金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十七.王気を纏う少女
 ある王国の貧しい農村に、痩せ細り汚い襤褸を着て、其の日暮らしをする少年がいた。流行病で両親を亡くし、飢えて野垂れ死ぬところを、偶然出会った初老の男に拾われ救われた。
 かつて国一番の剣豪として王宮に仕えていたという其の男は、少年を日が出てから沈むまで働かせ、奴隷のように扱い虐げた。気が向くと自分の膨大な知識を分け与えてやり、剣の稽古を付けてやったが、其の『修行』の苛烈さは並大抵のものではなかった。
 木刀で叩きのめされたり崖から突き落とされたり、妖獣の居る穴に放り込まれたりと、虫螻のように戯弄された。気まぐれな男には、少年の生死になど関心が無かったらしい。
 五年間、耐え忍び生き抜いた少年は、師である男を剣の技で超えた。矜恃を喪失した男は、絶望の余り己の剣を叩き折ると、其の日のうちに首を括って死んだ。
 育ての父を手厚く葬ってから、少年は家を出て州都に向かった。其処で大規模な試合に出場し、歴戦の猛者も含む大人たちを次々と倒して一躍有名に為ると、州侯の目に留まって士官に為ることが出来た。
 漸く運が向いて来たのか、少年の出世は目覚ましかった。州軍の中で彼より強い者は居らず、彼より賢い者も居なかった。次元の異なる実力に加え、謙虚で生真面目な気質も手伝い、彼の栄進をやっかむ者も皆無に近かった。
 異民族の反乱を収めるため出陣し、獅子奮迅の活躍振りを見せると、彼の名は遠く王都にまで伝わり、禁軍の頂点に立つ上将軍や王にまで届いた。其の後も少年から青年に為る間、戦に出る度に素晴らしい功績を上げた。
 やがて上将軍の名で王都に呼び出された彼は、直ぐ様禁軍への転属を命じられた。上将軍は青年の誠実さを甚く気に入り、直下に置いて重用しただけでなく、自分の屋敷への出入りを許して我が息子のように可愛がった。
 上将軍の一族は格式の高い大貴族だった。何人もの上将軍を出してきたというだけでなく、何代か前に遡れば王族の者を見付けることが出来る、指折りの名家である。
 此の家には、たった一人の娘が居た。長い間子供に恵まれなかった将軍夫妻に愛でられ甘やかされてきたが、持って生まれた非凡さゆえに、手折られるのを待つ可憐な花とは為らなかった。
 優れた神力を備えており、幼い頃から女とは思えぬ程気が強く勝気な性質だった。上流の姫にしては珍しく、詩歌や奏楽、華道などよりも剣術や馬術を好んだ。
 十歳を迎える頃には、大人に交じって政治を論じることが出来た。勉学の師として付けられた学者たちを言い負かし、自ら追い出すこともしばしばあった。
 文武の才だけでなく天来の美貌にも恵まれ、其の評判は他国にまで知れ渡る程。才媛振りが王の目にも留まり見初められ、側室ではなく正室として、あっという間に輿入れが決まったという。
 将軍の屋敷に招かれた際、青年は少女と出会った。彼女とほんの一言二言交わしただけで、名状し難い畏怖を覚え、絶対的な支配者に跪く際の清浄な思いに満たされた。
 少女の前に立つと、思わず見入ってしまう麗姿よりも、身の内から滲む覇気に惹き付けられる。此の娘の放つ威圧感は、今まで剣を交えてきた人界でも傑出した武人たちと比してみても、全く引けを取らない。彼女の『気』は戦士の気ではなく、紛うこと無き『王気』であった。
 天なる神はごく稀に、人が成せぬ偉業を成すため、特別な宿を与えた人を遣わす。此の娘こそ『神の奇跡』であると、青年は日に日に確信を強めてゆく。
 武と智、忠と誠のために生きてきた青年の前に初めて現れた、『欲しい』と思える存在。しかし、彼にとっての彼女は女ではなく、人ですらない。残酷なまでの灼熱を纏い、空高い処で下界を見下ろし何者も寄せ付けない、火輪のようなものだ。
