金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十三.思惑
 初日の会談を終え、恵帝と麗蘭はそれぞれの輿に乗って聖安の陣営へと戻った。
 麗蘭は、出迎えてくれた青竜と魁斗に会談の要旨を伝え報告した。珠帝が話し合いに応じる気が無い点、交渉が長引きそうな点について話すと、想定内の展開とはいえ、彼らの顔は一層険しく為っていた。
 魁斗と会い、少ないながらも言葉を交わした麗蘭は、不思議と胸を撫で下ろすことが出来た。事態は何一つ解決していないのに、彼がこんなに近くで見守ってくれていたと思うと、明日は少しでも良い方向へ進むだろうと根拠も無く期待してしまうのだった。
 会談が長引いた場合を考え、此処、泰明平原の宿営地には数日滞在出来る用意をしている。白林まではやや距離が有るので、今日は戻らずに此の場所で過ごすことと為った。
 自身に与えられた天幕に引き取った麗蘭は、落ち着かない鮮やかな襦裙を脱ぎ、髪の装飾品を外して、手持ちの中でも比較的地味な着物を選び着替える。城を離れて数日は気詰まりから解放されるかと思ったが、四、五人の女官たちが付いて来て何かと世話をしてくれるのに変わりはなかった。
 束の間の休息を経て、麗蘭は恵帝の天幕に呼ばれた。瑛睡を含めて数人の将官たちが集まっており、恵帝と相談をしているところだった。
 麗蘭が現れると、男たちは恵帝と麗蘭に挨拶をして退室した。恵帝も会談の際身に付けていた正装から着替え、歩揺冠も外して曲裾を纏っていた。
「今日の珠玉は、明らかに様子がおかしいと感じました。残念ですが、乱心したというのは真実かもしれません」
 大きな机を挟んで麗蘭と対座した恵帝は、当惑げに重々しく話し出した。麗蘭自身は、珠玉と一度切りしか会っていないのもあり判断出来かねたが、母が言うのなら可能性は高いのだろう。
「或いは、風友の指摘した通り――彼女でさえ抗えぬ、何か大いなる者に動かされているのか。真の君主であるあの者に、滅びを回避しようという意思が欠片も見られないのは、到底解せません」
 恵帝の言う『大いなる何か』とは、言うまでもなく黒神を指している。昼間、麗蘭は珠帝の気を改めて探ってみたが、やはり不自然な程何も感知出来なかった。風友の読みが当たっていれば、黒の力が珠帝の力を高めるだけでなく『心』にも影響を及ぼしていてもおかしくない。
「珠帝が本当に黒神から力を得ているのだとすれば、早く止めないと取り返しの付かぬことに為ります。命すら危ぶまれるというのに、本人は分かっているのでしょうか」
 此れまで黒神と関わってきた麗蘭の、率直な疑問と懸念だった。憎い宿敵と雖も、今の情況で珠帝の足元が崩れるのは人界全体のためにならない。協力して金竜と戦うべき巨大な茗と、茗が統率している周辺属国が混乱に陥るのは避けるべきだ。
「神を敬わずとも、人ならざる力の恐ろしさを身を以て知っている珠玉のこと。油断しているのではなく、縋るしかなかったのだと……わたくしは考えます」
 静かに言うと、恵帝は嘆息を漏らして俯いた。
「此のままでは、屹度明日も同じ状況でしょう。今日のように心中を窺い合っていたのでは何も進みません。互いに深く立ち入らねば」
 其れは、敵である珠玉と腹を割って話し、真の意味で協力せねばならぬということを意味していた。
――母上は耐えられるのか。私でさえ、悔しくて仕方がないというのに。
 麗蘭は、恵帝の胸の内を想像する。祖国に侵略して脅かしただけでなく、娘二人と引き離す原因を作った女に対し其処までしなければならないのは、母にとってどれだけ耐え難い苦行だろう。
