金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十五.悪夢
 運命の、日。
 夢境を渡る力を授かりし少女は、女王と竜を封じた青年の哀しい過去を巡り、苦難に満ちた未来に辿り着いた。
 初めて見る夢ではなかった。独り敵国に囚われている時から、嫌という程見せられていた夢だ。
 過去の世界に関する夢は、見る度に記憶を失い目覚めると憶えていない。其れは続けて誘われる未来の夢が、少女にとって余りにも恐ろしく悲惨だから。彼女にとって大切な『誰か』が、非業の死を遂げる予知夢だから。
 其れゆえに、女王と竜の話がかつて敵の剣士から聞いた物語と同じだということに、少女は少しも気付かなかった。気付いたとしても、朝が訪れると忘れてしまっていた。
――しかし、『此の日』は何時もと違っていた。
 未来に喪われる大切な人が誰であるのか、初めてはっきりと見えたのだ。

 白林城に残った蘭麗は、会談二日目の朝を自室で迎えた。
 天蓋付きの寝台で目を覚ますと、頭から足先までが震慴し、顔は血の気が引いて身体に寝汗が纏わり付いていた。更に、両の瞳からは大粒の涙が溢れて薄紅に腫れていた。
 只の夢だ、と己に言い聞かせてみても、ある種の強迫観念の如く脳裏に貼り付いて離れない。実際、彼女の見る夢は単なる夢ではない。頻繁ではないものの、正夢と為って現実に現れることも有る。
 女官に手伝わせて急いで着替え、支度もそこそこに室を飛び出す。供も付けずに単身向かったのは、蒼稀上校の客室だった。
「姫、如何されましたか」
 室から出てきた蘢が、立ったまま丁寧に礼をする。見るからに焦っている彼女を目にし、何か尋常ではない事態が起きているのに気付く。
「申し訳ありません。今、他に城内にお話し出来そうな方が居なくて……」
 自分を助け出してくれた此の青年ならば、屹度何とかしてくれると思った。無謀な願いでも聞き入れ、助力してくれると信じられた。
 辺りを窺い、誰も居ないのを確認した上で、蘭麗は意を決した。
「如何しても、会談の場所に行きたいのです。今日の会談が始まる前に、恵帝陛下に伝えねばならぬことが」
 突然のことに驚いた表情をする蘢だったが、躊躇い無く頷いた。
「私でよろしければ、お供いたします」
 願い出ておきながら、蘭麗は自身の行いを後悔した。
「貴方が? でも、貴方はお怪我をされているではありませんか」
 何故想像出来なかったのだろう。蒼稀上校ならば、自ら同行すると言っても何ら不思議は無い。そもそも、蘭麗の言葉は『お願い』であっても命令に為る。重傷を負って療養中の彼に頼むべきではなかったのだ。
「医官には剣を振るうなと言われておりますが、馬に乗るなとは言われておりません」
 爽やかな笑顔で屁理屈を捏ねる蘢に、蘭麗は不安げな視線を送る。
「ご安心を。必ずや母君の許までお連れいたします――何か訳がお有りなのでしょう」
 此のまま蘢に任せても良いのか迷う蘭麗だが、彼の終わりの一言ではっとする。今、他の者に頼んだとして、斯様にすんなり引き受けてくれる者が居るだろうか。他の者を探している間に、取り返しの付かないことにならぬだろうか。
 立場上、蘭麗はそう簡単に城から出られる身ではない。戦時中の今は特に厳しく、恵帝の許可を得て瑛睡の指示のもと、幾人もの護衛を付けねば動けないはずだ。
 勝手に連れ出したりすれば、蘢が軍法会議にかけられ責任を問われかねない。其れを承知の上で、彼は理由も聞かずに蘭麗の頼みを聞いてくれるという。
 だが、たとえ蘢を困らせたとしても、蘭麗は行かねばならなかった。何としてでも母に会わなければ、己が一生悔い続けることに為るだけでなく、聖安全土を揺るがす事態に繋がりかねない。
 悩んだ挙句、蘭麗は首を縦に振っていた。
「頼みます。貴方に連れて行っていただく以上のご迷惑は掛けません。責は私が負います」
 強く言い切った蘭麗に、蘢は少しだけ困り顔に為る。
「其のような些事は、お気になさらず。私は貴女に助けていただきました。だから私の身命は、何時でも貴女に差し上げられるのです」