 将軍の家を訪れる度、青年は娘に呼ばれて二人きりで閑談を交わした。少女もまた、聡明な青年に満足すると共に、彼の何処かに通じ合うものを感じたのだろう。
 出会いより数ヶ月が経ち、少女の婚儀まであと数日と為った日。青年は初めて自分から彼女の許を訪れ、祝いの言葉と暫しの別れを告げた。
 婚礼の儀は長く続き、王と妃は七日もの間宮殿の最奥で過ごす。其の後も公務に追われ、後宮での暮らしに慣れるべく努めねばならない。一将校に過ぎない青年となど、数ヶ月は会えぬかもしれない。
 屋敷の中庭で彼を迎えた少女は、嫁入り前の若い娘にしては浮き立ってもおらず、何時もと変わらぬ調子である。広い庭園を歩きつつ、少女の話に耳を傾けていると、瞬く間に時が過ぎてゆく。
 暇を告げねばならない時刻が近付くと、ずっと黙っていた青年が漸く口を開いた。
「一つだけ、お伺いしたく」
 問うのは憚られるが、如何しても明らかにしておきたいことが有った。
「貴女は、陛下を愛しておられるのか」
 男を愛して妻と為り、持てるもの全てを差し出し男に尽くす。左様な『女』の生き方を、此の娘が進んで選ぶとは思えなかったし、思いたくなかった。王と契るのは、王妃――或いは『其の上の存在』と為るための代償に過ぎないのだと、確かめておきたかった。
 少女は無粋な質問に気を悪くした様子も無く、意味深な笑みを見せる。
「……もし、愛していないと言ったなら、如何するのだ? 妾を奪って逃げようとでも?」
 問い返しに意表を突かれ、青年は言葉を失う。少女は微笑みを浮かべたまま、彼が聞きたくなかった答えを容赦無く言い放った。
「妾は陛下を愛している。だから妻と為るのだ」
 問わなければ良かったと、青年は心底後悔した。彼自身を失望から守るために、少女が嘘を言っていると信じざるを得なかった。ところが少女は、青年の苦悩など構うこと無く追い打ちを掛けた。
「陛下は妾を求めておられるが、妾が拒めば無理強いはせぬ。国主とは思えぬ程、お優しい方よ。今は妃の座其のものよりも、そんな陛下が欲しい」
 そして最後に、少女は笑むのを止めて謎めいた言葉を残した。
「だが何時の日か、妾はまた……別のものが欲しく為るだろう。其れが何なのかは、未だ分からぬが」
 彼女の心の深層が、青年には霞んで見えなかった。時を経て、此の予言が現実と為るまでは――
 其の後青年は、少女が王に嫁ぎ妃と為るのに耐えねばならなかった。
 たとえ相手が王とはいえ、あの少女が何処にでも居る平凡な女のように一人の男に御され、縛られているかと思うと、口惜しくて堪らなかった。かなり歳の離れた王に少女が操を捧げ、夜ごと抱かれていると思うと、怒りでもなければ嫉妬でもない、奇妙な苦しみに襲われた。
 そんな青年の心境を知ってか知らでか、少女は僅かでも時間が出来ると彼を宮殿に呼び寄せた。若くして王の信頼を得ていた実直な青年だからこそ、王も周囲も少女が彼と親しくするのに咎めはしなかった。頻繁に会ってはいたものの、することと言えば退屈凌ぎの世間話や、近くの森へ狩りに行くこと位だった。
 愉しい話だけではなく、治政や政争について話をする時も有った。少女は青年に対し、師への畏敬を向けて相談を持ち掛けた。青年もまた、彼女に為政者としての資質を損なわせないため、言葉を選んで話をするよう心掛けていた。
 何時しか少女は、重臣だけでなく若く有能な武人など、様々な人間を味方に引き入れていた。彼女は人心を読み操る術に長け、王よりも優れた王の器を持ち合わせていた――其れは、青年の予想した通りであった。
 少女は時を経るごとに美しく為り、激しい気性も女性らしく柔らかなものに変化していた。青年は幸福そうな彼女を見る度、「陛下を愛している」と言った彼女の言葉に偽りが無かったこと、彼女が日増しに天与の王気を翳らせてゆく失意に呑まれた。
