金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十一.特別な人
 蘢の室を後にし、麗蘭が次に赴いたのは優花の所だった。
 白林城の敷地は広い。蘢が滞在する室と優花、風友の室は東西で離れた棟に在り、歩いて行き来するのに時間が掛かる。麗蘭の室はそれぞれの塔から見て中央の正殿に在るので、帰りは幾らか楽だろう。
 帰国して三日後、眠り続けていた優花が目を覚ましてから、麗蘭は空いた時間を見付けては親友の室を訪れた。風友が付いているとはいえ何時もではないし、自分たちを助けるために倒れた優花を放ってはおけなかった。
「優花、私だ。入っても良いか」
「麗蘭? うん、どうぞ」
 戸を押し開けて入った室内には、寝台に横に為り上半身を起こしている優花と、側の椅子に足を組んで座している魁斗が居た。
「魁斗。来ていたのか」
 敵国から帰って来たというのに、魁斗は相変わらず隠神術で神気を消している。彼が来ているとは思ってもみなかったので、麗蘭は不意を突かれた心地がした。
「ああ。恭月塔まで行くのに、無理をさせたのは俺だからな」
「もう、だから其れは良いったら。私が行くって言い張ったんだもん」
 琅華山に発つ前、出会ったばかりの頃と比べ、此の二人は大分打ち解けたように見える。元々人見知りの要素が全く無い魁斗ではなく、優花の方が随分と気を許し始めているのだろう。
 魁斗は自分の横に在る椅子を手で指し示し、麗蘭に席を勧める。彼女が座ると、肘掛に軽く頬杖を付いて尋ねた。
「明日だな。準備は万全か?」
「先刻まで、風友さまと最後の確認をしていた。君主同士の会談ともなるとややこしいしきたりばかりだな」
 皇族や貴族が守らねばならない礼儀作法は実に様々である。麗蘭が思い浮かべていたのは座る位置や挨拶の仕方くらいだったが、そんな甘いものではなかった。
 誰が最初に室へ入るのか、先ず着席するのは誰なのか、一番先に声を発するのは誰か。会談が終わり、退席する順序も決められている。挨拶の際の口上や礼の仕方、歩き方や座り方、物の受け渡し方まで、所作についても事細かな決まりが有った。
「孤校に居た頃、そういうのは習わなかったのか?」
 此の数日、恵帝の御前に参ずる時など、礼法が必要と為る場面が幾つか有ったが、麗蘭は無難にこなしていたように見えた。ゆえに魁斗は、彼女が其の類のことを一通り練習してきたのだろうとばかり思っていた。
「貴人の前での振る舞い方とか、もっと一般的なものは教わったが、此処まで細かい風儀までは……」
 答えつつ優花を見やると、うんうんと頷いている。
「気を付けろよ。珠帝は気性が激しいらしいから、粗相でもしたら怒って其の場で剣を抜かれるかもしれないぞ」
 半ば脅しのような魁斗の警告に、麗蘭は慌てて口ごもる。
「うう、肝に銘じておく」
 ところが返答して直ぐ、麗蘭は違和感に首を傾げた。
「……だが、会談の場に武器は持ち込めないのではないか?」
「ん? さあ……どうだったかな」
 隠そうともしない魁斗は、明らかに惚けてはぐらかす。麗蘭は特に気にすることも無く、腕を組んで話し続けた。
「其れに粗相どころか……恭月塔で珠帝と対峙した時に、勢い余って剣を向けてしまったからな」
 蘭麗のことで頭に血が上り、相手が国主だと忘れて抜剣した。たとえ敵国の主であろうと、戦を起こす理由にされても文句を言えぬ程の、問題外の非礼である。
「やるじゃないか、麗蘭。あの女傑の覇気には大の男でも怖じ気付くっていうぞ」
 大胆な行動に感心し、魁斗は満足そうに笑う。優花の方は、何も言わずはらはらしながら聞いていることしか出来ない。
「後悔はしていないが、今後はもっと冷静に為らねばならぬ。己の立場と相手を見定めて言動を選ばねば」
 真面目な顔で反省する麗蘭を暫し見ていた後、魁斗は彼女の背を軽く叩く。
