金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十六.予言
 会談二日目の正午が迫り、珠帝は自身の天幕でひっそりと時の訪れを待っていた。
 定刻まではあと、四半刻程。人払いをして、十数人の女官たちも全て外に出している。真紅の深衣を纏い黄金の王冠を戴き、両方の眼をきつめに閉じて、微動だにせず椅子に座していた。
 思い描いていたのは、遠い日のこと。『四神』と共に、覇道を切り開いた数々の挑戦と成功や、愛する夫との婚礼。其の夫が自分の命に依って死んだ瞬間や、只一度だけ授かった赤子の死産に嘆いた日々。そして、己が人生に不可欠であった英雄との運命の出会い――様々な記憶が取り留めも無く甦る。
 瞑想に耽っていると、来客が直ぐ其処までやって来たのを気配で感じ取り、気怠げに目を開けた。
「陛下。巫女さまがお会いになりたいと」
「お通しせよ」
 取次の女官が言い終わる前に、珠帝は即答して席を立つ。其の後幾らもしないうちに、首から下を黒衣で覆った黒髪の美女が現れた。
 黒巫女瑠璃は、女帝の前に出ても膝を折らず、目と目を見交わして漸く首を垂れた。黒衣の下に持っていた一本の剣を取り出すと、右手で柄を、左手で鞘に収められた刀身を持ち、恭しく差し出す。
「我が君の命にて参りました。貴女さまに、御剣をお預けいたします」
 珠帝は其れを片手で受け取り、僅かだけ抜いて確かめた。
「如何すれば良いか――お分かりですね」
 黒巫女の問いには応えぬまま、珠帝は暫し淵霧を見詰めていた。透ける黒石の美麗なる剣は、只人が触れれば心身に異常を来たすであろう魔力を湛えていたが、今の彼女にはむしろ安らぎを与えてくれた。
 納刀して剣先を下げて持ち、瑠璃の方へ向き直る。
「彼の君にいただいた力とそなたのお陰で、やり残していたことも片付けられた。此れ以上、悔いは無い」
 言葉通り、珠帝は満たされた微笑みを洩らした。
「多くの血が流されました。貴女と、貴女の後継者の敵は、皆殺しておしまいに為ったのでしょう」
 そう訊かれると、珠帝の笑みには少しの自嘲が加わった。
「此の力に頼らずとも、妾は人の心を覗くことにかけては自信が有った。されど、分からぬものだな。韶宇翁が妾の暗殺を企んでいなかったことも驚いたが、敵が斯様に多いとは思わなんだ」
 緑鷹が匂わせた枢相韶宇の叛逆は、珠帝が韶宇の心中を覗いたことにより事実無根であることが判明した。しかし、珠帝を廃して別の皇帝を立てようと目論んでいたのは確かであったため、黒神と瑠璃の助力を得て殺害したのだ。
「此度の粛清で、『事情を知らぬ者からすれば』、陛下は立派な暴君と為られましたわ。我が君も感心されていました」
 淡々とした瑠璃の言葉には、心底からの感嘆が込められていた。黒神が評価していたがゆえの称賛だけではなく、瑠璃自身、珠帝の『演技』には舌を巻いていた。
「燈雅に会ったのだな。流石のそなたも、あれは誘惑出来なかったと見える」
 出し抜けに言い当てられ、瑠璃は微かに怪訝な色を示す。主から得た力で、珠玉が彼女の心内まで読み始めたのに気付いたのだ。
「あれは未だ若いが、此の十数年で妾が見出した唯一の後継だ。そう簡単にそなたらの誘いに乗る男ではない」
「……仰せの通り。陛下が期待をかけていらっしゃるのも良く分かる、王の器をお持ちです」
 悔しさなど一切見せず、瑠璃は燈雅を素直に誉めた。其れは、彼女が燈雅に対し抱いた正直な印象だった。
「巫女殿。今ならば、そなたの胸底も見えるぞ」
 片眉を上げた珠帝は、瑠璃に底光りする視線を投げ掛ける。
「まこと、悲しき性よ。天地が逆さまに為っても自分を愛さぬ男のために、自分を愛してくれる男たちを喰い殺し続けねばならぬ。女として、此れ程の悲劇があろうか」
 同情を向ける珠帝の声には、一人のうら若き女に対する本物の哀れみが含まれていた。
「彼の君は、妾は抱いてもそなたは抱かぬ。屹度此れからも……他の人間の女は抱いても、そなたには偽物の愛すらくださらぬだろう」
 無慈悲なる予言を受け、顔色こそ変えないものの、瑠璃は珠帝に見えぬように右拳を握った。
「陛下。緑鷹さまのことで、私を恨んでおられるのですか」
「くくく、そうかもしれぬ。だが、妾は元よりそなたを好かぬのだ。そなたとて、妾を好きには為れぬだろうがな」
 薄い笑みを絶やさぬ物言いには、悪意というよりも悪戯心に近いものが表れていた。
「そしてそなた以上に……あの女を好かぬ。あの女の考えが見えるように為り、更に気に入らなく為った。彼奴もまた、『真の女王』なのだ」
 珠帝の言う『あの女』が誰のことなのか、瑠璃には直ぐに分からなかった。脳裏に浮かんできた者がそうだと確信するのに、珠帝の次の言葉を待たねばならなかった。
「ずっと長い間、あの女の首と胴を切り離して衆目に晒してやりたいと願っていた。今日、其れが叶う」
 瑠璃から目を逸らした珠帝は、何処か遠くを見て深く息を吐く。
「さらばだ、黒巫女。そなたが今生のうちに彼の君の呪縛より逃れられることを、冥府で祈っていてやろう」
 もう一度瑠璃を一瞥し、最後の一言を告げると、珠帝は淵霧を手にしたまま室を出る。瑠璃は無言のまま、去り行く彼女の背に向かって深々と頭を下げていた。
「陛下。我が君の御心を少しでも動かした貴女が妬ましい。されど、心より敬愛申し上げます。落暉の女王として君臨した、貴女の生き方を」
 女帝の居室の中、一人残された瑠璃の声が静かに響く。終わりへと旅立つ偉大な女王に贈る、彼女なりの秘めやかなる餞であった。


「麗蘭、どうかしましたか」
 天幕の外で輿に乗る直前、恵帝は傍らに立つ麗蘭に声を掛けた。
「あ、いいえ。大したことではないのですが……」
 会談を前に、麗蘭は昨日と同じく女官に身支度を手伝わせた。髪を編んで高く纏め、簪で飾ってもらったが、動いているうちに違和感が出始めた。
 麗蘭が髪を気にしているのを見て、恵帝は彼女の後ろへ回る。恵帝よりも麗蘭の方が少しだけ背が高いので、やや目線を上げて確かめてみる。
「簪が上手く挿さっていませんね」
 髪型が崩れないよう、慣れた手付きで一本だけ簪を外すと、丁度良い位置に挿し直す。他にも目に付いた部分に手を加え、全体的に整えてやった。
「如何ですか」
「ありがとうございます。良い具合に為りました」
 振り返り礼を述べた麗蘭は、母が暫時黙したまま自分を見詰めているのに気付く。
「母上?」
「……いえ、何でもありません」
 結んでいた口元を緩めると、恵帝は麗蘭の両肩に手を置いて強く言った。
「では、参りましょう」
「はい」
 此の時、麗蘭は未だ察していなかった。此れから降り注ぐ大きな禍難を知った母が、ある重厚な覚悟を定めていたことを。
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