金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十八.暴走
 瞬きする程の時間だった。
 世界が一瞬にして明るく為り、波打つ金色で覆われる。其の煌めきが恵帝の髪だと気付いた時、彼女は両腕を広げ、麗蘭の目の前に背を向けて立ちはだかっていた。
「はは……うえ」
 珠帝の手にした剣が、母の胸から背へと貫通している。赤い血を吸った黒の刃が、麗蘭の身体に達する寸前で止まっていた。
 何故斯様な事態に為ったのか、全く見えなかった。今分かっているのは、自身に向けられたはずの珠玉の凶剣が母を刺し貫いているという事実のみだ。
 麗蘭を『仕損じた』はずの珠玉だが、彼女はまるで動揺していない。恵帝の肩越しに麗蘭を見て、余裕有る頬笑を浮かべている。
 母親に迫る死を麗蘭に見せ付けた後、珠帝は恵帝の身体からやっと剣を抜き取った。其の場に倒れ行く母を支えてやることも出来ず、麗蘭は瞠目し硬直していた。
「義母上、何故……」
 何の前触れも無い珠帝の凶行に、燈雅も絶句するしかない。血を流して横たわる恵帝と、其れを見下ろし満足げに笑みを漏らす継母を交互に見て、彼は再び麗蘭を見やる。
「麗蘭公主」
 燈雅は、思わず其の名を呼んでいた。倒れた母に駆け寄るでもなく、少女は驚くべき表情で珠帝を睨め付けていたのだ。其処に籠められていたのは怒りでも悲しみでもなく、人の持てる感情を超越した激情であった。
 凄絶なる冷気が、あっという間に場を支配する。麗蘭の放つ異様な威圧感と、珠帝が解き放った黒の力が空間を蹂躙し、燈雅の呼吸すら阻害する。
――『此れ』が、あの公主なのか?
 今まで見てきた麗蘭とは全く異なる様子の少女を目にし、言葉を失する。気付いた時には彼女が右手を高く翳し、白い光を集め始めていた。
 正常な視力を奪う程の燦たる輝きが、次第にとある形を作って大きく為ってゆく。やがて現れたのは、麗蘭の魂と固く結び付けられた神剣――天陽であった。
 召喚した天陽を手に取り、剣先を珠帝へと向ける。神剣と一体と為った麗蘭からは、尋常ではない熱量を持った光焔が迸出していた。
――止めなければ。
 白い炎の如き光に包まれ、纏う神気を瞬く間に膨らませてゆく麗蘭を見て、燈雅は直感した。放っておけば、珠帝は麗蘭の制裁を受け、今以上に取り返しの付かぬ惨状に為るのは必至だと。
「公主、止せ!」
 声を上げると、麗蘭は燈雅へと顔を向けた。つい先刻までは強靭な意志の力に満ちていた深紫の瞳が、別人のような空虚さに侵されている。燈雅を捕らえてはいるが見てはいない、心の火を失くした眼差しに射抜かれ、彼は息を呑んで動けなく為った。
 天陽を抜いた麗蘭は、燈雅へと一振りして空を切る。発せられた神気が光刃と成り、防ぐことの出来ぬ燈雅は圧倒的な衝撃を受けて後方へと吹き飛んだ。
「此れが……真の光龍の力か」
 地に伏し、意識を消失した燈雅をちらりと見て、珠帝は驚愕と歓喜に身震いした。頭を上げると、再び神巫女と視線がぶつかる。
 次の一瞬、麗蘭は一足飛びで珠帝に肉薄していた。真っ向から天陽を斬り下ろすが、珠帝も淵霧で受け止める。
 鍔迫りと為る中、剣の奥にある麗蘭の双眸に、珠帝は映っていない。
――『母を傷付けた敵』というよりも、『黒神の剣を持つ敵』という目で見ているのか。
 彼の邪神から得た読心の力も、麗蘭相手には通じない。ゆえに珠帝の勘に過ぎないが、若き光龍は今、自我を失くしているようだ。
 間合いの外に離れて剣を下げた途端、珠帝は片膝を付いて左手で口を覆う。右手で持った淵霧を突き立て激しく咳き込み、押さえた手の中に血を吐いた。
 黒の力に蝕まれた珠帝は、麗蘭の聖なる神気の影響をまともに喰らってしまう。相容れない二つの神力が同時に作用し、只でさえ弱っていた彼女の身体は極に達していた。
