金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十九.英雄の最期
 千五百年もの間堆積された絶大なる光龍の意思が、只一人の青年に依ってたちどころに払い除けられた。正気に返るなり、金竜と黒神の寒気立つ気が充満しているのと、魁斗が驚倒しているのに気が付く。
 信じられないという面持ちで立ち尽くす魁斗は、麗蘭ではなく彼女の足元を見ていた。
「恵帝陛下」
 彼らしくない、力の抜けた声が母を呼び、麗蘭も直ぐ様横を見下ろす。
「母上……母上!」
 天陽を落とした彼女は、倒れて動かない母の許へと駆け寄る。
――何故、どうして……こんなことに。
 動転して取り乱すが、震える手で母の胸に手を当てた。弱り切った鼓動と神気の流れを確認し、未だ息が有るのを認める。安心する暇も無く自分の神力を発動させ、夥しい血が流出している刺傷へと右手を伸ばす。
「傷口から……『奴』の気が」
 離れた所で片側の膝を立てている珠玉を見やり、支えにしている剣を注視する。
「まさか――『淵霧』で?」
 黒神の気に支配された魔の森で、妖たちを操っていた邪剣は記憶に新しい。あんなもので刺されては、容易く治癒は出来ない。
 母の命を救おうと麗蘭が集中し始めると、青竜が地から足を放していた。横槍が入ったものの彼の殺気は衰えておらず、大剣を振り抜き神巫女に襲い掛かる。
 魁斗は青竜の動き出すのを見逃さず、彼よりも速く走り麗蘭の前へ出る。腰の刀を瞬時に抜いて敵の大剣を止め、反応に遅れた麗蘭を守った。
「青竜……おまえまで」
 剣を鍔もとで押し合いながら、魁斗は眉を寄せた。香鹿で紅燐が『死んだ』時、此の怪物と初めて会った時と比べ、邪神の力が上乗せされて一段と強い力を感じる。闘神の血を引く彼ですら、全身を揺さ振られるかのような威圧感に肌が粟立つ程だ。
 外から見ていただけの魁斗には、天幕内がどんな状況に為っているのか少しも掴めなかった。突如黒の気が現れたかと思えば麗蘭の気が膨張し、覚えのある金竜の気配までもが現出した。居ても立っても居られず、瑛睡に後を任せて飛び込んで来てしまった。
 ゆえに彼には、君主会談の場が斯様に混迷としている理由が分からなかった。如何な経緯で恵帝が凶刃に倒れ、麗蘭が母を置いて青竜と戦い始めようとし、黒の気に浸された珠帝が悶え苦しんでいるのか、皆目視えなかった。
――戦うしか、ないのか。
 金竜と戦った際、魁斗は青竜を見殺しにしないためにも己を擲とうとした。黒神に対し、いずれは共闘出来るのではないかという淡い期待を抱いたからだ。
――紅燐のことで奴を恨んでいるはずの青竜が、どうして奴の力で生き長らえている?
 問うてみるが、此の期に及んで考えても詮無いことだ。其れに、魁斗は勘付いていた。黒神の力でほんの僅かな時間金竜の浸蝕を押し返しているとはいえ、青竜はもう幾らも保たぬだろう、と。青竜本人の気と金竜、黒神の気――少々均衡が崩れただけで肉体は破壊され、今度こそ死を免れないだろう。
 後ろの麗蘭の様子を確かめたいが、気を逸らせば其の隙に斬られかねない。
――俺が此奴を通さなければ済むことだ。
 自分に強く言い聞かせて、青竜の剣を弾いて二撃目を送り込む。何度か打ち合いと為り剣を重ねた後、上手く捌いた魁斗が利き腕を狙って横に薙ぐ。
 使い慣れた剣を巧みに操る青竜は、剣先を下にして難無く受ける。魁斗に三撃目を許さず、彼の首を狙って斬り払おうとした。
 両手で柄を握って刀を垂直に立て、魁斗は首の横で防ぐ。青竜の剣撃は余りに重く、刀身から腕へと激震が伝わってくる。
 此の一閃で、魁斗は青竜が本気であると確信した。行く手を阻む魁斗を殺し、麗蘭を殺すため、手加減をする積もりは一切無いらしい。
 対する魁斗は、仮にそう望んだとしても、簡単に青竜を殺すわけにはいかなかった。彼の死は即、金竜の解放に繋がるからだ。