 蘭麗が口を開く間も無く、蘢は一度室内に戻って直ぐに出て来る。目立つ禁軍の軍服は避けて詰襟の上着を羽織り、手には剣を持っていた。
「参りましょう。此れは……御守りです」
 剣は振るわないと言った矢先に剣を携えて来たからか、蘢はややばつが悪そうにしていた。
 何と頼もしい青年だろうか――と、蘭麗は改めて感嘆させられた。彼が母や瑛睡に信頼され、重用されるというのも解る気がする。
 蘢に連れられ、蘭麗は城の裏門へと向かう。如何いう訳か、彼は城内の警備にあたる兵の配置などを頭に入れていて、人に出会わずに済む出方を把握しているらしい。あっという間に外へ出ることが出来た。
 幸いなことに、門兵は蘭麗の顔を知らないうえに、蘢のことも知らない。蘢が階級章を見せて差し障りの無い言い方で馬を連れてくるよう命じると、兵は何の疑念も持たずに一頭の黒い軍馬を引いて戻って来た。
「輿よりも、此方の方が速く走ります。視界が高く為り揺れるのでお辛いかもしれませんが、暫しご辛抱いただけますか」
 蘭麗が尻込みすること無く頷いたのを確認し、蘢は一言断った後に彼女を抱き上げ馬に乗せた。
 初めて馬に乗り、彼の言った通り急に目線が高く為るのに驚く。続いて蘢も蘭麗の前に乗り、手綱を握る。
「私の腰に御手を。振り落とされないように、しっかりと捕まってください」
 言われた通りに手を回し、蘢の広い背に顔を近付ける。しかし彼が胸骨を折っていることを思い出すと、慌てて手を離した。
「強く抱き締めては、お怪我に障るのではありませんか」
「殆ど治り掛けていますし、痛みも感じません。貴女さまを馬から落としてしまう方が万倍恐ろしい」
 背後の蘭麗に優しく微笑み、蘢は再び真正面を見た。開かれた鉄門の向こうには、質実な白林の街が広がっている。足下から石畳の広い道が伸び、街の北側へと続いていた。
 涼しげな顔の蘢からは、痛みが無いという彼の言葉が本当かどうか分からない。優れた剣士というのは、酷く負傷していても絶対に気付かせないのだという。
「……では、お言葉に甘えます。ご無理はなさらないでください」
「畏まりました」
 祈るが如く言う蘭麗に、蘢は静かに首肯して答える。其れを見た蘭麗は、彼の腰に恐る恐る手を伸ばし、再び掴まる格好と為った。
「参ります」
 蘢が一言発して馬の腹を蹴ると、高く嘶いて走り出した。蘭麗は目を閉じ、速力を上げてゆく馬に振り落とされぬよう、彼の身体に必死にしがみ付いていた。


 休息を取りながら馬を走らせ、蘢と蘭麗は一刻程で泰明平原に到着した。聖安の宿営地に入って瑛睡に会い、事情を説明して速やかに恵帝の天幕へと案内してもらうことが出来た。
「蘭麗、驚きました。蘢に連れて来てもらったとか」
 丁度支度を終えていた恵帝は、人払いしたうえで娘と蘢を招き入れた。無事に着いて安堵したのも束の間、蘭麗は目的を思い出して直ぐ様母に取り縋る。
「母上、我儘をお許しください。されど……今日は、今日は……」
 急き立てられるように此処までやって来た蘭麗だが、いざ母の前に出ると言葉を詰まらせてしまう。如何様にして母へ危機を伝えるか、良く考えておくべきだったと悔やんだ。
「今日は、会談の場にお出でにならないでくださいませ。お願いでございます」
 結局飾らず、真っ直ぐに伝えるしか出来なかった。恵帝は目を白黒させて蘭麗を見詰め返す。
「一体何があったのですか」
「夢を見たのでございます。私の大切な方が身罷られる、恐ろしい夢を。以前繰り返し見ていましたが、此の数ヶ月ははたと止んでおりましたのに……」
 蘭麗が見る夢は単なる夢ではない。時に鏡の如く人心を映し、時に誰も知らぬ秘密を暴き、時に変えようのない未来を見せてくれる。此の母も、彼女の持つ異能の特性を良く知っている。
「大切な者というのは?」
「其れは、其れは……!」
 言えなかった。母の問いに、如何しても答えられなかった。口から出掛かったところで止まってしまい、最後まで出し切れなかった。落涙して両頬を濡らし、言葉を失い震えを止められなかった。
