夜に為る。夜闇に紛れて此処を離れよう」
 蘢の言葉に、麗蘭は不安げに呟く。
「やはり、敵を避けつつ元来た道を戻るしかないのだろうか」
 見たところ蘢は相当疲弊していたし、姫を連れて聖安まで帰るなど無謀なように思われた。珪楽を発った後、麗蘭は蘭麗の許へ辿り着くことのみを第一に考えており、帰路は二の次と為っていたが、此処に来て其の浅慮を悔いた。
「いや……逃げるというより、ある程度時間稼ぎをしたい。君は魁斗が別れ際に言っていたことを憶えてる?」
「ああ。其れは憶えているが……」
 別れて以来、魁斗のことを気にしていた麗蘭が、彼が残した意味深な発言を忘れるはずがなかった。
『目的を果たしたら俺も追い掛ける。両虎関制圧に失敗したとしても、おまえたちが関所を通らなくて済むようにする積もりだ』
 茗から脱出するには、魔山琅華山を越えるか両虎関を通るかの二つに一つ。麗蘭たちと珪楽で離れた魁斗は琅華山を抜けて聖安へ戻り、瑛睡上将軍の協力を得て両虎関を攻め落とさせ、急ぎ麗蘭たちの許へと戻ると言っていた。そして万一両虎関攻めが失敗したとしても、別の手を使って道を作る、とも。
「珪楽を出発する日の前夜、魁斗は『時間を稼いで欲しい』と言っていた。そうすれば、必ず僕らの許へ駆け付けると」
 麗蘭にとっては初めて聞く話だ。あの夜、途中で眠気に襲われ蘢と魁斗の会話を皆まで聞いていなかった所為であろう。頭の冴えた蘢が復路について何も考えていないとは思わなかったが、魁斗と斯様な話を付けていたとは想定外だった。
「『魁斗』とは、もしや魔国の公子であられる昊天君のことでしょうか」
 静かに聞いていた蘭麗が、懐かしい名に反応して尋ねる。姫を置いて話を進めていたのに気付き恐縮しつつ、蘢が頷いた。
「はい。共に茗に入り、途中で別れて一度聖安へ戻られました」
――此方へ向かわれているというのは、本当だったのね。
 恭月塔で珠玉が言っていたことを思い出し、嬉しさと戸惑いが込み上げる。
『巫女の比類なき美しさは知っておろう。共に旅をしていれば、心奪われずにはいられないであろうな』
 宿敵の言が耳に残り、複雑な想いに駆られる。姉と魁斗は如何様な関係なのか、互いに何を思っているのか、自分の知らぬ処で如何にして時を共有してきたのか。無意識のうちに次々と疑問を募らせてしまう。
 そしてまた蘢の方も、蘭麗が魁斗の名を聞き只ならぬ様子を示しているのを見逃すはずが無い――当然、表情には示さなかったが。
 間も無く、三人は歩き出した。茗の剣士たちと蘢とで闘いを繰り広げた表側を避け、裏側から館の敷地を出て森へ入った。
 先頭を蘢が歩き、蘭麗を挟んで麗蘭が後ろを固める。手負いの蘢は、相変わらずの凄まじい気力で傷の痛みに耐えており、腰の剣に手を掛けて片時も離さない。麗蘭も絶えず感覚を研ぎ澄ませて四方を探り、怪しい気配の存在を見落とさぬよう注意していた。
 蘢と麗蘭が思い及ばなかったのは、蘭麗の体力が早々に切れたこと。獣道で歩き辛く、暗く為り始めて視界も悪い中で、足腰の弱った蘭麗が歩き続けることには無理が在ったのだ。
 着ている着物も、左程重い方ではないものの歩き回るのに適しているとはいえない。土道にすら長時間耐えられないであろう履物もまた然り、只でさえ不自由な足を更に痛めさせた。
――足が……痛い。辛い。
 迷惑を掛けまいと気丈に振る舞い、不満や弱音を一言も発さずに進んでいたが、徐々に足を引き摺り始めてしまう。蘭麗の足音の変化に気付いた蘢が立ち止まり、後ろを歩いていた麗蘭も妹の不調を直ぐに見出す。
「蘭麗、辛いのか」
 心配げな麗蘭の声には、気安く話し掛けるのには当分慣れそうにないぎこちなさが含まれていた。
「だ、大丈夫です」
 背後に居る姉を肩越しに見て、蘭麗は首を横に振る。そうしている間に蘢は少女たちから離れ、近くで腰を下ろせるような岩場を見付けた。
