金色の螺旋

前に戻る目次次へ

第十章 落暉の女王

十九.姉と妹
 聖安の女帝、恵帝が打診した君主会談は、茗の珠帝の同意を以て実現することと為った。
 日時と場所は慣例に従い、受け入れた側の茗が指定して聖安が了承すると決定される。両者の利害がぶつかり中々決まらぬことも有るが、今回は円滑に話が進み、茗が最初に示してきた七日後の正午、圭惺平原に程近い泰明平原での開催と決まった。
 聖安からは恵帝と麗蘭が出るのに対し、茗側からの臨席者は珠帝と燈雅皇子。麗蘭自身、燈雅については、珠帝が後継に指名した公子として名だけは聞き知っていた。共に国を継ぐ定めにある競争相手であり、彼の女傑が世嗣と見込んだ男は如何程の人物なのか、素直に興味を引かれていた。
 二帝国を統べる今上の王と次代の王とが一堂に会する会談は、二つの国だけでなく人界全体の命運を決める場と言っても過言ではない。麗蘭は約束の日に近付くにつれ緊張を募らせ、眠れない日々を過ごしていた。
 恵帝は前線から瑛睡上将軍をはじめ上位の将官・将校たちを呼び戻し、連日御前会議を開いた。其の場には麗蘭も呼ばれ、発言を求められることは無かったものの、初めて公に『公主』として紹介された。
 当然、多くの者たちにとって麗蘭の存在は青天の霹靂だった。しかし、目の前に居る世にも美しい少女が敵地の真ん中に乗りこみ、蘭麗姫を救出してきた事実を恵帝より聞かされ心を打たれ、疑いを持つ者は皆無だった。麗蘭は一先ず安心したが、いよいよ自分が公主として世に出るのだという重い実感を、否が応でも持たされた。
 会議で最初に話し合われたのは、茗との対話の進め方や提示条件であった。聖安が甚だしく不利だった先の大戦時と今回では、状況がまるで異なる。前回同様、珠玉が一方的な要求を突き付けてきたとしても、簡単に呑む理由は無い。
 次に検討されたのは、和平が成ったとすれば、如何に茗と協力し如何に金竜と戦うか。万一交渉が決裂したとすれば、茗と金竜を相手にどう戦うか。凡ゆる場合を想定し、話し合いが幾重にも折り重ねられた。
 恵帝も瑛睡も、会議に集った他の軍人たちも、茗が和睦に共鳴するだろうという見方を持つ者が殆どだが、相手はあの珠帝である。会談の場で何を仕掛けてくるか予想し難く、安易な考えは国家の敗北に繋がる。
 会議自体は日に数刻から半日程で、麗蘭は他にも会談に臨むための準備に追われた。彼女が最も苦心したのは、国主に次ぐ統治者としての振る舞い方や外交の場でのしきたりを、風友から叩き込まれたことだ。此れには都合が付けば恵帝も立ち会い、直接教わることも有った。
 自由な時間は僅かしか与えられず、目を覚ました優花や蘢の見舞いに行くのみで終わってしまう。蘭麗や魁斗とも落ち着いて話がしたかったが、勝手を言う訳にもいかない。
 毎日ではないが、魁斗は軍議に参加していたため数日に一度は言葉を交わすことが出来た。一方蘭麗とは城内で偶にすれ違う程度で、声を掛けるどころか顔を合わせない日も有った。
 長い幽閉生活で弱り切っていた身体は、もう良く為ったのだろうか。何か困っていることは無いだろうか。恵帝とは母娘水入らずの時間を過ごせただろうか――そうした心配事が次々と頭に浮かんでくる。
 特に三つ目については、母が蘭麗と過ごす時を自分との訓練が確実に少なくしているため、罪悪感が膨らむ。其れも有って、麗蘭は何時にも増して熱心に学ぼうと努めたのだった。
 寝付けそうにない夜は、動きにくい着物を脱ぎ履き慣れた袴を身に付けて、一人で室を抜け出した。女官たちには後ろめたかったが、彼女たちの扱い方が分からぬ麗蘭は、黙って抜け出す以外の方法を知らなかった。其れに抜け出すと言っても、広い城内を歩いて散策するだけだ。