 両手で顔を覆って俯く蘭麗に、恵帝がゆっくりと歩み寄る。両腕を広げ、肩を竦めた娘を安心させるために包み込んだ。
「辛い思いをさせましたね。其れで……急いで来てくださったのですね」
 聞かずとも、恵帝には蘭麗の答えが分かっていた。娘が恐れているのは他でもない――恵帝の死なのだと。
「心配しないで。そなたの夢に出てきたのが『麗蘭でないのならば』大丈夫」
 胡桃色をした柔らかな髪の上から、幼子にしてやるように娘の頭を撫でる。
「わたくしは、そなたを傷付け続けた酷い母親です。其の償いが出来なく為るとすれば無念でなりませぬ。そんな母の言葉ですが……どうか、今から言う二つだけは守ってください」
 恵帝は蘭麗の肩を離し、彼女の両目を覗き込む。
「今後何があろうと、麗蘭を――姉上を支え続けてください。姉上の使命を理解した上で、重責に押し潰されるであろう姉上を救ってやれる肉親は、そなたしかいないでしょう」
 其の言い付けは、蘭麗にとって新しいものではなかった。幼い日、麗蘭という姉の存在を知らされた時より、幾度か言い聞かされてきたものだ。
「但し、其れよりも重要なのは二つ目です」
 心なしか、恵帝の口調が強く為る。
「近いか遠いかは分かりませんが、国を統べる者の血を引くそなたには、何時の日が選択の時が来ます。自身や大切な者の幸せを取るか、国の未来を取るか、自分で選ばねばならぬ時が屹度やって来るでしょう」
 経験に裏打ちされた恵帝の予言は、悲しい程の自信に満ちていた。
「約束してください。其の時は、必ずや貴女自身や愛すべき者の幸せを手にすると。長い時を国のために奪われてきた貴女にはそうする権利が有り、そうせねばならないのです」
 聖安を統治する使命のために、己を殺して娘たちを生贄に差し出した罪――其の選択が過ちであったかどうか、今は未だ、誰にも分からない。だが祖国に帰り、自由を取り戻した蘭麗の幸せを願うことは咎ではなく、誰にも責められはしないはずだ。
「蘢、お願いがございます」
 蘭麗の後ろに控えていた蘢を見やり、声を掛ける。
「蘭麗を白林城まで。あと半刻で会談が始まりますので、其れよりも前に発ってください。お怪我が辛ければ、瑛睡に頼んでも構いませんが」
「必ず、私がお連れいたします」
 労りに溢れた下命に対し、蘢は間髪入れずに毅然として答えた。恵帝は平伏している彼の許へ歩いてゆき、顔を上げるよう命じる。
 誠忠なる青年の、濁り無き蒼い眼を見据え、堪え切れなく為った感情を横溢させる。
「そなたには苦労を掛けました。そなたはわたくしが見てきた聖安の若者の中で、最も優れた剣士です――娘たちを助けてくれたご恩は、何時までも忘れませぬ」
「恐悦至極に存じます」
 そう答えた蘢の声も、押し寄せる想いに激しく揺さぶられていた。
「此れからも、公主たちを頼みます」
「は。命を賭して」
 理由を聞かぬまま蘭麗を連れて来た蘢も、此処まで来れば察していた。蘭麗の見た夢がどんなもので、恵帝が今何を覚悟しているのか――察したがゆえに、蘭麗と同様主君を止められぬ自身を責め始めていた。
「さあ、行ってください。会談に臨む前に、あなた方にお会い出来て良かった」
 娘たちに向け、恵帝は翳りの無い微笑みを湛える。只一つの後悔も無く満ち足りて、幸せだったとでも言いたげな穏やかな表情は、母の苦悩を知る蘭麗にとって残酷で辛いものだった。
 蘢に続いて室を出て行く蘭麗は、熱い眼差しを送っているであろう母を決して見返らない。一度でも振り返れば、其の場で崩れ落ちてしまう。後一度でも母の顔を目に入れれば、己の弱さに負けて醜態を晒してしまう。
――どうか、どうか。私の夢見が只の悪夢でありますように。現実になど為らずに、全て私の思い過ごしでありますように。
 胸の前で指を組み、心の中で切なる祈りを捧げる。
――誰か、誰か! 母上をお守りして。誰でも良いの……お願い。
 苦しげに叫ぶ蘭麗が我知らず頭に描いたのは、麗蘭の姿だった。
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