「其れにしても、まさか珠玉から婚姻の話が出るとは思いもしませんでした。そなたや蘭麗程美しく聡明な姫ならば、案外戯れではなかったのかもしれませんね」
 急に話が変わったかと思えば褒められ、麗蘭は反応に窮する。あの蘭麗と並べて称されるのがおこがましいうえに、側室にと言われ侮られたと憤る自分と、気にする素振りすら見せぬ母の度量を比して、恥ずかしく為ったのだ。
「本来なら、疾うに夫を見つけてやっていても良い歳頃なのに、貴女がたにはそうしたこともしてやれませんでした」
 そう言われ、麗蘭は昨日の優花との会話を思い出す。
――確か、母上は今の私と同じ歳で輿入れし、直ぐに私をお産みになられたのだったな。
 聞いた話に依ると、恵帝の結婚は皇族や貴族の間では遅い方らしい。幼児の頃から婚約者が決められていて、十三、四歳で婚姻するというのも良くあることのようだ。
 だとしても、神巫女として戦いの道を歩む麗蘭は、自分は普通の公主とは異なると考えていた。語り継がれている代々の光龍たちにも、夫が居たなどという話は聞いたことが無い。
 だが、蘭麗は違う。相応の年頃に為れば良き夫を見付け、女としての喜びを享受すべきだ。彼女程素晴らしい姫であれば、間違いなくその権利が有るはずだ――と、麗蘭は信じて疑わなかった。
「母上は私を手放すことで、珠玉から守り続けてくださいました。ですからどうか此れからは、其の御心を蘭麗だけに向けてください。蘭麗が幸せに為れば、私は十分幸福でございます」
 見栄を張っているのではない。言葉通りの本心だった。自身は既に、身に余る程の慈しみを受けた。ゆえに今後は母と共に、蘭麗に出来うる限りのことをしてやりたかった。
 ところが恵帝は、麗蘭がそう言った途端に表情を曇らせてしまう。
「麗蘭。わたくしは、そなたにそんな思いまでさせてしまっていたのですね」
 素直な気持ちを伝えたことで母が悲しげな顔をしたのを見て、麗蘭は居た堪れなく為ると同時に後悔した。謝ろうと口を開きかけた時、母の方が先に次の言葉を発していた。
「国の主と為って以来、いえ、あなた方の父上の妻と為って以来、わたくしは国のために生きてきました。けれど此の戦いが終わったら、屹度……」
 母が後に続けようとした誓い言が何であるのか、麗蘭は知っていた。そして今は未だ、母が口に出したくても出せないということも。
――早く、終わらせねば。早く母上の重荷を取り除いて差し上げなくては。
 国を治める覚悟が出来たと言えば、嘘に為る。しかし此の時、麗蘭は近く得るであろう玉座にかつて無い程の使命感を覚えた。其れは偏に、大切な者の苦しみを取り払いたいという一途な想いが為す業であった。


 会談の場所を隔て、聖安の軍営とは反対側に設けられた茗の陣営には、同様に珠帝や燈雅、従軍の兵たちが滞在する天幕が張られていた。 
 夕刻、燈雅は休んでいた珠帝を訪ねた。特に呼ばれたわけではないが、訪ねざるを得なかったのだ。
「何か言いたげな顔をしているな、燈雅」
 長椅子に横臥し頬杖を付いた珠帝は、燈雅の心中などお見通しとばかりに待ち受けていた。向かいに腰掛けた彼を見上げ、心底愉しそうに笑んでいる。
 珠帝の顔を潰せず黙っていたが、先刻の彼女は支離滅裂で燈雅にすら訳が分からなかった。和議に応じる積もりが無いのなら、会談の打診を受けた際に跳ね除ければ良い。態態敵を引っ張り出して自身も出向くとは、一体何を考えているのだろうか。
「麗蘭は恐ろしく美しい娘だろう。妃にと言われて、満更でもなかったのではないか」
「ご冗談を」
 聞き流そうとしたが、珠帝の読みは当たっていた。黒巫女の言っていた通り、聖安の第一公主の名状し難い美貌は人離れした光輝を放ち、目を奪われずにはいられなかった。