 其れでも未だ諦め切れぬ青年は、少女に直向きな思慕を寄せながら剣を磨き、誰よりも強く為った。青年から少女を奪い、普通の女へと貶めた王を恨めしく思ったことは無い。自分に目を掛け、取り立ててくれた彼の主にも変わらぬ忠誠を誓っていた。
 数々の戦における輝かしい武勲は、青年に高い地位を齎し貧しい出自を隠した。二十を過ぎたばかりという史上稀に見る若さで将官と為り、有り余る程の富を得た。
 酒色に耽ることも無く、かと言って妻を娶り身を固めることも無い。来る日も来る日も堅実に働き、国と国主、軍の――少女のために尽くすのみ。
 やがて少女は、王の子を身籠った。国中が吉報に湧き立ち、世継ぎの誕生を待ち望んだ。しかし青年には、あの少女が母に為るという未来が信じられなかった。彼女が『女』に為ったことすら受け入れられなかったのだから、当然であった。
 貴人は子を孕むと人前に出なく為るが、彼女も其の例に洩れなかった。暫く会わないでいた後に、青年は少女の子が死して産まれたという事実を耳にした。
 其れから数日が経ち、少女が久方振りに青年を招いた。椅子に坐した彼女の向かいに彼が跪き、御簾越しではなく直接顔を合わせていた。
「久しいな、『……』少将」
「はい」
 堅苦しげでない挨拶を交わした際の少女は、以前と変わらぬ艶美な笑みを作る。子を亡くし、さぞや意気消沈しているだろうと思っていたが、其の推量は外れていたように見えた。
「御子のこと、お悔やみ申し上げます」
 何とか一言口にして、青年は頭を下げたまま少女の反応を待っていた。少し間を置き彼女が放ったのは、耳を疑う告白だった。
「陛下よりも、愛しいものができた」
 いとも簡単に発せられた、意外過ぎる言葉。青年が其の真意を探ろうとした時、少女は続けて話し出した。
「『其れ』を手に入れるために、妾は何でもしよう。もしかすると、そなたに幻滅されるやもしれぬ」
 面を上げると、少女は初めて会った時と同じ表情をしていた。男でも女でもない、世を統べる者として君臨するべき者の顔――そう評するに相応しい、赤赤と燃える王者の顔だ。
「此れまでそなたが守り、此れからも守ってゆこうとしているものを、妾が奪う結果に為るだろう」
 少女が欲しているものが何なのか、青年は瞬時に悟った。彼女の言う通り己が命を賭して守り抜いてきたものを失うことに為るが、止めようとは思わなかった。
 立ち上がった少女は、青年の傍へと歩み寄る。動かない彼へと右手を伸ばし、尖った顎に指で触れると、自分の唇を彼の其れへ近付けた。
「未だ、妾が欲しいか?」
 顔に吐息が掛かる程の距離で囁かれ、青年は思わず少女の瞳を凝視した。
「……とはいえそなたは、妾を抱きたいと思ったことは無いであろう? そなたが焦がれ欲しているのは、女としての妾ではない……違うか?」
 指摘された途端、青年は凄まじい衝撃によって身体を貫かれた。彼女には、疾うに全てを見抜かれていたのだ。
「妾は、そなたが欲しくはない。もう既に、出会った瞬間から、そなたは妾のものなのだから」
……愛する夫を殺し、少女が『欲しいもの』を手に入れたのは、其れから一年が過ぎた頃。青年は主君を失ったが、喉から手が出る程欲していたもの――女王と為った少女を手に入れた。




――もう随分と、昔のことに為ってしまったな。
 閉じていた瞳を開けると、青竜は深く息を吐いた。衰弱し身動き出来なく為ってからというもの、眠るか起きて天井を仰ぐかのどちらかしかしていない。起きていても、今の自分には過ぎ去った日々を回想することくらいしか出来ない。
「へい……か」
 声を発することも儘ならない。視力も落ち、左眼は感覚が無くなり痛みすら分からなく為っている。