 茗との会談が明後日に迫った日の夜。向かうのは、自室から正殿へと向かう途中に在る殿舎。昼間政務に使われる建物だが、陽が沈んでからは人気がなくなるという話を聞いてやって来た。
 白林を一望出来る城の露台に出て四方を見渡す。城下を越え、城壁を越え、遠く紫瑶の在る東方から茗の在る西方の琅華山を『巫女の目』で眺め見て、金竜の邪気を探していた。
――金竜は……青竜は、未だ確かに生きている。
 青竜があの巨悪を宿したまま姿を眩まし、暫く経った。麗蘭でさえも、彼の居所を掴むことは出来なかったが、生きて何処かに居るのは間違いない。はっきりとした位置は分からずとも、人でも妖でも神でもない力が、乾いた風に溶け込み運ばれて来るのだから。
 霞一つ無い夜天には、瞬く星々が満ち満ちていた。幼き頃、風友に教わった星の配列を確かめながら、肩を撫でては過ぎ去る冷たい風を感じている。
――天帝陛下は、遥か天上より見守ってくださっているのだろうか。
 昼も夜も、空を見上げればそんな期待を抱いてしまう。四年前にたった一度だけ降臨した魂の主は、あれ以来どんなに願っても現れてはくれない。
『私の力は、日に日に衰えている……此れも、神にさえ抗うことの出来ない理の一。もっと早くそなたに会いに来たかったが、玉座を離れることも叶わぬ程……』
 麗蘭は、聖龍神が天界を離れられない理由を知っていた。彼の力は弱まっており、統治を維持するためには身動きが出来ないのだと。
 主が姿を現さずとも、声すら聞こえなくとも、光龍である麗蘭が選ぶ道は只一つ。己の心に問い掛け、『為すべきこと』を為すのみである。
 椅子に腰掛け考えごとをしているうちに、何処からともなく近付いて来る、覚えの有る気を感じ取った。
「蘭麗」
 振り返ると思った通り、蘭麗が居た。彼女の方も麗蘭を見付け、此方へゆっくりと歩いて来る。
「そなたも夜風に当たりに来たのか?」
 穏やかに笑み掛けると、蘭麗も口元を緩ませた。
「ええ。其れと、星を見に」
 出会って以来、姉妹は初めて二人切りに為った。思いも寄らず掴んだ好機を逃すまいと、麗蘭は何とか会話を続けようとする。
「……此処から見る空は素晴らしい。室に居るのは些か窮屈でな。時間が空くとこうして抜け出して来てしまうのだ」
「窮屈?」
 不思議そうな顔をする蘭麗に、麗蘭は苦笑を漏らした。
「恥ずかしい話だが、人に着替えを手伝ってもらったり、何処へ行くにも付いて来られたりするのが、未だ慣れなくて」
 きょとんとした蘭麗は、やがて優しげに顔を綻ばせた。
「ご無理をなさらずとも、そういう時は離れているように言えば良いのではないでしょうか。一人に為りたいことなど、誰にでも有ると思います」
「……時には離れるよう頼んでも良いのか」
「はい。彼らも姉上に気詰まりだと思われるのは本意でないでしょう」
 そう助言され、麗蘭は立ち所に納得した。
「では、耐え切れない時にはそうしてみる。毎回拒否しては、彼らの仕事が無くなってしまうからな。程々にせねば」
 姉の発言が珍しかったのか、蘭麗は数瞬目を丸くする。
「姉上はお優しいのですね」
 変なことを口走っただろうかと心配したが、妹が直ぐにまた微笑んだので、麗蘭は胸を撫で下ろした。
「母上とは、ゆっくり話が出来たか?」
「ええ。つい先程もお部屋に伺って来ました」
 恭月塔から連れ戻した際は歩くことも儘ならなかった蘭麗だが、今はかなり回復したらしく、足を引き摺っている様子も無い。
「お隣に失礼しても?」
 意外な申出に嬉しく為り、麗蘭は強く頷いた。
 姉と並び椅子に座った蘭麗は、城壁の外側に在る琅華山を見やる。松明の火色に染められた両の瞳は、魔の山を隔てて横たわる敵国へと向けられていた。
「いよいよ――二日後ですね」