「姫、此方へお出でください」
 自分の上着を脱ぎ平らな岩に掛け、公主を呼んで座らせようとした蘢だったが、木綿の服は己の血やら返り血やらで酷く汚れていたため使うのを諦める。すると麗蘭が進み出て、懐に入れていた大きめの手拭いを岩の上へ敷いた。
「こんなものしか持っておらず、済まない」
「……いいえ、ありがとうございます。姉上、蒼稀上校」
 二人の親切に恐縮しながら、蘭麗は腰を下ろした。五十間程しか進んでいないのに、額に汗を滲ませ苦しそうに息を吐いてしまう自身のひ弱さを恨んだが、無理を押して完全に動けなく為る訳にもいかない。
「姫。お許しいただけるのなら、私の背に」
 迷わず申し出た蘢に対し、蘭麗は再び頭を振った。
「感謝いたします。けれど、貴方の怪我に障りますので……」
 丁重に断られ、蘢は其れ以上強く言おうとはしなかった。蘭麗の術で折られた肋骨が戻ってはいたものの、歩けばやはり痛んだし、姫を背負って行きかつ襲来した敵と戦う自信が有るとは言えないからだ。
 公主を連れ出した後、麗蘭と蘢は早くも困り果てた。現実の問題として、蘭麗を長く歩かせるのは不可能。身動きがままならない状態では、大勢の敵が現れば長く保たぬのは目に見えている。
 其れでも蘭麗には一切不安を見せようとせず、蘢は腰帯から剣を外して彼女の側に在る岩へ座る。麗蘭にも視線を送り、同様に休むよう促した。
「麗蘭は恭月塔へ行ったんだね。あちらは如何為っていたの?」
 身体の鈍痛と疲労を紛らわせるため、蘢は道中気に為っていたことを麗蘭に尋ねる。
「黒の気を追って最上階まで行った。瑠璃の気ではなく黒神本人のものだと思ったのだが、上へ着くなり気は消えて、蘭麗が居たという室には――あの女が居た。珠玉だ」
 初めて対峙した血の仇敵。焔の女傑であり、人界を乱す許し難い女。ただ一方で、彼の女帝には並々ならぬ何かが存していた。常人には決して持てないであろう何らかの覚悟が、他の者の追随を許さぬ威を生み出しているのだろう。
 珠帝の名を聞くと、蘭麗は肩を小さく震わせた。彼の女から離れても尚、身を竦めてしまうのを情けなく思うが、むしろ檻から出た今だからこそ余計に恐怖を感じるのかもしれなかった。
「短い時間だったが話をした。私は奴に剣を向けたが、奴の方に戦う気は無かったようだ。蘭麗を救いたくば蘢を追えと告げ、去って行った」
 麗蘭自身奇妙に思いつつ話していたのだが、蘢も同じようで首を傾げていた。
「妙な話だね。珠帝の意図が見えてこない」
 長い間、珠玉の狙いは麗蘭を生け捕りにすること或いは命を奪うことだと考えられてきた。蘢も麗蘭も、そして魁斗も、今回恭月塔へと『導かれた』のは、蘭麗を使って誘き寄せられたものとばかり思っていた。にも拘わらず、麗蘭と接触しておきながら何もせず去るとは、実に解し難い話である。
「珠帝は恐ろしく頭が切れる女です。相手の思考は自在に見通してしまうのに、自分の考えは決して読ませないのです」
 そう言いながら、蘭麗は恭月塔での直近二回の謁見を思い出した。一回目は妖しげな気を身に纏っていたが、二回目には綺麗に消失させていたこと。僅かな手掛かりも無しに魁斗を慕う深層を暴かれたことや、頻りに『麗蘭』の名を聞き出したがっていたこと……記憶を辿れば色々と不思議な点が浮かんでくる。
「僕はあの館で白虎と戦ったのだけど、奴の行動も妙だった。止めを刺す機会を得ていたのに、正体を失った僕を其のままにして立ち去ったそうだ」
 珠帝と白虎――主君と臣下の不可解な動きは、敵方の企てを隠し混乱を齎した。麗蘭、蘢を近付けておきながら易易と逃したのは何故なのか。蘭麗を連れ出したことで、今後何らかの報復攻撃が有るのか否か。
 口に出して確認せずとも、今将に窮地に立たされているのは此の場の全員が知っていた。加えて茗側の真意が不透明である事実が、一層の憂慮を生む。