「ま、此れからそういう場に出ることも増えるわけだし、直に慣れるだろう」
 そう言って席を立つと、移動させていた椅子を元の位置に戻した。
「じゃ、そろそろ行く。女同士でお喋りを楽しんでくれ」
 魁斗は親友二人で過ごせるようにと気を利かせたのだろうが、麗蘭は彼が行ってしまうと思うと残念でならなかった。
「麗蘭、交渉自体は恵帝陛下が上手く進めてくださるだろう。問題は珠帝の後ろに『奴』が見え隠れしていることだ」
 黒神を話題にする際には何時も、魁斗の目の奥に確かな憎しみが表れる。其の冷炎の凄まじさは、麗蘭に身が凍り付く錯覚を起こさせる程。されどそうした激しい怒りも、彼は直ぐに胸奥へと封じて、普段通りの気さくな笑みに変えてしまう。
「とはいえ、余り気負い過ぎるなよ。気を張りすぎると、却って気付くべきところを見落としたりするものだ」
 麗蘭が首肯すると、魁斗は優花へと視線を落とした。
「邪魔したな。ゆっくり休め」
「そうする。来てくれてありがとね」
 扉へと歩き出そうとした魁斗が立ち止まり、再び麗蘭を見て言い置く。
「俺は上手くいくと思ってる。しっかりな、麗蘭」
「……ああ」
『おまえなら出来る』などといった、聞き心地の良い気休めは言わない。そんな魁斗の言葉だからこそ、麗蘭に限り無い力を与えてくれる。
 室から出て行く彼の後ろ姿を、麗蘭は無意識下に目で追っていた。先程から彼女の様子を注意深く窺っていた優花は、親友が魁斗に送る寂しげな眼差しを見逃さなかった。
「麗蘭、あんたもしかして、魁斗のこと……好きなの?」
「え?」
 二人切りに為った途端、優花は出し抜けに問い掛けた。
「あんたが魁斗と話してるの見てたら、分かるよ。嬉しそうだと思ったら残念そうにしたり、何か感じが違うというか」
 年頃の娘であるにも拘らず、優花も麗蘭と同じく其の手の経験は皆無に等しい。とはいえ、極度に鈍い麗蘭とは異なり、勘は人並みに持ち合わせている。
 麗蘭は神気や妖気には恐ろしく鋭いのに、自身に向けられる憧れや思慕には頗る鈍感である。他方、誰かへの好意を隠すのも苦手ということが、先刻の魁斗とのやり取りで明らかに為った。優花が知る限り、麗蘭が異性に対してあんな態度に為るのは初めてだ。
「好き……か。まあ、そうかもしれぬな」
 やや困った顔をしながらも肯定的な返答をする麗蘭に、優花は身を乗り出して続けようとする。
「やっぱり! 水も滴る佳い男だし、背も高いしね」
「誰にも傅かれて当然なのに偉ぶったところが無いし、逆に媚びることもしない。筋が通っていて頼りに為る、大した男だ」
「うん、他には他には?」
 促され、考えた後、麗蘭は思いつくまま答えてゆく。
「時に厳しいことも言うが、相手の心情を汲める優しさも有る。私たちと左程変わらぬ歳であれ程人間が出来ているのだから、屹度此れまで苦労してきたのだろう」
「うん。男として器が大きいよね。一緒に居て安心するっていうか」
「おまけにあの強さだ。機会があれば剣を交えてみたい」
「……あ、うん。そうだね」
 最後の一言には引っ掛かったが、優花は敢えて聞き流すことにした。
「でも良かった。あんたが好きな人を見付けられて、嬉しいよ。王子さまの魁斗なら、あんたの結婚相手としてもお似合いだよ」
「……何? 結婚相手?」
 話が奇妙な方向へ飛躍しているのに気付き、麗蘭は間の抜けた声を出す。
「うん。だって麗蘭は公主さまで、いずれは女帝になるんでしょ? 相応しい男の人と一緒に為って、お世継ぎを産まないと」
 麗蘭には、優花の言葉がまるで別世界の話であるかの如く聞こえた。
「……考えたことが無かった」
 言われてみれば、そうした流れに為ってゆくのは十分有り得るだろう。皇族の女性については、むしろそちらの方が重要な使命と見なされる場合が多い。