 息をして瞼を上げ、辛うじて生き長らえている状態。人界最高の神人と称えられた男は、もはや何処にも居ない。
 臥せてからどれ位の時間が過ぎたのかは定かでないが、目を覚ます度、身体が悪く為っているのは明らかだ。
「青竜」
 頭上から、彼が最も聴きたかった声が降ってきた。聴覚も鈍っていたが、其の者の声だけは鮮明に入ってくる。
「そんな昔話を思い出していたのか? 懐かしいな」
 氷の如く冷たい指先が、酷く痩せこけ白く為った青竜の頬に触れた。
「珠……」
 掠れた声を絞り主の名を呼ぼうとするが、珠帝に指で唇を塞がれてしまう。
「無理をするな。口にせずとも、今の妾には分かる」
 珠帝は青竜の心を覗いていた。元来彼女が用いていた読心術ではなく、邪神に依って与えられた人ならざる力の為す業だ。
 黒神の力を前にしては、金竜を取り込んだ青竜を含め、人間の心など全て筒抜けに為ってしまうのだろう。青竜も邪眼で以って似たような術を使えるが、強い神人には無効であるため効力は劣る。
 茗の民を脅かしてきた金竜さえも圧倒する力を振るう神――其れが、彼の非天の王。珠帝が身を沈めてしまった常闇を支配する邪神。
――陛下……何ということを。
 異能だけではない。珠帝を取り巻いていた黒の力が感じ取れなく為ったのも、彼女が邪悪な力と同化し、気を操り隠せるように為ったことを意味している。
 青竜が痛ましげに目を細めると、珠帝は愉しそうに笑った。
「妾があの美神に悦んで身を鬻いでいるのが、そんなに不満か? 妾が誰と同衾しようが、気にするそなたではなかろう」
 其れが主の虚勢であると、青竜は直ぐに見抜く。誰よりも誇り高い珠帝が、斯様なことを進んで行うはずがない。其の証拠に、彼女の見せた次の微笑は、諦めに浸された哀しいものだった。
「妾はもう……人ではなくなり、王でもなくなりつつある。人でないのは、そなたや紅燐と同じだな」
 視線を逸らして珠帝が見やったのは、室の隅に在る椅子に腰掛けていた紅燐だった。何の反応も示さず、虚ろな瞳に珠帝と青竜を映している。
「……黒神に、紅燐を解放して欲しいと『懇願』した」
 再び青竜を見下ろして、珠帝は彼の頭を優しく撫でた。
「彼の君はすんなりと頷いてくださった。但し、蘭麗姫に姉を裏切らせることが出来たなら……『麗蘭』の名を言わせることが出来たなら――と」
 珠帝は蘭麗の隙を狙って追い詰めようとしたが、心を読むことで確信してしまったのだ。彼女は絶対に姉を裏切らない、と。
「結局、蘭麗は妾の仕掛けた罠を退けた。あの姫を侮り過ぎていたようだ。元より、彼の君には全て分かっていたのだろう」
 青竜は耳を傾けながら違和感を覚えていた。珠帝が其の気に為れば、小娘に麗蘭の名を明かさせるなど簡単なはず。黒神の出した条件を満たすことなど容易いはずだ。
 目的を達するためには手段を選ばぬ珠帝だが、そうした強行を躊躇わせる何かが有ったのだろうかと、如何にも解せない。
 其の疑問には答えようとせず、珠帝は自分の手を胸に当てて深く息を吐いた。
「此の黒神の力も、あの娘には効かなかった。あの娘の心は見通すことが出来なかった。『麗蘭』が本物の光龍である証拠だ」
 そう言って身を屈め、青竜の額にそっと口付ける。恋しい男にするかの如く――或いは、大切な我が子にするかの如く、愛おしそうに。
「そなただけは、必ず助けてやる。そなたは妾が最も愛するものにとって、不可欠な存在なのだから」
 すると突然、青竜は強烈な眠気に襲われた。意識を手放してゆく際、珠帝が何かを語り掛けるが、其の言葉を聞き取れぬまま、彼は今一度暗い世界へと絡め取られてゆくのだった。
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