 彼の黒巫女が持つ蠱惑する妖しさとは対照的な、見る者全てに畏敬を向けさせる神聖さに包まれた麗姿。正しく神巫女に相応しい、絶対不可侵の少女とでも表現すべきだろうか。
 多くの女と関わってきた燈雅にとっても、あのような娘は初めてだった。そして誰もが侵すのを躊躇うと思われるからこそ、穢れ無き純白の魂と身体に踏み入ってみたいという好奇心に駆られたのだ。
「冗談ではない。おまえが取る道に依っては有り得ぬ話ではない。今後其れが、茗にとって最良と為るやもしれん」
 仮に珠帝が真剣に考えているのだとしても、今、燈雅はそんな話をしに来たわけではない。
「義母上。失礼ながら、近頃の貴女はどうかなさっています。斯様な状況で、如何にして戦を続けると言うのですか。金竜が復活しないという確証がお有りなのですか」
 今の珠帝に、こんな問い掛けをするのは実に危険である。万一分別を失くしているのだとすれば、機嫌を損ねただけで何を言い渡されるか分からないからだ。
 だが、此れしきの恐怖で怯える燈雅ではない。此処で珠帝の暴走を許せば、最終的に待ち受けるのは地獄だ。加えて彼女であれば、一時的に前後不覚に為っているとしても、辛抱強く説き伏せればいずれ目を覚ましてくれるだろう――と、彼は信じていた。
 義理の息子の諌言を受け、珠帝は暫しの間目を丸くして燈雅を見据えていた。ややあって手で口元を隠すや否や、突としてどっと笑い出した。
 珠帝が何を面白がっているのか、燈雅には全く解せなかった。理由は分からぬが、斯様に哄笑する彼女を見るのは初めてである。
「燈雅、嬉しいぞ。妾の目に狂いは無かった」
 止まらぬ笑いを堪えつつ、珠帝は上目を使い燈雅を見やる。怪訝そうな彼の肩に手を置いて、またもや謎めいた発言をする。
「おまえを後継に押した妾の選択に、誤りは無かったと言っているのだ」
 多くの皇子たちの中から、何故燈雅が次代の国主として選ばれたのか、此れまで明かされたことは無い。今もまた、珠帝が何を言わんとしているのか直ぐには見えてこない。
「もはや、此の世に『おまえの敵』は居らぬ。妾が追い立てた者たちを、おまえ自身の手で呼び戻せ」
「其れは一体……」
「おまえなら直に解る。いや、解らぬでも良い。とにかく言った通りにせよ」
 問いを挟もうとする燈雅を制止し、珠帝は強い口調で念押しした。
「そして、容赦無く妾を糾弾するのだ。追放した者たちを復権させたうえで、妾を責めれば責める程、おまえの地位は安泰と為る」
 其処まで来ると、察しの良い燈雅は気付き始める。其の勘が当たっていると思うと、余りの衝撃に喫驚する。
「まさか、貴女は……」
 もし燈雅の想像が正しいとすれば、彼は己の器が如何に小さく、継母の懐が如何に深いのか、改めて思い知ることに為る。同時に祖国を憂う者として、彼女という存在を失い掛けている現状に恐れ慄いた。
「明日、会談は終わる。おまえは証人と為り、妾が恵帝と麗蘭に何をしたか――如何に狂気に溺れたか、しかと見届け、我が国の民に伝えるのだ」
 燈雅の目に映ったのは、決して狂的ではない、彼の知る通りの女傑だった。
「言いたいことを言い切ったのなら、下がって良い」
 未だ小さく笑みを残したまま、珠帝は命じた。我に返ると、燈雅は静かに頭を下げた。
「失礼いたします」
 彼が退席して一人と為った珠帝は、指で額を押さえて天井を仰ぐ。身体は熱を帯びてこめかみには汗が滲み、胸は相変わらず苦しかったが、疲労や苦痛よりも満足感の方が勝り、艶やかな顔には喜色を露わにしていた。
「陛下、最後の時が来ました。必ずや守り抜いてみせまする。貴方さまに愛された女として……恥じぬように」
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