「約束は……果たした」
 両の肩を上下させつつ尚も微笑み続け、息絶え絶えに語り掛ける。
「黒の君、約束は果たしました。妾の望みを……叶えていただきたい」
 壮絶な苦しみに耐え兼ねて、左の手で胸を掻き毟る。右の手は淵霧を床に立てたまま離さず、小刻みに震える全身を何とか支えている。
 珠帝の求めに対する応えは無い。刻一刻と命が削られてゆくのを感じながら、珠帝は静かに近付いて来る麗蘭を見上げた。
『開光した』神巫女は、珠帝の想像を絶する美を有していた。神力を放出した際、結い上げていた髪は解けて舞い上がり、白い肌はより強く光り輝いている。惜しげも無く放つ神気の強大さは、黒の力を受けて気を高めた珠帝をも震慄させる程。
 今此の少女を動かしているのは、珠帝が己の運命を捻じ曲げたことへの憎悪や、母親を害したことへの憤怒ではない。只、宿を為す為に――黒神の勢力を人界から一掃する為に、光龍の心魂に受け継がれてきた神命が麗蘭を操っているのだ。
 未だかつて、珠帝は此れ程神聖で厳かなるものを前にしたことは無かった。そして此の麗蘭の姿こそ、女傑が如何なる犠牲を払っても手に入れたかったものだった。
 金竜を滅する力を持った、神の寵愛を受けし巫女――彼の少女を覚醒させ、魂の奥底に眠る真の力を呼び覚ます。其れこそが珠帝の目的であり、黒神との『取引』における『条件』でもあった。
 しかし取引したはずの黒神は、珠帝の悲痛な嘆願にも答えない。姿は疎か、其の邪悪な気配の片鱗を現そうともしない。
 地に平伏した珠帝の許、麗蘭が目前まで迫っていた。悶絶しそうな苦痛に耐える女帝は、口元から垂れた血を気にすることも無く、残された力を振り絞って逃げようともしない。
 生気の無い瞳で彼女を見下ろした麗蘭は、天陽の柄を両手で持って頭上へと運ぶ。
――結局、こう為るか。
 終幕を悟り、珠帝は諦念を籠めて苦笑した。神巫女の光が開いた今、たとえ黒神が約束を破ろうと希望を持つことが出来る。このまま麗蘭の剣で斬られようが、相反する二つの神気に取り殺されようが、後は託すことが出来る。
 麗蘭が白刃を振り落とす際、珠玉は両眼を閉ざすこと無く見開いていた。閉じるわけにはいかなかった。多くの犠牲を払って実現させた光龍の開光を、己が命の尽きる最期まで刻んでおかねばならぬのだから。
 ところが次の刹那、麗蘭と珠帝との間に割って入る者が現れた。麗蘭の一刀は、其の者が持つ大剣に依って止められた。
「青竜……?」
 珠帝の前に躍り出たのは、黒の衣服を纏った銀髪の男。茗の宮殿で臥せっているはずの、青竜上将軍だった。珠帝を狙った天陽を止めると、剣を弾いて麗蘭から数歩離れる。
「そなた、何故……」
 男の姿を見て、珠帝は此の会談において初めての狼狽を露わにした。彼の頭上から足元までを見詰め、幾度も目を瞬かせる。
 つい先日、珠帝が都を出る前に訪ねた時の青竜は、筋力が失くなり指一本すら動かせず、肌は爛れて皺だらけに為っていた。だが今の彼は、珠帝の知る竜の化身其のもの。三尺もの大剣を自在に操り、麗蘭の一撃を軽々と受けられる程の強さを取り戻していた。
 しかし、覆いを付けていない左目には金の邪眼が埋まっている。呪いが解けたのではなく、何らかの力で一時的に金竜を押さえ込んでいるのだろう。
 青竜が誰の助けを借りたのか、珠帝は瞬時に見抜いた。もし彼女でなくとも、此の特徴的な気を感知出来れば誰にでも分かっただろう――此れは、黒神の為した御業であると。
「未だ、開光を遂げていないようだな。僅かだが、時は残されているらしい」
 独り言の如く発せられた青竜の言葉に、珠帝は更に驚かされる。
――開光していない……だと?
