金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

五.慕情
 日が落ち夜を迎え入れた恭月塔に、突然珠帝が来訪する旨が伝えられた。
 何の前触れも無い訪問を訝しく思いながら、蘭麗は女官の手を借りて衣裳を選び、髪を結って簪を挿す。主人の身拵えの他にも、室の隅々まで磨き上げたり珠帝の好みそうな香を焚いたりと、女官たちは時間が限られている中でも準備に余念が無い。
 女帝が此処を訪れる場合、皇宮からの使者が当日の朝に告げに来るのが通例だ。知らせを受けてから、普段より贅沢な着物や装飾品を身に着け、国主に謁見するに相応しい用意をする。女官たちが焦っているところを見ると、彼女たちも直前まで知らされていなかったのだろう。
 蘭麗は日頃から身綺麗にしているので、支度の点で慌てる必要は無い。しかし、あの恐ろしい女傑と対峙するための策の方は、十分とは言えなかった。
――もし、戦が始まっているのなら……
 少し前に、黒い少年に見せられた光景を思い出す。恵帝は重臣たちの前で茗との開戦を宣言していた。本当に始まっていれば、人質である自分は交渉のための駒として聖安の足枷と為るか、見せしめに処刑されるかのどちらかだ。
 珠帝直々にやって来て、斬首刑を宣告するのかもしれない。一瞬で死ねる斬首なら未だ良いが、昔から残忍な気質で知られている珠帝のことだ。より恐ろしい刑が科せられる可能性も拭い切れない。
 此処に囚われてから、幾度も死を覚悟してきた。塔の窓から身を投げようと考えたことも有る。誇りを守り立派に死ぬことは、皇族の務めだとも思っている。
 其のはずなのに、蘭麗の肩は竦んでしまう。純粋に死への恐怖もあるが、彼女にはやり残したことが多過ぎる。
――せめて、姉上に謝ることが出来るのなら。私の心はどれだけ救われることか。
 公主として気高く在りたかったが我を失い、守るべき姉に憎しみと妬みをぶつけた過ち。取り返しは付かないが、せめて心からの謝罪と真実の想いを伝えたい。
――貴女の妹として、共に歩みたかった。其れが私の……本当の気持ち。
 御簾の外側へ出て、室の中央に置かれた席に坐す。真向かいには、珠帝が座るための椅子も用意されていた。
「姫さま。陛下がお出でになりました」
「……はい」
 返事をしてから、立ち上がって頭を下げる。戸が開き衣擦れの音が聞こえたが、其のまま珠帝が近くまで来るのを待つ。
「姫、面を上げられよ」
 許可が下り、蘭麗は漸く顔を上げた。
「ご機嫌麗しゅう、陛下」
「うむ」
 形式的な挨拶を交わすと、二人は席に着いた。
――以前感じた黒い気が、消えている?
 数ヶ月前に会った際、珠帝は謎の力を身に纏っていたが、今は微かにも感じられない。奇妙なことに、消失したのは黒い気だけでなく、珠帝が神人として本来持っているはずの神気全てだった。
 悟られぬよう注意深く敵を観察するが、神気以外には特段変わりはない。燃え盛る美貌に冷たくも華やかな笑みを湛え、他の誰にも持ち得ぬ威厳を漂わせている。
「色々と知ることが出来たぞ。そなたの姉のこと」
 着席するなり、珠帝は出し抜けに言い放った。
「其の娘こそが真の第一公主であり、また『光龍』であること。今将に、そなたを助け出す使命を帯びて此方に向かっていることを」
 事実を言い当てられたが、蘭麗は僅かに眉根を寄せただけだった。以前会った時既に、珠帝が何か掴んでいるのは明らかであったので、今更動じることでもない。
「さる方からお聞きしたのだ。そなたも会ったことが有るだろう。『黒の君』に」
「黒の……君?」
 そう聞いて思い出すのは、あの純黒を纏った少年と青年の姿。『彼ら』の正体についてはある考えに至っていたが、全く自信の持てぬ答えだった。
――『黒の神』のはずはない……と思っていたけれど。
 幾度も現れ、容易く心を見通したあの残酷な人ならざる者が、恐ろしい邪神だとは考えたくもなかった。神話の中でしか登場しない悪名高き神と関わり合いに為ったなどと、思いたくはなかった。
「そなたが姉の名を教えてくれるのなら、今直ぐにでも此処から出して差し上げよう」
 斯様な条件を提示されるとは思っておらず、蘭麗は我知らず目を見開き驚く。帝位を継ぐ姉の存在や、其の姉が光龍であること、此方へ向かっていることを知っているのなら、何故今更名前などを気にするのだろうか……と。
 自分を陥れるための罠なのか、単なる戯れなのか。其れとも鎌を掛けているのだろうか。珠帝の心が分からず応えに迷う。なかなか返答しない蘭麗に、女帝は口角を吊り上げた。
「ところで、姉君は今、『昊天の君』と共に旅をしているそうだ」
「え……?」
 其の名が出てくるとは予想だにしていなかったため、先程よりもはっきりとした動揺を露わにしてしまう。
「闘神と魔王の息子、昊天君。そなたの許婚と聞いておるが」
「……其れは、随分と昔の話です。私が此方に来た時、疾うになくなった縁談でしょう」
 自分で言っておきながら、蘭麗の胸には悲しみが込み上げてくる。幼い頃、あの美々しい公子に憧れていた彼女にとっては、むしろ無かったことにして欲しい事実である。
「そなたが皇女として戻れば、其の話も元に戻るのではないか? いや……彼の方は半神であられる身。そなたが本物の第一公主でないとなれば、そなたの姉を妻にと望まれるやも」
 慰めているかのような珠帝の様子からは、蘭麗の反応を試しているとしか思えない。
「『光龍』と呼ばれる巫女の比類なき美しさは知っておろう。共に旅をしていれば、心奪われずにはいられないであろうな」
――覗かれて……いる?
