金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十.天高く続く蒼
 蘭麗と過ごした夜が明け、遂に会談の前日が訪れた。此の日の御前会議は早朝から巳の刻までで終わり、風友と恵帝との最後の打ち合わせも正午には済ませて、午後は珍しく自由時間と為った。連日緊張状態に在った麗蘭を気遣う、恵帝の配慮でもあった。
 決戦までに残された最後の半日を如何使うか、麗蘭は昨夜から考え既に決めていた。最初は、一日の殆どの時間を室内で臥せって休養していた蘢を訪ねた。
 旅の途中、兒加の玉英や珪楽の天真の治療を受けつつ戦い続けてきた蘢は、白林に着いて直ぐ州城に仕える医官に怪我を診せた。青竜や玄武から受けた傷は天真のお陰で回復に向かっていたものの、白虎との対決で肋骨の骨折だけでなく手指の骨に罅が入っていたり、打撃を喰らった内臓の具合が悪かったりと、ほぼ全身痛手だらけの状態だった。麗蘭たちを連れ、白林まで戻って来られたのが不思議だと医官に言われる程、深刻な重傷であった。
 帰国から数日経って医者より出歩く許可が下りたが、数ヶ月は剣を持つなと忠告された。恵帝と瑛睡の命で、同じ城で開かれている軍議にも出席を許されず、本人としては歯痒く悶々とした日々を過ごしていた。
 麗蘭は数日おきに蘢の室に来て見舞っており、今日は前回から二日空いている。昨日の御前会議では彼の昇進が決まり、上校から少将への昇格が内定していた。
「昇進おめでとう。しかも、爵位を賜ることに為ったのだろう? 貴族に為るというのは、かなり稀なことだと聞いたぞ」
 蘢と正対して椅子に掛けた麗蘭が、早速祝いの言葉を贈る。
「ありがとう。自分でもびっくりしている」
 余程嬉しかったのだろう。賞賛に慣れた蘢にしては珍しく、不器用な照れ笑いを漏らす。
「おまえの活躍振りからすれば当然だ。将軍に為っても良い位ではないのか」
「将官としての実績も無いのに、流石に難しいよ。結局、白虎には勝てなかったしね」
 聖安史上最年少で上校と為り、国外にも名を知らしめた蘢だが、今回の少将昇任も最年少記録である。
「あの玄武を負かしただけでも十分凄い。奴は茗屈指の剣豪ではないか」
 玄武、という強敵の名を思い出し、蘢は腕を組んで小さく首を傾げた。
「……玄武が珠帝に対する叛逆罪で誅されたと聞いて、驚いたよ。随加に送られた辺りから不満を持っていたのかもしれないけれど、忠誠心は残っているものとばかり思っていたから」
 戦いの最中での会話より、玄武の言葉の端々には珠帝への忠節が含まれている気がしていた。珠帝が玄武を見限るのは有り得る話だが、其の逆は無いだろうと予想していたのだ。
 そして麗蘭もまた、珠帝と四神の関係を聞いて以来、そんな想像をぼんやりと巡らせていた。
「玄武は、珠玉が登極する前から二十年近く仕え続けたそうだが。そんな関係が裏切りと断罪で終わるなど、敵のこととはいえ何だか……悲しいな」
 彼らの主従関係が如何ような経緯で崩壊していったのかは、麗蘭の知るところではない。ゆえに表面的な話だけ聞くと、素直にそうした感想を抱いてしまう。
――私にも何時か、有り得る話なのだろうか。腹心と頼み、慕った部下と訣別せねばならぬ時が……来るのだろうか。
 自身と重ね合わせて未来を案じ、麗蘭は俯いた。人の上に立つ存在に為るという自覚が、彼女自身気付かぬうちに形成されつつあったのだ。
「そうだね。でも、其れが人と人との繋がりというものなのだろう。ほんの小さな綻びが不信感や憎しみを開かせ、取り返しの付かない破滅を齎す」
 斯様な者たちを目にしてきたかのような蘢の口振りが、麗蘭を得心させる。若いながらも軍の上層に籍を置き、様々な人間を見ている蘢だからこそ言えるのだろう。 