――こう為ると、不利だな。
 片や相手への殺意を持って挑む青竜と、片や殺さずの意思を持つ魁斗。戦いにおいてどちらに分が有るかといえば、前者に為るだろう。
――青竜に加担したのが奴だとすると……全て奴の筋書き通りというわけか。
 時を稼いだとしても、此のままでは直、青竜は倒れる。遅かれ早かれ金竜は解き放たれるという寸法だ。魁斗は未だ姿を見せずに糸を引く黒神への怒りを覚え、足元がぐらつきそうに為るのを何とか抑え込んだ。
――俺が青竜を殺すか、青竜が俺と麗蘭を殺すか……どちらに転ぶか見物して楽しんでいるのだろう。
 悪趣味としか言いようのない黒神の企みに我を忘れ掛けるが、其れこそ邪神の思い通りと為ってしまう。青竜との対決に専念することで、頭を冷やそうと試みる。
 戦いにのめり込んでゆく青竜と魁斗に、母を助けるため脇目も振らずに神術を駆使する麗蘭。そして、神巫女の光に中てられ気絶した燈雅。入り乱れた状況下、此の混沌を作り出した張本人である珠玉は、青竜只一人を目していた。


 凶夢の責苦を味わい、狂気と正気の間を行き来し、喘ぎもがいた受難の日々。永久に続くかと思われた奈落への道は、英雄の帰還に依り断ち切られた。
 王国に災厄を撒き散らした悪しき獣――金竜との死闘の末、高殿へ帰って来た英雄に、女王は嗚咽しながら言葉を掛けた。
「妾が……そなたを救ってやる」
 傷付いた英雄の身体を抱き締め、女王は涙混じりの声を上げる。しかし、彼は其の慈しみを受け取ろうとはしなかった。女王を静かに引き離すと、主である彼女を諭すかのように言う。
「陛下、私のために気を揉む必要は有りません。人である私――『……』という男は、居なく為ったとお考えください」
 英雄に残された右目が、困惑げな女王の顔を見詰める。何日もろくに寝ていない彼女の目元には薄く隈が浮かび、美しい花瞼は落涙のためにやや腫れていた。
「私は竜と為り、御前に戻ったのです。貴女と貴女の国をお守りするための竜に」
 初めて出会った時から、女王は此の男が何時か偉大なる者に為ると知っていた。されど、斯様な形で実現しようとは思いもしなかった。
 たとえ本当に、竜という人ならざるものへと近付いたのだとしても、男は女王に従う英雄であり続ける。そうでなければ、彼女は自分を保てる自信が無かった。此の男の存在は、彼女が唯一女として愛した夫を凌ぐ程に、大きく成長していたのだから。
 未だ見ぬ未来、英雄が離れゆく日が訪れるならば。彼が竜に喰われ、真の死を迎える日が来るならば――其の時は。
「そなたは人間だ。人であるそなたを皆が忘れたとしても、妾は忘れぬ。最後は人として、『……』という誇り高き男として死なせてやる」
 此れは単なる口約束ではない。女王が己の高潔な御魂と麗しき身体に刻み込んだ、絶対なる誓言だった。


――妾がやらねば。
 邪剣を掴む右手に力を込めて、息を大きく吸い込もうと肩を上下させる。案の定、胸が閊えて上手くゆかず、呼吸と脈拍が余計に速く為っただけ。
 顔を上げ前方を見ると、剣を交えて戦う青竜と昊天君の姿が有る。拮抗しているように見えるが、青竜が敗れるであろうことは彼女の目にも見えている。
 朦朧としてゆく意識の中で、八年前の光景が極彩色で甦った。他のどの記憶を忘却しようとも、此れだけは忘れはしない。
 黒の神が叶えてくれないのなら、己が手で為さねばならぬ。さもなくば、青竜との誓いを果たせぬどころか彼を奪われてしまう。
――金竜にも昊天君にも、くれてやるわけにはいかぬ。
 手足に力を入れ、膝を立てる。重い冠や衣が煩わしく、脱ぎ捨ててしまいたい程だ。
 光龍を開光させ、黒神の助けを得て金竜を斃す。そして青竜を解放する――其の望みのために、様々な策を講じ、多くのものを手放してきた。
