金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

四.魂の故郷
 金竜を退け、麗蘭と神宮に戻った魁斗は、彼女を休ませてから自身も休息した。日が沈み二人で夕餉を取った後、湯殿に行った麗蘭を待つ間、独りで聖地の森に出て歩いていた。
 頃合を見て下宮に戻り、蘢も交え三人で今後の動き方について話し合うことに為っている。麗蘭が天陽を得られた今、蘢がある程度回復しているなら、一刻も早く珪楽を発たねばならない。
 静寂な夜の森は、魁斗の集中力を高めてくれる。今宵は星や月が雲で隠され暗黒の空が広がっていたが、常人よりも夜目が利き、気を辿ることで神宮の方向を見失わずに済む彼には大して障りが無い。
 独りに為れば思索に籠もることは出来るが、ふとした瞬間に思い出してしまう。己の腕からすり抜けて、手の届かない処に行ってしまった――かつての想い人を。
 仮に紅燐を救えていたとしても、あの頃と同じ関係には為れないし、為る気もない。彼女にも魁斗の許へ戻る積もりは無かったのだろう。別れから数日経ち、以前よりも紅燐の死を冷静に考えられるように為っていたが、つい彼女の姿を浮かべてしまう。
 風が渡り、樹齢を重ねた大樹たちの木の葉を揺らす。心地よいざわめきが止んだかと思えば、懐かしい澄んだ鳴声が耳に触れる。
 直ぐ様背後を振り返って見上げると、神力を使い右手に光を宿して辺りを灯す。魁斗が読んだとおり、側に在る樹木の枝には水浅葱色をした鳩が止まっていた。
「あさぎ……なのか。こんな所まで来たのか」
 紅燐を想う魁斗に引き寄せられ、聖域の奥深くまでやって来たのだろうか。彼を見詰めている紅い瞳は何処か切なげで、何かを訴え掛けているかのように見えた。
 小さな双眸が纏いし燃える血の如き色は、相も変わらず主のものと良く似ている。一瞬、以前と同じく、紅燐が自分と語ろうとしているのかと思ったが、あさぎの目の奥に彼女の魂を感じることはなかった。
――当然か。紅燐は、もう居ないのだから。
 美しい鳩は、翼を大きくはためかせて枝から足を離す。去ろうとするあさぎに、魁斗が親しげに声を掛ける。
「また、何時でも来い。待っているぞ」
 あさぎは呼応して、もう一度啼いた。其の哀哭は聖なる森の空気に染み込み余韻を残す。彼が残響に気を取られていると、何時の間に飛び立っていた。
 暫くの間、魁斗の心には紅燐の面影が残存していた。止めてしまった思考を戻し、今為すべきことを見出そうとするまでに、暫しの時間を要することと為った。




 夕餉の後、湯殿を借りた麗蘭は、蘢が休んでいる畳敷の客間へと赴いた。魅那と天真の姉弟が居て、丁度蘢の食事の膳を下げているところだった。
 玄武との戦いで重傷を負った蘢は、意識を取り戻したとはいえずっと臥せっていたと魁斗から聞いている。だが今は卓について座っていたし、顔色も良いようで安堵した。
「蘢、何だか久し振りだな」
 神剣を抜くために別れて以来、未だ数日しか経っていないが、麗蘭には随分と長い間離れていたように感じられた。
「うん、僕もそんな気がする」
 立ち上がって麗蘭の側まで行くと、蘢は彼女の手に握られている美麗な剣に視線を落とす。
「天陽を振るうことが出来たんだね」
「……ああ。かなり時間が掛かってしまったが。此の剣の神気に馴染むよう、出来るだけ持ち歩くようにしているのだ」
 鞘に納められた天陽を少しだけ抜き、蘢に示した。鍔に近い一部分の刀身が覗いただけだが、麗蘭の神力に反応しているのか、淡い白光を放っている。
「とても美しい輝きだ。君の剣に相応しい」
 其の言葉が自分を褒めているのだと気付き、麗蘭は困ったように首を横に振る。蘢は穏和に微笑みかけると、側に座るよう彼女に促し、自身も向かいに腰を下ろした。
