金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

三十.死にゆく女王
――一体何が起きているんだ?
 眼前で繰り広げられている全ての出来事について、魁斗は欠片も解せない。落ち着いて整理すれば見えてくるのかもしれないが、そんな余力も無い。
 はっきりしているのは、青竜が死んだという事実だ。自分と戦っていた強敵は、主君である珠玉の手で死んだ。其れに依って齎される未来は、彼の男が封じていた怪物の復活である。
 麗蘭の方を見やると、正座した膝の上に恵帝の頭を乗せて懸命に呪を唱えていた。開光し掛けた彼女にとっても、淵霧に蓄えられていた黒の力を浄化し傷を癒すのは至難だった。此処まで辛うじて母の命を保たせてきたが、神力は無尽蔵ではない。
「不味い。此のままでは……」
 皆まで言わぬうちに、魁斗が恐れていた禍事が起こり始めた。横たわった青竜から黒煙が発せられ、彼の骸を覆ったかと思えば、見る間に天高く昇ってゆく。天幕を透過して空へと放たれると、時を移さずして聞き覚えの有る轟音が響いた。
 其れは紛れも無く、珪楽で耳にした竜の嘶き。英雄の死と共に訪れた滅亡への序曲であった。
 竜鳴が止まぬうちに、魁斗たちを隠していた幕屋が一瞬にして吹き飛ばされた。やにわに投げ込まれた竜巻が、葡萄色をした天幕の布を巻き込み剥がしていったのだ。
 凄まじい嵐に浚われる寸前で、魁斗は咄嗟に神力の結界を張った。天幕は破壊され消失したが、麗蘭や恵帝、珠帝や燈雅は無事に留まっていた。
 雪崩込む光に目を開けていられなく為り、降り注ぐ邪気に押し潰される。神の眷属である魁斗の動きを奪う程の、激甚なる力だった。
「此れが……真の金竜か」
 腕で光の礫を防ぎつつ、魁斗はやっとのことで其の恐ろしい姿を認めた。黒雲に埋め尽くされた空を漂う長大な非天――金の竜と呼ばれる、禍々しき獣の全容を。
 今天海を泳いでいるのは、八年前青俊に縛された金竜でも、珪楽で戦った金竜でもない。千五百年もの昔に光龍奈雷が封じた、何の枷も嵌められていない生まれたままの悪、其のものだ。
 視界を遮っていた金の光が和らいでゆくにつれ、覆いが無くとも竜を直視出来るように為ってくる。離れた場所に待機している瑛睡たちや茗側の兵たちも、恐らくあの姿を見て慄いていることだろう。金竜が噴出し地表に降らせている瘴気に中てられ、彼らも身動きが取れなく為っているに違いない。
――戦えるのは俺しか居ない。だが、勝てないかもしれない。
 一対一の戦いであれば、自信が無い訳ではない。だが麗蘭が恵帝から離れられず、彼女たちを庇いながらの戦闘と為ると、話が違ってくる。
 本来の力を取り戻したにも拘わらず、金竜は中々地上に降下して来ない。雲の中に消えては現れ、魁斗たちの頭上から遠くは離れず波打っているだけだ。
 されど、常人よりも優れた視力を持つ魁斗には見えていた。竜の巨大な金の目玉は、魁斗や恵帝、珠玉や燈雅ではなく、麗蘭の方に向けられたまま少しも動いていないことを。
「やはり、狙いは光龍か」
 両手で構えた刀を金竜から逸らさずに、神術を続ける麗蘭をもう一度見る。目が合ったものの、母を助けるのに手一杯の彼女に「戦えるか?」などという酷な問い掛けは出来ない。
――もう、何も奪わせないと……誓ったのに。
 悔しくて堪え切れず、叫び出しそうに為る。僅かでも長く人間たちを絶望させるため、空から降りて来ない金竜も、更なる高みで嘲笑する黒神も、憎らしさの余り気がおかしく為りそうだ。
 そんな魁斗の葛藤を感じていた麗蘭も、究極の選択を迫られていた。今、神力を送るのを止めれば、母は確実に命を失くすだろう。だが治癒術を中断して天陽を取り、魁斗と共に戦わねば、金竜に人界を滅ぼされてしまう。
「……なさい、麗蘭」
 下方から、不意に声がした。慌てて視線を母へと戻すと、閉じられていた若草色の瞳が薄っすらと開いていた。
 竜の鳴声に依り、か細く為った母の声がかき消されてしまう。彼女の顔へ耳を近付けると、途切れ途切れに聞き取ることが出来た。
「戦い……なさい。わたくしが……死ねば、貴女は目覚める……真の、光龍と……して」
 母が何を言っているのか、麗蘭には解せなかった。酷烈な竜の邪気と怪音で、己の耳がおかしく為ったのではないかと疑った。
『真の神巫女と為るには、其れ相応の対価を要する』
『皆、私が殺めた』