 聖安との開戦に踏み出したのも、恵帝や麗蘭を誘き出す機会を作り出すため。此度の会談に出向いたのも、麗蘭を庇わせる形で恵帝を殺して『犠牲』の条件を満たすためだ。
 更に其の過程で、燈雅へ玉座を継がせるための準備も抜かり無く進めてきた。味方にも敵にも乱心したと思わせ、傾かせぬ程度に政を乱し、次代の帝である燈雅に立て直しを任せて彼の存在感を高めようとした。
 全て捨て去り、掬い取られてきた。されど只一つだけ――如何しても失いたくないものが有る。頭では諦められても、炎の如く燃え上がる心が赦さない。
――紅燐のように、緑鷹のように、奪われたくない……断じて。
 残された力を振り絞っても、死に掛けている恵帝の許へ行き、麗蘭を退けて止めを刺すのは不可能。黒神が提示した条件を満たせぬ以上、青竜にせめてもの救いを与えるには、取り得る方法は一つしかない――一つしかないと、『思い込まされていた』のだ。
 彼女にしては短絡的ともいえる結論に至った珠玉は、直ぐ側で魁斗との戦いを続けている青竜の背に向けて声を張り上げた。
「『青俊』!」
 他の誰でもない珠玉が、此の名で呼び掛ければ反応せざるを得ない。八年もの月日、青竜自ら使うことを是とせず、誰にも呼ばれなかった彼の真名である。
 読み通り、青竜は正眼に構えた体勢で振り返る。何時の間に立ち上がり、彼に正対した珠玉は、邪剣を引き逆袈裟に斬った。
 青竜といえど虚を衝かれ、とても防ぎ切れない。金色に輝く左眼を斬り裂かれ、大剣を落として顔面を手で押さえ込んだ。
「陛……下」
 両膝を地に付けた青竜は、呆気無く崩れ落ちた。眼球を覆った指の隙間から、紅の鮮血が流れ出てゆく。
 斬られずに済んだ赤い右目は驚きに見開かれ、珠玉を見上げている。彼女は剣を握った状態でよろめくが、両足で支えて踏み止まった。
「そなたは……妾のもの。死に場所さえも妾が決める――そう言っておったはず」
 言い放った珠玉は、必死な形相を隠しもせずに見せていた。青竜を取られたくないという執着や、彼が自分の命に背いたことへの動揺を孕んだ感情の渦を剥き出しにしていた。
「陛下……貴女は」
 此の世に繋ぎ止める心の臓と化していた左目を斬られ、青竜は死へと歩き始めていた。しかし其のお陰で、主の心中を余すこと無く理解出来た。同時に、黒の神が自分から何を奪い取ったかも悟らされた。
 邪眼に巣くう金竜に教えられたのではない。二十年もの間、彼の命其のものであった女の瞳が、全てを語っていたのだ。
 膝立ちで珠玉の方を向いたまま、己の身体が固まり朽ちてゆくのを感じる。世界が――愛する女の顔が、急速に霞んでゆく。
「大義であった。人として、静かに眠れ――青俊」
 死にゆく青竜のために一滴の涙すら流さず、珠玉は言い放つ。一転して残酷なまでに冷たく、一切の情を含まぬ声だったが、青竜にとっては至上の餞別と為った。
「ありがたき幸せに……ございます。陛下」
 此の上無い僥倖に、青竜は身悶えた。苦難に満ちた人生に、此れ程の幸福を覚えたことは一度たりとて無い。過ぎた至福に溺れ、息が出来なく為る程だった。
――貴女は……私を選んでくださった。茗という国ではなく、私という一人の男を。
 最後の力で珠玉に礼を言うと、青竜は遂に倒れ伏した。金竜に侵され完全に人でなくなることも、食い破られて無惨な死体と為り果てることも無く――英雄としての美しい威容を残したまま、人として死んだ。
 俯せて動かなく為った青俊を見下ろし、珠玉は暫時茫然自失していた。彼の魂を救済し、苦しみを拭い去った魔剣を傍らに突き刺して、心の無い人形の如き虚無の表情をしていた。
 女王珠玉は、金竜を封じていた青竜を自ら殺した。何もかも賭して守り続けてきた国を、一人の英雄のためだけに捨て去った。為るべくして王と為った彼女が、王である自身を殺す道を選んだのだった。
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