「魅那に巫覡の真十鏡を借りて、僕も様子を見ていたよ。金竜の邪気の所為か、はっきりと見ることは出来なかったけれど……眩しい輝きだった」
 金竜が珪楽に向かっていると知った麗蘭が、此の下宮を飛び出していった後。魁斗は蘢に、魅那や天真と一緒に上宮へ逃れるよう伝えた。体調が万全ではない蘢は、魁斗と共に麗蘭を追い、金竜と戦う道を選ばなかった。
「大事な時に、何も出来なかった……申し訳ない」
 傷付いた自分が行くことで、麗蘭たちの足手纏いに為りたくなかった。後悔はしていないが、離れたところで只見ているしかなかったというのは紛れもない事実である。
「気にするな。其れよりも具合は如何なのだ?」
 蘢の心中を察した麗蘭は、さりげなく金竜の話題から抜け出そうとしていた。
「天真の神術で、大分動けるようには為ったよ。剣も握れる」
 そう言って蘢が天真を見やると、小さな覡は腕を組んで厳しげな顔をした。
「駄目だよ、油断しちゃあ。蘢さんは此処に来るまでにだって、死んでたっておかしくないくらい無茶してるんだから」
「ごめん、分かってるよ」
 悪さをして窘められた少年のように悪戯っぽく笑む蘢を見て、麗蘭は兒加の町で出会った玉英とのやり取りを思い出した。当然見たわけではないが、蘢は子供の頃から周囲を心配させてきたのではという気がしてくる。
「天真の言う通りだ」
 立ち上がって天真の前に行くと、麗蘭は身を屈めて彼の頭を撫でた。
「私の傷も、天真のお陰ですっかり良くなった。礼を言うぞ」
「い、いえ……」
 金竜を縛そうとして爛れた麗蘭の手を治したのも、天真だった。巫女の美々しい顔が近くに来たため、赤面し身を縮ませ目を逸らしてしまう。
「ぼ、僕、部屋に戻って薬の準備をしてきます! みんなに持って行ってもらわなきゃ!」
 突然言い出し、天真は逃げるようにして室から出て行く。呆れた様子の魅那は、麗蘭と蘢に向かい小さく頭を下げた。
「では、私も天真を手伝いに参ります。お二人とも、ごゆるりとおくつろぎを」
 苦笑してから、魅那も天真の後を追って部屋を後にする。麗蘭は分からないという顔で首を傾げると、蘢の方を見た。
「蘢、私は天真に嫌われているのだろうか。初めてではない気がするのだが」
「……そんなことはないと思うけど」
 相変わらず鈍い麗蘭の反応を面白がって、蘢は敢えて其れ以上何も言おうとしなかった。
 そうこうしているうちに、魅那たちと入れ替わるようにして、漸く魁斗がやって来た。
「済まん、待たせたな」
 麗蘭たちの顔を見て、魁斗も空いている場所に座る。畳の上に胡座をかくなり、自分が考えていた今後の作戦を話し出した。
「二手に別れないか。誰かが、一度圭惺の本陣に行く必要が有る。蘭麗を助け出したとしても、茗を出られなければ意味が無い」
 魁斗の提案は、此の中の誰かが瑛錘上将軍の許に行き、軍を出させて一時的にも両虎関を制圧するというもの。残りの二人が蘭麗姫を連れ、聖安に戻るための道を作るというものだった。
 再び琅華山を越える手段もあるが、姫君を伴って妖の山に入るのは、出来れば避けたい。此れには蘢も同じ意見を持っていた。
「金竜の出現で、戦場が……聖安国内が如何為っているのかも気に為る。瑛睡閣下には僕らの知る情報を伝えた方が良いし、恵帝陛下のお耳にも入れるべきだ」
 魅那の話に依ると、金竜は東方から此の珪楽にやってきた。あの時既に、何処かの村や町に多大な被害を齎していてもおかしくはない。
 最悪の事態を想像し、麗蘭は身震いした。あの巨大な怪物が、あの戦いの前に人々を殺戮していたのだとしたら。もし、今後も青竜の封印から放たれることがあるとしたら――命を引き換えにしても倒せなかったことが、悔やみ切れなく為るだろう。
「問題は、誰が行くかだ。麗蘭は……訊くまでもないな。直ぐにでも恭月塔に向かいたいだろう?」