 以前妖魅の王に教えられた、開光の絶対条件。そして前世での紗柄の発言――麗蘭が畏れていた『犠牲』に関する記憶が、母の言葉と重なり合う。
「使命を果たし……なさい。貴女の為すべき……ことを」
「母上」
 流すことすら忘れていた麗蘭の涙が、堰を切ったように溢れ出す。母を見捨て、金竜に立ち向かうか否か――決断を迫られる。ところが悩み出した途端、幾ばくかの時間も与えられずに、運命は決することと為った……世界を蹂躙した闇の彼方から、金竜ではない別の竜哭が轟めいたのだ。
「黒い、竜?」
 遠方より現れた見知らぬ存在に先ず気付いたのは、魁斗だった。忘れもしない『あの気配』が近付くにつれ、彼の端正な顔や声が憎しみに染まる。
「奴だ……」
 魁斗が言い切るや否や、此れまで誰も感じたことの無い莫大な黒の気が、見えない炎と化して大地を嘗め尽くした。其の瞬間に麗蘭は、母の命を繋ぐ自身の神力が消し去られるのを感じた。何の抵抗も許されず、蝋燭の火を吹き消すかのように。
 暗黒の霧が切り開かれ、魁斗の言った通り黒き竜が現れた。黒い竜鱗に黒い髭、眼も黒ければ牙や爪も真黒い。目を奪われる程見目麗しい、人智を越えた神々しい姿だった。
 醜く悍ましい姿の金竜と並ぶと、大きさは同程度だが歴然とした格の違いが有る。力の差も明らかで、つい先刻まで魁斗たちを震撼させていた金竜を軽く圧倒している。
「黒の君。何故……何故、今更」
 彼の竜の正体を見破ったのは、魁斗だけではなかった。珠帝も一目で察し、其れゆえ驚きに打たれて黒竜に釘付けと為っていた。彼女は魁斗たちと異なり、黒神が此の姿で出現したわけを知っていた。
 金竜は醜い声で吼え立てると、爪を繰り出し攻撃を仕掛けた。黒竜は容易く避けて一声鳴動し、金竜の首に牙を立て、一噛み二噛みで引き千切る。幾ら剣を刺しても貫けなかった金剛の鱗が、あっという間に噛み砕かれた。
 異様な光景に、居合わせた誰もが呆然とさせられた。黒き竜は敵を只抹殺しているのではなく、生き餌を咀嚼し嚥下していたのだから。
「金竜を喰らっている……」
 毒の爪を食い込ませて尾を絡み付かせ、暴れもがく獲物の自由を奪う。奇怪な音を立てながら摂食を続け、休むこと無く鋼鉄の体を平らげてゆく。
 黒の神が金竜を屠っている間、珠玉は己の両腕を抱き打ち震えていた。最初から用意されていた悲劇の全貌を知り、耐え切れずに嘆声を上げた。
「黒神よ、何故今更に為って現れたのだ。妾が青俊を逝かせる前に、何故来て下さらなかったのか」
 麗蘭は未だ開光しておらず、契約は成立していないはずだ。其れなのに今、此の時に降臨し珠玉の積年の願いを叶えてくれたのは、恣意的としか思えない。
「まさか……貴方が妾から最後にお取りに為ったものとは……」
 珠玉は実に久方振りに、自分の浅はかさを激しく後悔した。守り通せたと過信していた愚かさを恥じ、『茗』以外の凡ゆるものを喪失した悲しみを受け入れねばならなかった。
――茗だけは守れた。だが、妾はもはや王ではない。
 王でなくなったと自覚すると、茗のために捧げてきた大切なものたちへの執着が止まらなく為る。身を切られる悲哀の甚だしさは、今度こそ気が触れるのではないかと思う程。
「母上! 母上!」
 黒の気に依り神術を阻まれ、死にゆく母を助けられぬ麗蘭が啼泣している。宿敵と憎み嫉妬をぶつけた女を殺せて気が晴れたはずなのに、珠玉に実感出来るのは虚しさのみだ。
 頭より喰われた金竜は、胴や尾も食い尽くされて巨体を縮めてゆく。やがて、骨や肉の一片も残さずに、此の世から居なく為った。黒神に捕食され、彼の魔力を一層高める糧と為ったのだった。
 一際大きく鳴いた後、邪神はいよいよ地上へと降下した。竜の姿のまま降りたのは、役割を終え最期を待つだけと為り、力無く仰臥した珠玉の許であった。
 黒い竜眼に覗き込まれ、彼女は黒神が自身をも喰らおうとしているのに気付く。人型をした此の男にはもう幾度も喰われてきたため、心の宿らぬ禍つ神とはいえ目の奥を見れば欲望が分かってしまう。
「くっくっ……此れが、貴方なりの『慈悲』か」
 珠玉が呟いた直後、黒神は彼女の身体を一飲みにした。類稀なる女王の魂と肉体を弄んだ挙句、美麗な髪一本に至るまで奪い尽くし、屠り尽くしたのだ。
 只一つ残されたのは、焔の女王が戴いていた歩揺冠。闇黒の中に在りながら朱色に輝き続け、女王が死した後も尚茗を守り続ける――さながら、火輪の如く。
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