 目を細め、珠帝は麗蘭を凝視する。爆発的な神力の高まりと自己の喪失から、光龍としての覚醒を遂げたとばかり思っていた。
 やがてあることに気付き、珠帝は殺したはずの恵帝を見た。
「青竜、恵帝だ……恵帝を殺せ。殺せば光龍が目覚め、黒神との約束が果たされる。さすれば……」
「陛下。其のご命令には従えませぬ」
 主に背を向けて立った青竜は、膝を付いている彼女を助け起こしもせず、悪びれもせずに言ってのけた。
「あの娘を生かしてはおけませぬ。ゆえに、黒神に『其れ』を望みました」
 青竜が何を言っているのか、珠帝には全く解せなかった。此の二十年来、彼の背反など初めてであり、有り得るはずもないことなのだから。
 金竜と黒神――二つの邪力を取り込んだ青竜は、光龍として目覚め掛けている麗蘭に対峙した。
「光龍よ。私はおまえの倒すべき宿敵の力を二つも纏っている。陛下ではなく私を狙うが良い」
 穏やかな挑発に対し、麗蘭は応えない。しかし邪穢を滅するという神巫女としての本能が、青竜の目論見通り彼を敵として認識させる。
 天陽の切先を青竜へと向かわせ、臨戦の態勢を作る。此の男には以前、泉栄で敗北を喫しているが、今の麗蘭には躊躇も恐れも無い。敵意や殺意も無いが、戦意だけが前に出ているという状態で、攻撃の機を窺い始めた。
 邪神の助力を得て、一時的に往年の実力を取り返した青竜は、珠帝ですら目撃したことの無い程の莫大な神気を発現している。限られた時間の中で、主を脅かす神の娘を必ず仕留めねばならない。其のためだけに、彼は憎き黒神に屈したのだ。
 闇の深淵で、金竜が青竜に見せた未来とは、黒神に与した珠帝が麗蘭に依って命を絶たれる瞬間だった。開光が成れば、其の悪夢は現実に為る。
 長く死に瀕した極限において、青竜は己が最後に為すべきことを見出した。其れは、珠玉というたった一人の女を守ることだった。
――未だ『青竜』ではなかった頃、私は女王である貴女を一心に求め続けた。私に必要なのは女王である貴女だと思っていた……だが、貴方が女王である御身を捨てようとしている今も、貴女を失いたくない。
 極めて身勝手な望みだった。実現させるには、青竜の持つ様々なものを犠牲にせねばならなかった。非天に跪くことで栄誉や矜持に加え、紅燐を救うための戦いを放棄しただけでなく、珠帝の命に真っ向から背く大罪を犯した。
「許さぬぞ……断じて許さぬ。妾の命に背くなど」
 麗蘭に相対する青竜の後方で、珠帝は咽びながらも怒気を含む声で言った。黒の力との同化に依る反動で命が尽き掛けている中、予期せぬ青竜の違背は珠帝に大き過ぎる混乱を与えた。黒い霧に視界を塞がれ心を読むことも叶わず、彼が何故自分の命に背くのか想像すら出来なく為っていた。
 青竜は主の憤慨を感じていたが、背後を見返りもしない。大剣を脇に構え、青竜も麗蘭の攻撃に備える。泉栄の時とは違い、彼女を本気で殺そうとしているため、並外れた殺気が四隣に満ち満ちてゆく。
 神巫女と、人であることをやめた竜の化身――二人の戦いが始まろうとした時、天幕の入口からまた一人現れた。
「麗蘭!」
 敵の向こうに其の者の姿を見た時、麗蘭は即座に自身を取り戻した。
「魁……斗」
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