「……ああ」
 彼女の返答を確認すると、魁斗は傍らの蘢に目をやった。
「蘢は?」
「僕も、麗蘭と共に。蘭麗姫をお救いする大役は、僕と麗蘭が賜った勅命だ」
 蘢もまた、即答する。彼の表情と言葉は穏やかだが、有無を言わさぬ強い意思を内包していた。
「……そうだったな。任せよう。圭惺には俺が行く。蘢よりも俺の方が、茗軍に顔を知られていないから動きやすい」
 魁斗がそう言った途端、麗蘭の背に得体の知れぬ寒気が走った。そしてほんの僅かな時間だが、胸が締め付けられる感覚に襲われた。
 突然生じた寂しさや心細さに、彼女は困惑するしかない。長年傍に居た優花と離れた時にも、こんな寒さは感じなかったはずなのに。
「良いか? 麗蘭」
 己に向けられた魁斗の視線に、麗蘭は我に返る。
「あ……ああ、分かった」
 反射的に了承したが、心では同意出来ていないことに自身でも気付いていた。魁斗の言う通りにするのが正しいと分かっているのに、拒みたいのは何故なのか――奇妙に思えてならなかった。
 其の後も魁斗と蘢は、圭惺と恭月塔の場所や行き方、蘭麗姫を助け出した後のことなどを話していた。彼らに何時もの余裕が見られず、ずっと緊迫した空気が流れている様子は、いよいよ此の旅にも終わりが近付いているのを暗示していた。
 感情の揺れを仲間たちに悟られぬよう努めながら、麗蘭も暫く耳を傾けていた。しかし時が経つにつれ、金竜との戦いで溜めた疲れが押し寄せてくる。
「麗蘭、疲れているね? もう休もうか」
 心配そうな蘢の声が聴こえくると、瞼を下ろし掛けていた麗蘭が目を擦った。
「遅くまで付き合わせて済まなかったな。部屋まで歩けるか」
 立ち上がった魁斗が差し伸べた手を取ることなく、首を縦に振る。
「……大丈夫、少し眠く為っただけだ。二人は話を続けてくれ」
 共に金竜と戦った魁斗も、同様に疲れているに違いない。今日は此れ以上、彼に甘えるのも良くないと思ったし、蘢との会話の邪魔をしたくない。
 就寝の挨拶を交わし、麗蘭は自分の足で歩き出した。魁斗も蘢も、彼女の覚束ない足付きを心配げに見送った。
 麗蘭が部屋に引き取り、先に口を開いたのは蘢だった。
「さっきは、勝手なことを言って済まなかった」
 何か聞きたそうにしている魁斗が問い掛ける前に、蘢は言葉を続ける。
「恭月塔にはどんな危険が待ち受けているか分からない。麗蘭を守り、蘭麗姫を助け出すには、君の方が行くべきだと思う」
 そう口にし、理解もしていたが、蘢の頭に恭月塔に行かないという選択肢は無かった。
「其れでも、譲れないものが有るんだろう」
「……ああ」
 多くを語らずとも、蘢の瞳には決意が表れている。魁斗も其の想いを受け取り、敢えて深く追及しようとはしなかった。
「気にするな。実を言うと、俺は今……麗蘭と二人で行動する勇気が無い」
 其の意味を、蘢ははじめ解すことが出来なかった。
「本当は、麗蘭に合わせる顔が無いんだ。俺は、俺の都合の良いようにあいつを説き伏せ、天陽を抜かせて戦わせたのだから」
 目を逸らし、普段からは考えられない発言をする魁斗。蘢は記憶を呼び起こすと、彼の言わんとすることを探った。
『俺もおまえの力が必要だ。俺は何としてでも黒神を殺したい』
 白林で初めて話した時、そして琅華山を抜けて茗に入国した夜、魁斗は黒神への憎しみを語っていた。彼の母を殺した邪神を斃すためにも、光龍である麗蘭と共闘せねばならない、と。
「麗蘭が天陽を抜き開光しなければ、君の目的も果たせないんだったね」
 無言のまま頷いた魁斗は、昼間麗蘭と話したことを思い返していた。あの時は、只一向麗蘭を立ち上がらせようと必死に為っていたため、思考を働かせる余裕など無かった。利己的な考えに突き動かされ、願望を満たそうとした自分がいなかったとは……言い切れない。