 第一子帝位継承を貫いてきたがゆえに、聖安には代々女帝も多い。生涯単身であった国主は稀で、殆どが他国の王族や帝国内の有力者と婚姻して子を儲けている。
 しかし麗蘭は、自分が皇家の一員だと知らされてからも、夫を持ち子を産むなどという将来を頭に描いたことすら無かった。光龍の宿により、戦いこそが最大の使命であって、女としての役割は二の次と考えていたからかもしれない。
「『好き』というのも、そういう意味での好きかどうかは……分からぬ」
 正直な思いだった。麗蘭は此れまでの人生で、他人に敬意や友愛を感じる時は有っても、恋慕の情というものを意識したことは一度も無い。実体験が無いゆえに、恋をしているのかと聞かれ、そうだと言える自信も無い。
「どうせそんなところだろうと思ったよ」
 優花が少々がっかりした面持ちで言うと、麗蘭は苦笑いを漏らした。
「只、『仲間』とは違うものを感じているのは確かだ」
 魁斗と同じ歳の蘢のことも、人間として深く尊敬しているが、蘢と接する時と魁斗と接する時とでは何かが大きく違う。魁斗と話していると、彼の一挙一動が気に為ったり、心臓の鼓動が速まったりしておかしな『症状』が出る。
「魁斗とのことは……もっと良く知りたい。もっと近くに行きたいと思うのだ。戦いの強さも、心の有様でも、隣に並び立ちたいと思う。不思議な気持ちだな」
 そんな考えが兆し始めたのは、珪楽における金竜との戦いだった。此の変化を何と呼ぶのか、麗蘭は知らない。だが自分にとって魁斗が特別に為ったのは確かで、其れはしっかりと自覚出来ている。
「ううん……其れってさ、やっぱり『そういう好き』なんじゃない?」
 話を聞いているとそうとしか思えないが、麗蘭が曖昧な答え方しか出来ないというのは優花にも理解出来る。何時か自身にも好いた相手が現れたとしたら、初めての感情に戸惑うであろうから。
 優花の問いに対し、麗蘭は不器用に微笑んだだけで答えなかった。
「珪楽で無事神剣を継承出来たのは、おまえと魁斗のお陰なんだ」
「え? 私も?」
 唐突に言われ、優花は反射的に聞き返した。
「臥せって思い悩んでいた時、おまえが別れ際にくれた言葉が浮かんだ。私が如何に変わろうと、必ず側に居てくれる人が居ると、信じられた」
 数週間前の記憶を辿り、麗蘭が何のことを言っているのか黙考する。
『麗蘭は、私の一番の友達。其のままのあんたが……ううん、どんなあんたでも、大好き。どんなに離れていても、何時でもあんたを想ってる。約束する』
「あ、ああ。あの時の。そんな風に言われると照れるなあ」
 指先で鼻を擦り、優花は目をそらして淡く赤面した。重責を背負った麗蘭に、多少なりとも励ましに為る言葉を思い、自然な形で直ぐに浮かんだのがあれだ。
 複雑な意味を成すものでも、美しく飾ったものでもない。拙いながらも直情の、想いの結晶とも呼べるべき言葉。受け入れて、僅かでも役に立ててくれたのなら、優花の方も嬉しく為ってくる。
 すると突として、麗蘭が頭を下げた。
「ありがとう。何度礼を言っても足りないくらいだ。本当に、ありがとう」
「え、ちょっ……麗蘭ったら」
 驚いた優花は麗蘭に顔を上げさせようとするが、直ぐに踏み止まった。代わりに彼女へと両腕を伸ばし、首の後ろへ回して包み込む。
「行ってらっしゃい、麗蘭。もう分かってると思うけど、あんたは一人じゃないんだよ。私だけじゃない。風友さまも恵帝陛下も、魁斗も蘢も蘭麗姫さまも、あんたの側に居るよ」
 力強くも優しさに溢れた抱擁を受け、麗蘭は幸福のうちに瞳を閉じた。
「行って来る。屹度、役目を果たして戻って来る」
 目の前にいる親友だけに宛てたのではない。此れは、共に悩み苦しみ、共に戦ってくれる全ての人たちへの誓詞だ。
――決着の時が、迫っていた。
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