 それぞれが思案しているうちに、三人はほぼ同時に周囲の異変に気付く。
「何か……近付いてきます」
 蘭麗が言うと、麗蘭も側へ置いていた弓へと手を伸ばしつつ頷く。
「妖気? だが、此れは……」
 迫り来る気を感じ、麗蘭の脳裏にはある人物の顔が浮かぶ。瞑目し感知に専念しようとした矢先、上方より自身を呼ぶ声がした。
「麗蘭!」
 聞き覚えの有る若者の声に誘われて、麗蘭は空を振り仰ぐ。風に煽られ顔に掛かる髪を手で払い除けると、頭上に立派な大鷲の姿を見つける。其の背には、金の髪の美しい青年が乗っていた。
「優花! 魁斗!」
 夢ではないかと疑った。途方に暮れていた折に、無二の親友と心強い仲間が突如現れたのだ。
 魁斗は直ぐ側に在る開けた草地に下り立ち、優花から降りて走り寄ってくる。蘢に蘭麗を任せると、麗蘭も魁斗の許へと急いだ。
「蘭麗を取り戻せたんだな」
 別れた時と同じ、煌煌とした爽やかな笑みをこぼす魁斗に、麗蘭はしっかりと頷いた。
「ああ。しかし、なぜ優花が?」
 素直な喜びを表しつつ、全く予想していなかった成り行きに驚きを隠せない。
 変化した状態で羽を休めている優花は、二人の方をじっと見ていた。麗蘭の記憶に依れば、白林で別れる際、彼女は阿宋山に戻ると言っていたはずだ。
「色々事情が変わったんだ。発つのが遅れたから、優花が居てくれなければ間に合わなかったかもしれない……後でゆっくり話すさ」
 其処まで言うと、魁斗は麗蘭の背後から遅れて近付いて来た蘭麗と蘢を見やる。
「久し振りだな、蘭麗」
「ええ、本当に」
 親しげに話し掛けてきた魁斗に、蘭麗も懐かしそうな様子で微笑む。すると今度は一転して改まり、彼に向け深々と頭を下げてお辞儀した。
「昊天の君。再びお目に掛かれましたこと、嬉しゅうございます」
 数瞬目を見開いた魁斗は、頬を緩ませ優しい面持ちで答える。
「ああ、俺もだ」
 妹の仕草と魁斗とのやり取りを目にし、麗蘭は一人取り残される虚しさを覚えていた。
――何と、自然な二人なのであろうか。
 本物の姫君とは、正真正銘の公主とは、想像以上に格の違う存在なのだと思い知らされる。蘭麗と魁斗の間に流れている空気は、自身では到底作り出せない特別なものなのだと、身に染みて感じさせられる。
「蘢、おまえはまた激闘だったようだな。無事か」
「うん。危なかったけど、何とか切り抜けたよ」
 苦々しく笑うと、蘢は傍らの蘭麗に視線を移す。
「姫君のお陰です。姫をお救いするために来たのですが、逆に助けていただきました。伝え聞いていた通り、素晴らしいお力をお持ちです」
 正面から見詰められて賞賛され、蘭麗は微かにはにかみ俯いた。
「い、いいえ。お役に立てて良かったです。治ったわけではないので、早く医官に診せなければ」
 褒められる機会が無かった所為で、どのような反応が正解なのか蘭麗には分からなかった。なるべく平静を保ち、蘢を労った上でさりげなく受け流してしまう。
「よし。何はともあれ、白林へ戻ろう。話はそれからだ」
 全員揃ったことを確認すると、魁斗は皆に呼び掛けた。
「白林には陛下が――恵帝が待っている」



 冷えた土と葉の褥で、仄かな温もりを感じ、紫暗は目覚めた。
 蒼稀上校に駆け寄って行く月白姫を見届けた後、彼女から受けた決別の刺創をかばいつつ広間から抜け出した。朦朧としていたため定かではないが、館を出る前に力尽き気を失ったのだと思われる。
 ところが今、意識を取り戻してみると、彼は森の中に居た。此の景色には見覚えが有り、館から少し離れた処であろうが、如何して此処に倒れていたのかは皆目分からなかった。
 風の香りや木漏れ日の輝きからして、時刻は朝のようだ。蒼稀上校を迎え撃ったのは暮れ方であったが、其れから一晩が経ったのだろうか。
――傷が塞がっている……?