 腕を組んだ蘢は、得心のいかぬ顔で首を傾げた。
「僕の知る麗蘭なら、幾ら心身が弱っていたとはいえ、誰かの言葉に流されることはないと思うけどな」
 其れは、魁斗自身も良く知っている。だが如何しても、彼は己の行動に納得出来なかった。憎き敵を滅ぼすため、光龍の力が要るのは変えようも無い事実だが、其のために麗蘭を利用するようなことがあってはならない――白林で彼女と出会ってからというもの、事有るごとにそう考えていた。
「やはり……示すしかないな。俺があいつに掛けた言葉は、俺のためだけに出てきたものではないと」
 惑いつつも、魁斗には次に為すべきことが見え始めていた。
「本当の意味で、麗蘭の力に為る」
――あいつにとって最良の選択が、光龍の天命に抗うものであったとしても。其れで、俺の復讐が遂げられなく為ったとしても。
「蘢。おまえは麗蘭のために幾度も身体を張ってきたから、心配はしていない。あいつを、頼んだ」
 返事の代わりに、蘢は何時もと同じ自信に満ちた笑みを返した。
「聖安に戻ったら、酒でも酌み交わそう。おまえとはもっと話がしてみたい」
「うん、喜んで」 
 出会ってからそう長い時間を共にした訳ではないが、二人の青年たちにもまた、互いに信頼し合う絆が生まれていた。其れは身分や立場を越えて、剣士として相手の武勇を称える敬意であり、戦いを切り抜ける中で深められた友情でもあった。
 解散した後も、魁斗と蘢は言葉に尽くされぬ想いで胸の火を燃やし、眠れぬ夜を過ごす――成し遂げたい夢や、守るべきものを背負うがゆえに。

 次の日の早朝。麗蘭は驚く程すっきりと目覚め、身支度を整えて室を出た。仲間たちと約束した時刻までには余裕が有ったので、久方振りに弓の稽古をしようと思い立ったのだ。
 未だ、皆寝ているのだろうか。朝の静けさを感じつつ廊下を渡り、下宮を出て石段を下りてゆく。澄み渡る蒼空を仰ぎ見、揺れ動く木漏れ日を浴びて、杉の木立の間を早足で抜ける。
 珪楽にやって来た時に出迎えてくれた真白い神門の前に来ると、門柱の下に野花を供え、膝を折り並んで祈りを捧げる魅那と天真が居た。
 形容し難い不可触の神聖さが、姉弟を取り巻き包んでいる。二人の背中が余りにも悲しげで、少しの間、麗蘭は其の儀式に立ち入ることが出来ずにいた。
「此処は、あの時……犠牲に為った母が倒れ、息を引き取った場所なのです」
 顔を伏せていた魅那が立ち上がり、麗蘭の方を振り返る。
「下宮で術を為し、重い身体を引き摺って……此処まで。墓所は別の場所に在るのですが、私たちは時折、此の場所で祈りを捧げているのです」
 珠帝の軍から神坐と神剣を守るため、姉弟の母親を含めた巫女や村人たちが命を散らした。当初、麗蘭は茗への怒りを覚えるばかりであったが、何時しかやり場の無い無力感で己を苛み始めていた。数百年もの間、光龍である自分の魂と剣を守り続けてくれた者たちの苦難を知らず、何もしてやれなかったことへの自責の念である。
 麗蘭の表情が陰ったのに気付き、魅那が済まなそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。貴女にこんなところをお見せする積もりではなかったのですが」
「謝る必要など無い。只……未熟な私は、そなたたちに掛ける言葉を見付けられぬのだ。私の方こそ許してほしい」
 重々しい沈黙が流れる中、突として、天真が麗蘭の着物の袖を引いた。
「巫女さま。僕と魅那は、巫女さまたちのご無事を母さまにお祈りしていたんだよ」
「天真……」
 はにかんだような無垢なる笑顔を向けられ、麗蘭は思わず天真の身体を抱き締める。彼は何時ものように恥ずかしさで逃げ出すことはせず、戸惑っている麗蘭の背中を慈しむように撫でた。
