金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二.闇に溶ける
 黄昏の頃。外光を遮った宮殿の一室で、邪神の降臨を待つ珠帝が微睡んでいると、戦線に居るはずの青竜と黒獅子が矢庭に現れた。
「青竜!」
 重い身を起こし、腹心の傍へ走り寄る。動かない体に触れ揺すろうとするが、彼を取り囲む邪気に阻まれてしまう。
――此れは、『あの時』と同じ……
 九年前、青竜が金竜を左眼に封じて帰って来た時の記憶が蘇る。彼が強靭な意思で竜力を抑え込まなければ、珠帝は近付くことさえ出来なかった。
 だが今の自分には、黒き神から譲り受けた力が有る。神気を集めて青竜に手を伸ばし、今度こそ触れようとした。
「陛下」
 振り返ると、先程まで珠帝が坐していた椅子に女が掛けている。少女の頃から手を掛け育ててきた大切な臣下、紅燐が。
「昊天君と麗蘭は、金竜と対峙し倒すことも封じることも出来ませんでした。代わりとして、我が師が再び犠牲と為ったのです」
「な……に?」
 行方知れずと為っていた紅燐が戻ったというのに、少しも喜べない。青竜の身に起きた凶事だけでなく、今目にしている彼女が間違いなく彼女ではないことが、珠帝の混乱を更に増長させる。
「貴方は、黒の君……なのですか?」
 言葉遣いや外見は紅燐其のものだが、纏う気と力が違う。彼の神より情けを受けていた珠帝の眼には明らかだ。
『紅燐』は返答せず、只此方を見詰めている。恐ろしい変貌を遂げた下僕を見せられ奥歯を噛み締めると、珠帝は黒神に問うた。
「貴方さまは、緑鷹だけでなく紅燐も……妾からお取りになられたのか」
 声と肩を震わせて、珠帝は『紅燐』から目を逸らした。其の動揺を見逃すはずもない黒神は、口元に微笑を作ると目を閉じる。すると突として、『紅燐』は意識を失って項垂れた。
 彼女の身体から抜け出た黒神が、瞬く間に若い男の形をとって現れる。漆黒の髪と瞳を持つ幽艶なる姿で、人の数え方で言えば二十代後半頃だろうか。珠帝の前に降臨する際、彼は何時も此の姿を選んでいた。
 女帝は何の迷いも無く、邪神の足許に跪く。彼は女帝を見下ろし、答えの分かり切った問いを投げ掛けた。 
「そなたは、今なお欲しているか? 望むのなら、惜しみなく与えよう」
 甘美さを持つ柔らかな声が、珠帝の奥底に響いて沈む。ほんの少し沈思した後、彼女は俯いたままはっきりとした調子で答えた。
「……望む」
 差し伸べられた手を取り、珠帝は立ち上がった。黒神に依って静かに抱き寄せられ、彼の為すがまま口付けを受け入れる――凡てを滅ぼされると知りながら。
 邪神の直ぐ向こう側に、未だ目覚めず妖獣に背負われている青竜が居る。魂の絆で結ばれた下僕を眺める珠帝の瞳からは、彼女特有の炎光の輝きが失われていた。
 己を喰む唇の冷たさが、えも言われぬ心地良さと為り身体に染みてゆく。其れが妖しい熱へと変わり、身も心も嘗め尽くしていく感覚にも、もう慣れてしまった。
「焔の女王よ、そなたは醜い売女だ。だが、過去――そして此れより先、為るべくして王と為った者の誰よりも、王に相応しい」
 黒神は、珠帝の耳元で酷薄に囁く。青竜へ虚ろな眼差しを向ける彼女を伴って、闇に溶けた。




 焼き尽くされるような、身を裂かれる激痛に襲われて、青竜は眼を覚ました。
 閉め切られて暗い室の中、蝋燭の炎が揺れている。上着を脱がされ大きな寝台に横たわっているらしい。
 室の作りや調度には憶えが有る。此処は、珠帝が持つ居室のうちの一つだ。主の臥所に寝ているという罪悪感と焦りは有ったが、立ち上がろうにも身体が全く動かない。
 彼方此方が酷く痛み、胸に空気を入れられず苦しい。動かそうとしても力を籠められず、肉体が自分の物ではなくなったと錯覚する程儘ならなく為っている。
