金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

三.母の罪
 聖安の帝都、紫瑤。開戦の数日前から、燈凰宮では恵帝の下に重臣たちが集まり、昼夜を問わず御前会議が行われていた。
 日ごとに累積される疲労だけでなく、大戦に挑む国を率いる重圧が迫り、恵帝の身に痛苦を与えている。しかし何よりも気掛かりなのは、敵地に居るであろう二人の娘の安否だった。
 夜更けに自室へ戻り、寝台に入っても暫くは眠れない。翌日に備えるために何とか浅い眠りに就くと、蘭麗の夢を見る。辛い悲壮感が漂う、失意の淵に落ちゆく夢を。
 幼い蘭麗姫が頬を涙で濡らしながら、自分に背を向けて遠ざかって行き、やがて居なくなってしまう。何処までも暗く続く、純黒の闇に引き寄せられて、二度と連れ戻せなく為る――此処数週間、毎日のように同じ夢を見て目覚める。
 蘭麗が現れる夢が只の夢でないことは、恵帝が一番良く知っている。九年もの間引き離されていた母娘は、夢境でのみ心を通じ合わせることが出来たのだ。
――蘭麗が、かつてない程動揺している。
 娘が何故心を乱しているのかは、分からない。夜毎に悲哀に満ちた蘭麗に会い、其の度別れを繰り返すのは、恵帝にとっては耐え難い苦しみである。
「陛下、申し上げたく」
 丞相に声を掛けられて、女帝は我に返った。先程まで面前に跪き口上を述べていた使者は退室し、謁見の間には自分と丞相しか居ない。兵たちも消えているところを見るに、何時の間にか彼が人払いをしたようだ。
 丞相翠峡は、長年恵帝に仕え続えている忠臣の一人である。丞相という地位に居ながら未だ歳は若く、四十を過ぎた頃。恵帝が皇妃と為った頃より宮廷に出入りするように為り、彼女が女帝に即位してからはずっと傍らで支えてきた。
 聖安人らしい白めの肌に真黒い瞳をして、痩身で背が高い。目立った特徴は無いが優しげな風貌で、聖安きっての策士とも高邁な賢才とも呼ばれる丞相にしては、穏和過ぎる印象を抱かせる。
 されど、紺青の髪の上に載せているのは紛れもない五梁冠――最高位の文官である証。忠直で堅実な人柄と異才で恵帝の信頼を得た彼は、稀に見る賢臣として大陸中に名を知られている、女帝の右腕ともいえる男である。
「……何でしょう、丞相」
 公務の最中、恵帝が上の空に為ることなど滅多に無い。自分が声を掛けて漸く反応を示した主に対し、翠峡は不審に思いつつも何食わぬ顔で話を続けた。
「前線に居る瑛睡上将軍より、報せが届きました」
 其の一言で、恵帝の背筋に緊張が走った。壇上の玉座へ歩み出ると、翠峡は手にしていた書簡を主に渡す。
「圭惺平原に『金の竜』が現れた、とのことでございます」
「金の竜……ですって?」
 恵帝の声には、明らかな驚きと疑念が含まれていた。彼女は黒い円筒を開けて文を取り出し、書き連ねられた文字を目で追ってゆく。
「茗軍に大きな損害を与えた後、姿を消したそうです。瑛睡上将軍と燈雅公子とで会談を行い、休戦協定が結ばれた模様」
 文の内容と丞相の話を聞き、恵帝は慎重に状況を整理する。
「副将の燈雅皇子が会談の場に……では、青竜上将軍が倒れたのですか」
「不明のようです。戦でも、初日は本陣から出て来なかったと」
 一通り読み終えてから、恵帝が文と筒を翠峡に返す。素早く丸めて元に戻した彼は、数歩下がって頭を垂れた。
「金竜の復活――まさか、本当に現実に為るとは。何と……怖ろしい」
 他の臣下の前では決して見せない『恐れ』の感情を、此の翠峡の前では躊躇せずに曝してしまう。其れは、恵帝が彼に絶大な信頼を寄せていることを示していた。
「珠帝にとって、金竜程の脅威は他に存在しません。こう為った以上、我が国と恵帝陛下に再度停戦を求めてくるのでは」
 素直に考えれば、翠峡の言う通りである。金竜が解き放たれた今、茗だけでなく人界全てを滅びの道へ進ませないためには、人間同士で争っている場合ではない。君主である珠帝なら尚更、左様なことが分からぬはずがない。
 しかし恵帝には、茗がそう簡単に戦を止めるとは思えなかった。暫く続いているという茗国内の不安定な情勢や、此処数ヶ月間の荒々しい外交政策から窺える、宿敵珠玉の焦慮や余裕の無さから浮かぶ直感だ。
「彼の竜を脅威と感じるのは、珠玉だけではありません。わたくしたちもまた、人ならざる者に抗わねば」
 一度言葉を切り、恵帝は固く目を閉じる。再び開けた時には、若草色の双眸を強く輝かせていた。
「白林城へ参ります。必要とあらば、わたくし自ら珠玉と停戦交渉をいたします」
 主の無謀な発言を予想していた翠峡は、特段驚いた様子も無く、当然のように首を横に振る。
「陛下、恐れながら」
「仰らないで。貴方のお考えは分かっています」
 何時もの恵帝なら、彼の忠言にはしっかりと耳を傾けるが、今は別である。たとえ誰が反論しようと、聞き入れる積もりは無い。
 翠峡も、こういう時の主には何を言っても無駄だと分かっている。如何あっても譲ろうとしない彼女の頑なな瞳は、麗蘭公主を手放した時や、茗に旅立たせると決めた時のものと良く似ている。
「此れから発する言葉は、わたくし個人の……清恵蓮としての意思に依るもの。聞き流してくださって結構です」
 深く呼吸して間を置くと、恵帝は翠峡の眼を真直ぐに見てもう一度口を開いた。
「公主たちの側に行かねばなりません。出来るだけ、近くへ。さもなくば、此の国の未来を担うべき二人に大きな災いが降り掛かるでしょう」
 直接的ではない表現から、翠峡は恵帝の真意を汲み取ろうとする。
「娘たちの運命を捻じ曲げた罪は、わたくしが背負うべき大罪。遠き地で、只待っているだけなど忍び難く……許されないことです」
 詰まるところ、苦境に立たされている娘たちが案じられて仕方がないのだろう――と、翠峡は解釈した。彼女が治政に私情を挟まぬ高潔な君主であることは誰の目にも自明である。だからこそ、彼の胸も酷く痛む。
「罪、と仰せですが、陛下の選択が罪であるならば、其れは私を含め、聖安の民全ての罪でもあります」
 翠峡の言葉は少なく淡々とした調子ではあったが、恵帝は頷き、微かに口元を綻ばせた。
「……ありがとう。貴方はそうやって、何時もわたくしの心を軽くしようとしてくれますね」
 繊細で安らかな微笑を浮かべてはいるものの、瞳の奥に湛えた炎は絶やしていない。
「ご安心を。わたくしには自分の命を粗末にする気はございません。貴方や瑛睡の他に、此の世で最も信を置いている者を頼ります」
 玉座から立ち壇を降りると、翠峡の前へ出る。
「早馬を阿宋山へ。風友を、此れに」
 逸る心を落ち着かせながら、恵帝は決然とした態度で命じた。
――蘭麗……麗蘭。何故でしょうか。今参らねば、貴女がたとお会い出来なく為るのではないかと……母は不安で仕方がないのです。
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