「麗蘭さま。私と天真は、貴女が天陽を抜いた時に上宮から出て空を仰ぎ、あの光を直接拝見しました。本当に、素晴らしかった」
 魅那もまた、麗蘭の背に触れていた。
「紗柄さまの光とは違った、貴女だけの目映さ。生きて神巫女の御光を目に出来たこと、感激いたしました」
 幼い少女の眦には涙が滲み、頬を伝って煌めいている。
「いずれまた、お戻りください。紗柄さまの御魂と調和された今、此処は真の意味で貴女が安らげる場所と為ったでしょうから」
 温かい言葉を掛けられ、胸の閊えが取れた心地がした。僅かでも、魅那たちに光龍として認めてもらえたのかと期待してしまう。
 面を上げ、麗蘭は二人の顔を順に見る。透き通った瞳に見詰められ、力強く頷いた。
「……ありがとう。必ず来る」
 約した後、先程の姉弟たちに倣って地に片膝を付け、両の掌を胸の前で合わせて目を閉じる。己が受け継いだ神剣と、此の聖域を守り抜いた巫女たちに深く感謝し、幼い巫覡たちを含む珪楽村の人々の平穏を天に祈ったのだ。
「麗蘭さま……」
 自分たちのため、父なる天帝に祈りを捧げる神巫女の慈愛を目にし、姉弟は深く嘆息する。余りに美しい光龍の横顔に言葉を失い、天真だけでなく感情を起伏させない魅那までもが我を忘れ、暫くの間見入っていた。
 麗蘭が祈りを終えた頃、神門の向こうから魁斗がやって来た。すっかり身支度を整え、肩には小さな荷物を下げている。
「お早う、魁斗。もう行くのか?」
「お早う。琅華山をまた越えるからな、早い方が良いに越したことは無い」
 黒神の脅威が去ったとはいえ、妖霧の森にたった一人で入るなど、本来ならば危険極まりない。だが魁斗は、迷わず其の選択をした。妖など物ともしない彼にとっては、今の両虎関を越えるよりも手っ取り早い。
「お早う。何だ、皆揃っていたんだ」
 魁斗が歩いて来たのとは別の方向から、蘢も現れた。此方は何も持っておらず、顔や首に汗が滲んでいた。
「走って来たのか?」
 少しだけ乱れた髪を手で整えている蘢に、麗蘭が尋ねる。
「うん、身体がすっかり鈍ってしまったからね」
 そう答えてから、蘢は魁斗を見やった。
「もう、行くの?」
「ああ」
 其の後、彼らが何か言葉を交わしていたが、感慨に耽る麗蘭の耳には殆ど入っていなかった。皆口には出さないものの、いよいよ敵の懐に飛び込もうとする中、此れは最後の別れに為るかもしれないのだ。
「魁斗」
 二人が話を終えた時、麗蘭は彼の名を呼んでいた。
「また……直ぐに会えるな?」
――何を言っているのだろう、私は。
 何故、斯様な弱々しい言葉が口を衝いて出てくるのだろうか? 言った後で後悔しても遅いというのに、何故憂いを断てないのだろうか? 彼女の頭には疑問符ばかりが浮かぶ。
「むろんだ。昨夜蘢には話したが、目的を果たしたら俺も追い掛ける。両虎関制圧に失敗したとしても、おまえたちが関所を通らなくて済むようにする積もりだ」
 麗蘭の不安を汲み取ったのか、魁斗は大きく頷いて微笑んだ。両虎関を通らずに聖安入りする方法、というのが良く分からなかったが、彼には何かしら策が有るらしい。
「次に会う時は、蘭麗も一緒だな」
 魁斗に肩を叩かれると勇気付けられ、乱れていた心が嘘のように落ち着く。優しい大空の色をした双眸に見詰められると、悩んでいた事柄など全て些細なことに思えてくる――其れも、ほんの一瞬で。
「ああ。絶対に連れて帰る」 
 彼の前で発した言葉は、誓いと為って力を帯びる。何の根拠も無いというのに、必ず成し遂げられる気がしてしまう。
 輝きの地、聖地珪楽を後にして、麗蘭は蘢と共に恭月塔へと向かう。そう遠くない未来、神巫女として真の目覚めを遂げ、巫覡の姉弟に其の光を見せるという誓いを胸に。
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