 腰の傷も大腿の傷も、治り切ったわけではないが、少なくとも血は止まって傷口が塞がれている。
――一体誰が。
 よろめきながら身を起こし、片膝を立てる。治癒術の使い手のものらしき気が、己の身体に微かではあるが残っているのを感じる。其れが皇宮を取り巻いていた怪しげな気と似ていることに気付いた時、眼前に主が立っていた。
「陛下」
 直ぐ様頭を垂れて跪いたものの、同時に違和感を覚える。こんなに近くに居るというのに、主の神力を全く感じられないのだ。
 珠帝は暫くの間、黙したままで紫暗を見下ろしていた。紫暗は何も言わずに下知を待っていたが、やがて腰に差していた双剣の片方を鞘ごと帯から外し、両手を伸ばして主に差し出した。
「……此れは?」
「蘭麗公主を取り逃がしました」
 抑揚の無い声で尋ねた珠帝に、紫暗も淡々と応える。
「全ては私の責。死を以て償わねば示しがつきませぬ」
 九年の間、蘭麗の監視は紫暗に与えられた最重要の任務だった。聖安人であろうと妖であろうと、茗人であろうとも、其の任を妨げる者は尽く排除してきた。公主を敵に渡したとなれば、紫暗本人が命で贖うのが当然――という理屈だが、彼は元来其処まで使命感の有る男ではないし、熱い男でもない。
 其れでも尚、主に裁きを乞う行為するのは、自暴自棄の昂奮に陥っていたがゆえ。自裁のために、珠帝の手を借りようとしたのである。
 剣を差し出したままで返答を待つ間、紫暗は珠帝に対し似たような言動を取ったという緑鷹を浮かべ、更に自虐めいた心境に至っていた。
――屹度、奴とは雲泥の差だな。
 自身を珠帝に斬らせようとしたという緑鷹は、己の誇りを守ろうとしたのだろう。もはや確証の持ちようもないが、紫暗は漠然と信じていた。
 程無く剣を取った珠帝は、柄を持ち鞘に入れた状態で剣先の方を紫暗へと向けた。
「其の、腰の傷。蒼稀上校か?」
 事実は『否』であったが、紫暗は答えない。其の無言を如何様に受け取ったのか、珠帝は幾度か頷きながら感心した様子で続ける。
「あれだけの兵をぶつけておきながら、蒼稀上校に敗れたと申すか。まこと、敵ながら凄まじく強い若者よのう」
 其の一言で、紫暗は狼狽の色を見せ始めた。
「時に、あの館の周辺に別動隊を潜ませておったそうだが、動かさなかったのだな。直ぐに追わせれば捕らえられたのではないか?」
――読まれている。
 主の口振りや目元の表情から、紫暗は見通され、試されていると確信する。
――俺は、つくづく愚かだ。
 凡庸な嘘で、珠帝を騙せるはずが無い。だが、ばれたところで一向に構わなかった。彼女を欺こうとした咎で断罪されるのなら話が早い。
 されど、其れも上手くはいかなかった。珠帝は片頬に笑んで紫暗に剣を突き返し、冷ややかに言い放つ。
「おまえには重大な任を与えたばかりだ。利用価値の無い小娘一人逃したくらいで、其の任を果たせなく為るなど、許さぬ」
 珠帝には『慈悲』を掛ける気など更々無いと分かり、紫暗は俯いたまま剣を受け取った。背中には失意と諦念が重く伸し掛かり、失ってはならぬものを永遠に手放した現実を突き付けられた。
「長きに亘る務め、ご苦労であった。今日より後は、次代の王の側近く仕えよ」
 茗の女帝である珠玉が後継と名指しした、燈雅公子。彼に仕えるという大役が、蘭麗公主を『逃がした』紫暗に下された次なる勅命だった。
「……御意のままに」
 下命に対する答えは一択しかない。流れるように発せられたのは、虚ろでがらんどうな、意味を為さない音の連なり。命を受けたというよりも、唇をほんの僅かに動かしたという感覚しかない。
「『紫暗』」
 真名で呼び掛けられた時、紫暗はやっと顔を上げた。主と目を合わせると、彼女は驚く程穏和に微笑していた。
「『あれ』は聡明で勘の鋭い娘だ。おまえの『情け』も察しているだろうよ」
 唐突に言われ、紫暗は驚嘆と戦慄の余り瞳に光を取り戻す。相手が勘の鋭い珠帝であるといえど、まるであの場に居合わせていたかのような言葉に耳を疑う。
 唖然としている紫暗を置いて、珠帝は踵を返した。
「燈雅の側近として宮中におれば、いずれは……」
 囁くように口に出し、途中まで言い掛けて止める。其の後言い直すことも無く、皇宮の方角へと歩いて行った。
 背後で膝をつき放心している紫暗の姿が小さく為ると、珠帝は息を吐いて独り言ちる。
「……簡単には死なせてやらぬ。おまえにまで死なれては、困るのだ」
 紫暗を救った黒の力を刹那、発現し、珠帝は姿を消失させた。恐るべき邪神の手を借り、二帝国を巻き込み進めてきた壮大なる計画の、最終段階に入るために。
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