 蘭麗が選んだのは、会談に関する話だった。
「ああ。正直なところ、如何ような展開に為るのか分からぬ。珠帝について妙な噂が流れているようだし、何より黒神の動向が心配だ」
 茗の宮廷で、此の十日程の間に大規模な粛清が行われているという事実は、既に此方側まで伝わって来ていた。たった一度とはいえ珠帝と相見えた麗蘭は、あの女君主に限って血迷うことなど有るのだろうかと疑問に思っていた。だが、背後に黒神が居るとなれば話は別だ。
「黒の神と思しき者と、何度か話をしました」
 姉の口より彼の邪神の名が出て、蘭麗は思い出したように言った。
「少年の姿で現れ、私の心を見透かし動揺させ……楽しんでいるようでした。正体に気付いていなかったとはいえ、今思えば本当に恐ろしいことです」
 軽く肩を竦ませて言う蘭麗に、麗蘭は目を見開いた。恭月塔に近付いて黒の気を感じてからというもの、蘭麗と黒神の接触は最も危惧していたことだ。
「蘭麗、少し触れても良いか?」
 了解を得た後、麗蘭は妹の前髪を上げて額にそっと掌を当てた。瞑目して集中し、蘭麗の身体に流れる気を探る。微かな欠片さえも逃すまいと、奥底へと沈んで見出そうとする。
 此れと言って異状が無いのを認めると手を離し、ほっとして息を吐く。
「茗の四神、朱雀が黒の力に侵されて落命したという話を聞いてな」
 死んだ、と聞いて、蘭麗は思わず手で口元を覆う。
「そなたにも奴の影響が出ていないか心配に為ったのだが……大丈夫なようだ」
 己の判断に、麗蘭はある程度の自信を持っていた。害を為す程の術が掛けられていれば、相手が黒神であろうと片鱗を感知出来るはずだ、と。
「私は朱雀とは直接面識が無いが、魁斗とは顔見知りらしい。朱雀は敵とはいえ、私怨有る黒神に命を奪われたとあってか、彼女の死に魁斗も気を落としていたようだ」
 恭月塔へ向かう道中に蘢から伝え聞いた話だ。以前から朱雀と魁斗との因縁が如何なるものか気に為ってはいたものの、蘢に依ると相変わらず詳細は訊くに訊けない雰囲気らしい。
「姉上は……そんな恐ろしい神と戦おうとしているのですね」
 憂懼に満ちた表情の蘭麗に、麗蘭も厳しい面持ちで頷いた。
「……ああ。此れ以上犠牲を出さぬためにも、必ずや奴を滅ぼさねばならない。光龍の宿も有るが、私自身がそう決めたのだ」
 旅を経て、麗蘭はますます黒神への敵愾心を燃やしていた。魁斗の母を殺害し、朱雀の命を弄び、茗を操り人界全体に混乱を齎そうとする黒神を、決して許してはおけない。
「だが、先ずはそなたの奪還、打倒珠玉だと思っていた。まさか黒神に茗が関わっていて、こんなにも早く……近付くことに為ろうとは」
 都を出る前、珠帝が側に置く謎の黒巫女の噂を聞き、瑠璃ではないかと漠然と想像してはいた。しかし、本当に彼女や黒神が関係していると俄かには信じられなかったし、信じたくなかったという方が正しい。
「珠帝は少し前から、姉上の存在を黒神に聞いて知っていたようです。姉上が光龍であられること、恭月塔に向かっていることを聞いたと口にしていました」
「やはり……そうか」
 其の情報で、麗蘭は風友の推理通りだという確信が持てた。
「黒神が何故珠玉に肩入れしているのか、確かめねばならぬ」
 二日後に迫る会談の目的は、休戦合意だけではなく其処にも在った。敵は巨大で手強いが、此れらを成し遂げぬ限り、麗蘭の旅は真の意味では終われない。
 会話に一区切りが付いたところで、麗蘭は蘭麗と自然に言葉を交わせていることに気付く。少し前まで構えていたのが嘘のようだ。
――言うなら、今しか無い。
 いよいよ覚悟を決めた麗蘭は、大きく深呼吸して肩を上下させた。
「蘭麗、ずっとそなたに謝りたかったことが在る」