 伏し目に為り沈思する麗蘭を見詰め、蘢は次の言葉を続けた。
「紫瑶を出る前、僕は君に、恵帝陛下と同様に誠意を持って仕えると約束した。あの時は『仕える』という意識が強かったけれど、何故か今は……君を『仲間』としか思えないんだ」
 思わず顔を上げると、麗蘭は蘢を直視した。
「すまない、分不相応なことを言ったね」
「いや、違う。つい、嬉し過ぎて……驚いて」
 紫瑤に居た頃から、蘢が気を遣ってくれているのは節々で感じていた。麗蘭自ら余り遠慮しないで欲しいと伝えたことも有った。其れでも、彼の誠実な人柄や皇家に対する忠心から、望まずとも築かれてしまった見えない壁を取り払うのは難しいと諦め掛けていた。
 麗蘭が公主である事実は変えられない以上、其の仕切りを完全に無くすのは不可能だとしても、蘢の口からそうした言が出たことが心底嬉しかった。
「そういえば、蘭麗とはちゃんと話せたのか? 会いたがっていただろう」
 不意に話題を摺り変えられ、数瞬呆気に取られた蘢だったが、微かにはにかんだ顔で頷いた。
「うん。実は昨日、此方に来てくださったんだよ」
 そう答えた彼の声には、心嬉しさと戸惑いとが混在していた。
「辛い目に遭われてきたのに、そう感じさせずに労わりの言葉を掛けてくださった。やはり思っていた通りの、お優しい方だ」
 一語発するごとに歓びを噛み締めるような、何時もとは異なる様子の蘢を見て、彼が本当に幸せを実感しているのを知る。
「ああ。妹だというのが信じられないくらい、良い娘だな」
 仲間として親愛を抱き、人として尊敬する蘢に妹を誉められ、麗蘭自身も誇らしく為る。しかし同時に、蘭麗と接する時に感じる引け目も思い出されて複雑な心境に陥ってしまう。
「そう? 僕は君と似ていらっしゃると思うけれど」
「……私はあんなに淑やかではないし、公主らしくないぞ」
「君は十分公主らしいよ。祖国を愛し、自身の役割に責任感を持ち、誰よりも誇り高く生きているじゃない。並々ならない芯の強さが外側にも滲み出ていて、そんなところが蘭麗姫とも似ているなと思う」
 此の上ない賛辞に、麗蘭は返し方に困って苦笑した。
「おまえは煽てるのが上手いな」
「煽ててなんかいないよ。君を仲間だと思っているから、そんな必要は無いし」
 蘢は本心からそう言っていたが、麗蘭の反応を見て悪戯っぽく微笑んでいた。
「恭月塔に向かっている時、君も色々と心配していたようだけど、話し合えたんだね」
「ああ」
 蘭麗の九年間を奪ってしまった罪の意識から、麗蘭は妹との出会いを渇望しながらも恐怖していた。敵の手から救い出した後も、恐れが邪魔をして暫くまともに話し掛けることすら儘ならなかった。ところがいざ対してみると、妹は妹なりの悔恨に苦しんでいたのだと分かり、驚きに打たれた。
 城下を一望して共に過ごした昨晩は、姉妹として初めて向かい合い、互いの心の内を知れた一時だった。意図せずして共有していた想いを確かめ、心と心が近付いた瞬間を確信出来た。
「じゃあ、次の試練は珠帝との対決だね。今回、僕は手伝えそうにないけれど」
 最大の敵との会談に付いて行けないのは仕方ないとして、身体の限界を理由に会議にも出席出来ず、何の役にも立てない現状が、蘢には悔しくて堪らなかった。己の身を心配してくれる恵帝や瑛睡の厚意を無碍にするわけにはいかず、彼も直接は口に出さなかったが、麗蘭もそんな彼の心情を何となく汲み取っていた。
「そんなことはない。おまえが仲間でいてくれるからこそ、私は敵に立ち向かえるのだ」
 共に旅をして来た蘢や魁斗、優花と一緒でないのは確かに辛い。計り知れない不安感に戦々恐々とさせられる。だが彼らと共に乗り越えた辛苦が有るからこそ、戦いを越えた先に待つ光が見える。其の輝きを何としても掴もうという強い意志を生み出してくれる。