――だが確かに、奴は此れに。
 黒神に依って強引に解縛され放たれた金竜を、もう一度左眼に封じることが出来た。其の証拠に、眼球の奥で何か熱いものが蠢き暴れ回る懐かしい苦しみが、青竜を苛んでいた。
 苦痛を逃がすために深く息を吐くと、室の中に良く見知った女が居るのに気付く。長い黒髪を垂らした紅い着物の女が、何かを持って近付いて来る。
「紅燐……なのか?」
 寝台の直ぐ横まで来ると、冷たい布を青竜の額に当てる。吹き出した汗を拭き取り、背中を起こして椀に入れた薬湯をゆっくりと飲ませてやる。
「紅燐、おまえ……如何して此処に?」
 痛みに耐え、声を発して尋ねてみても、返事は返って来ない。青竜の声が聞こえていないのか、傍らの机に椀を置いて、表情の無いまま彼の汗を拭い続けている。
 気を探り、黒神の影を見付けようとするが、何処にも無い。しかし、金竜の力を制御出来ていない今の自分に近付けているという事実が、彼女が未だに黒神の呪縛から脱していないことを表していた。
「此処にはいらせられぬ」
 何処からともなく、若い女の声が聴こえ来る。咄嗟に身体を強張らせるが、やはり石のように固まって動けない。
 身構えることも出来ぬうちに、想像した通りの女が現れた。
「朱雀さまは、我が君にお心を奪われました」
 黒巫女瑠璃は朱雀を一瞥し、青竜の臥せっている寝台へと歩いてゆく。
「見ることも聞くことも、話すことも叶わず、記憶すらも失くされた。されど貴殿への真心だけは、辛うじて留まっているのでしょう」
 紅燐を弄ばれた怒りが再び込み上げてくる一方で、別の不安が迫り上がって来る。
「陛下は……陛下は何処に? 戦は……」
「圭惺での戦は中断されました。燈雅公子と瑛睡上将軍との間で協定が交わされたのです」
 燈雅が青竜の期待通りに動いてくれたことを知り、戦に関しては一先ず安堵した。だが彼にとってより重要なのは、主の方だ。
「珠帝陛下は我が君の御許に。茗を……貴殿を助けるために」
 瑠璃が言い終わらないうちに、青竜は上体を起こそうとして力を入れていた。だが少し背中が浮いただけで、到底起き上がれそうにない。
「此れは、陛下が選んだ道。朱雀さまも……緑鷹さまも、我が君に奪われたと知って尚、求めた」
 自由に為らない己の身体に屈辱を感じ、苛立ちながら、瑠璃の言葉に違和感を覚える。紅燐を『朱雀』と呼ぶのに、緑鷹を『玄武』ではなく真名で呼んだことに対して、である。
「『緑鷹』も……だと? まさか……奴が死んだのは……」
「緑鷹さまを誑かし破滅させたのは、此の私でございます。私があの方の前に現れなければ、随加であの方が蒼稀蘢に敗北することはなかったでしょう」
 玄武の死には元々不可解な点が多かった。此の発言もまた、核心を衝くものではなく、何処か遠回しな言い方に聴こえてならない。
 青竜の肩にそっと手を置いた瑠璃は、彼を緩やかに見下ろす。当然、振り払う力など彼には残されていない。
「陛下は本当にお強い方。我が君の力を『羨ましい程』注がれて、未だ『王』でいられるのですから」
 表現に、嫉妬のような感情が滲み出ている。心内を巧みに隠す黒巫女にしては珍しい。
「されど、貴殿の其のお姿をご覧になった今は、如何でしょうか」
 瑠璃は手の甲や指先で青竜の首や胸を撫でる。彼は全く動じることなく、炯眼で彼女を射るのみ。
「どうか、無駄なことをなさいませぬよう。僅かでも長く生きて、御身に金竜を留め置いてくださいませ」
 以前会った時と同じ忠告を残して、瑠璃は消え去った。紅燐と二人切りに為り彼女の顔を見やると、不可思議なことに――心を失くしたはずの瞳から、一筋の涙が流れていた。 
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