 そう切り出すと、失敗してはならぬという緊張感に耐えながら、蘭麗の双眸から目を逸らさずに落ち着いた調子で話し続ける。
「そなたが国を離れ、母上の許を離れて暮らさねば為らなくなったのは……私にも責が在る。本当に、済まなかった。此の先、私のためにそなたが得られなかったものを全力で返していきたいと思っている」
 麗蘭が口にした言葉は、心の中で幾度も唱え、磨き直したものとは所々違っていた。ゆえに時折吟味しながらではあるが、己の気持ちを偽ることだけはしなかった。
「だから……蘭麗。不相応な私だが、そなたの姉として、共に歩ませてはくれぬか。公主として未熟な私に、力を貸してはくれぬか」
 斯様な謝罪で十分とは思っていない。一度で許してもらえるとも思っていない。受け容れてもらえねば何度でも頼む積もりであり、詫び言で済まぬなら別の手段も考える積もりだった。
 そんな決意もしてはいたが、蘭麗の反応は全く想定外のものだった。麗蘭の話を皆まで聞いて、何故そんな謝辞を述べられるのか自体解せないという具合に驚いていたのだ。
「姉上が私に『謝る』など、とんでもないことです」
 戸惑い、目線を下げた蘭麗は、暫時何かを考えた後再び顔を上げた。発した声は、確かに震えを帯びていた。
「私の方こそ、姉上に謝らねばなりません。じっと待ち続ける中で……一時、己の弱さに負け、貴女や母上を信じられなく為ったことがありました。貴女は何も悪くないのに、貴女を妬ましく……恨めしく思ってしまいました」
「蘭麗、それは……!」
 妹の告白を麗蘭が止め掛けるが、蘭麗は首を横に振って聞かなかった。
「姉上が恭月塔に近付いていらっしゃると聞かされ、期待と不安の狭間で如何にか為ってしまいそうでした。けれど、蒼稀上校と貴女の御姿を見た時、純粋に……喜びが込み上げました」
 月白の可憐な瞳からは、何時しか涙が零れ落ちていた。蘭麗の想いを聞いた麗蘭は、其処で漸く気付き始める。蘭麗もまた、同じ願いを抱いていたことに。
「貴女とお会いできて、心から嬉しい。私を救い出してくださり……ありがとうございました。此れが、今の私の……本当の気持ちです」
 何とか其処まで言い切った後、蘭麗は立ち上がって姉に向かい頭を下げる。麗蘭も慌てて立つと、彼女の左肩に恐々と右手を置いた。
「顔を上げてくれ、蘭麗。そなたも……その、思ってくれるのか。私と会えて嬉しいと」
 疑っているわけではない。只、直ぐには信じられなかった。怖かったのだ。斯様に幸福な話があるのだろうか――と。
「もちろんです」
 其の問いに、蘭麗はもう一度麗蘭の目を見詰めて即座に答える。
「暗い孤独を耐え抜く中で……姉上と共に在る日が訪れると信じたからこそ、私は勇気を持てました。私こそ……相応しくないと思うけれど、今度こそ姉上の妹に為りたい」
 麗蘭は蘭麗の目元へと手を伸ばし、自身の着物の袖で涙を拭いてやる。泣いている妹を見て、自然とそうしてやりたく為った。彼女がたった一人で抱え、背負い続けてきた哀しみを、拭い去ってやりたいと思ったのだ。
「……ありがとう、蘭麗」
 己が犯した『罪』が、どれだけ許されたかは分からない。只、今此の時は、数々の苦難を越えて出会えた幸いを噛み締めていたい。あらゆる憂心を忘れ、運命の螺旋に投げ出された姉妹の時間を分かち合いたい――言葉にはせずとも、彼女たちは同じ願いで胸を満たしていた。
 十五年の歳月を経て、静止していた麗蘭と蘭麗の「宿」が回り始めた。曲がりくねった長い道程には、歓喜だけではなく数多くの悲哀もまた待ち受けていることを、姉と妹は未だ、知らない。
前に戻る目次次へ
Copyright (c) 2012 ami All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system