「蘢、おまえは私を茗まで連れて行ってくれて、蘭麗を助け出してくれた。心から礼を言う。そして……此れから先も、私を助けて欲しい」
 決戦を前にした麗蘭は、凡ゆる危懼の念を凌駕した果敢さで蘢を魅する。彼は麗蘭の崇高な魂に晒され、刹那、言葉を失くす。
「……僕の方こそ、君のお陰で此の大役を成し遂げられた。ありがとう」
 固い友情の絆で結ばれた二人は、清々しい気持ちで笑い合った。次にこうして語り合う時には、長い戦いが終わりを迎えていることを信じて疑わなかった。

 退室して行く麗蘭を見送り、一人残された蘢は、再び椅子に腰掛けて深く思いに沈み始めた。大切な人との再会を果たし、夢の実現に近付いた幸福に浸りそうに為る自分を戒め、躍る胸を抑えようと努める。
 将官への昇進も爵位を賜るのも、蘢にとっては過分な栄誉。けれど今は、聖安と茗の、珠玉と麗蘭の戦いが終わらぬうちは、手放しには喜べない。
――駄目だ。やはり、落ち着かない。
 彼の平常心を掻き乱すのは、女帝の臣下として、軍人としての成功だけではない。昨日思いがけずに此処を訪れてくれた、彼の麗しき姫君である。
 予想通り、蘭麗は昔蘢と会ったのを覚えていないらしかった。にも拘わらず、姫は賤しい出自の蘢に親しげに話し掛けてくれた。茗から連れ出したことに対し、身分の違う蘢に惜しげも無く感謝の意を表し、身体まで案じてくれた。
 茗の地で再び会って以来、蘢はあの幻のような――夢物語のような姫の姿が片時も忘れられなく為った。そして昨日、姫と二人で話している時、其の『魔力』がより一層強まるのをはっきりと感じた。今し方麗蘭と話している最中も、彼女と似た蘭麗の顔貌を思い出していた程、蘭麗の存在が見る見る大きく為っている。
 此れまで遠く別世界の住人であった紫蘭の君が目の前に現れ、仕えるべき姫君と為った。此の現実は、予想以上の威力で以て蘢に襲い掛かっていた。
 記憶に棲んでいた紫蘭の君よりも、現世に生きる蘭麗姫の方が如何に色鮮やかで美しく、健気で愛らしいことか。如何に神聖で清らかなことか。
 だが、蘭麗が素晴らしければ素晴らしい程、蘢の憂慮は大きく為ってゆく。決して抱いてはならぬ想いが膨らんでゆきそうで、酷く恐ろしく為る。
 蘢の心に芽生え、成長し始めた今までとは違う蘭麗への思慕。其れは先日蘢と相対し、戦いの中でやっと姫を手放す決意をしたあの男――白虎を長年縛り続けた執着と似た性質を有していた。無論、蘢はそんなことを知る由もなかったが。
――怖いんだ。『此れ以上のこと』を望んでしまいそうで。
 あの戦闘で骨を砕かれた胸が、俄かに痛み出す。他の傷は順調に治癒しつつあるが、此処だけ妙に治りが悪い。
 やおら席を立ち、上着を脱いで軽く畳み椅子の背に掛ける。寝台に座って壁に背を付け、鈍痛が去るのを待つ。横に為ると痛みが酷く為るので、こうしてじっとして居るしかない。就寝時も横臥せずに上体を起こした体勢で眠ることが多いため、中々疲れも取れない。
 紫蘭の君を救い出したと言っても、当然蘢の戦いは終わらない。むしろ、蘭麗を取り戻した後此れからが、果て無き夢を見る真の始まりなのかもしれない。
 禁軍の頂点に立ち、聖安軍を何処にも負けない最強の軍にする。そして、此の国を誰にも侵されない平和な国にする。其れこそが、幼馴染みの號錐や上官の瑛睡にしか明かしていない、蘢が一途に追い掛ける壮大な夢。
 頭を上げ、壁面に設えられた窓から空を仰ぎ見る。遠い昔、あの慟哭の日――蘢の視界を染めた朱とは対照的な、抜けるような蒼が天高く続いていた。
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