 珠帝が読心に長けていることは、蘭麗も身を以て良く知っている。しかし今は、其の能力とは次元の違う力で見透かされている。昊天君の話など誰にもしたことはなく、読まれようもなかったのだから。
「何故、左様なことを……」
「慕っていたのだろう? 諦めよと己に言い聞かせながら、胸奥では再会の時を夢に描いていたのであろう」
 否定する間も与えず、珠帝は蘭麗の秘めたる想いを暴いてゆく。手にした扇を弄びながらも、紅に煌めく瞳を哀れな姫に向けて逸らさない。
「……何を迷っておる。妾は既に、そなたに姉が居ることも、其の姉が神巫女であることも知っているのだぞ。名前を言う位、如何ということもなかろう」
 其処まで知られているなら、珠帝の言う通りかもしれない――ほんの一時、蘭麗の頭にはそんな考えが仄浮かぶが、直ぐに隅へと追いやった。
「陛下、私に言えることは此れだけです」
 珠帝を見据えた蘭麗は、少しも物怖じしない澄んだ声で言う。
「私は聖安を統べる女王の娘。そして、行く行くは聖安を統治する身」
――我が姉、麗蘭と共に。
 嘘偽りや虚栄ではない真情が溢れ出るのを、蘭麗は自身でも感じている。されど彼女の揺れる瞳には、身体の奥底から生まれて払えぬ影が落ちていた。
 毅然とした態度で立ち向かう皇女を前に、珠帝は暫しの間言葉を発さず静かに微笑んでいた。扇を広げて口元を隠すと、不思議そうに首を傾げて問い掛ける。 
「其処までして公主の誇りを、姉を守ろうとするか。夢境の中とはいえ、姉を酷く傷付けたそなたが……今更、如何やって姉と宿を共にするというのだ?」
 蘭麗は、またしても顔に出さずに恐れ慄いた。
――何故、あの夢のことを知っているの?
 冷静に為れば、珠帝と繋がりが有るらしい『黒の君』が教えたと考えることも出来ただろう。だが思考が乱れ掛けた蘭麗には、珠帝に心を見通されたとしか思えず、こうして相対しているだけで恐怖に襲われていた。
 答えない蘭麗を更に攻めはせず、珠帝は嘆息して立ち上がる。其れに合わせて席を立った蘭麗は、もう一度頭を下げた。
「『公主蘭麗』よ。そなたの姉が、数日の内に此処に来る」
 唐突に告げられ益々混乱する蘭麗を置いて、珠帝は室から出ようと歩き出す。扉の側まで行くと立ち止まり、立ち尽くす彼女を肩越しに見た。
「交わす言葉でも考えておくがいい。最初の出会いにして、今生の別れになるやもしれぬからな」
 呆然とする蘭麗を残して、珠帝は室を後にする。蘭麗は彼女の発言を思い起こし、とある確信に至っていた。
――やはり、私を使って姉上を誘い出す積もりなのね。
 涙が出そうに為るのを堪え、蘭麗は東側の窓辺へと走った。姉が居るであろう方向を見て、両手を握り合わせて強く願う。
――来ないで、姉上。どうか私を嫌いに為って、見捨ててください。愚かな妹の、最初で最後のお願いでございます。
 瞑目して闇の彼方に垣間見るのは、輝くばかりに美しい姉の姿。哀しみと力強さを共に秘めた彼女の声が、蘭麗の胸底へと落ちてゆく。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 声に出して呼びたくても、決して呼べない姉の名前。其れは、たとえ自由と引き換えにしても、公主の誇りと共に捨て切れない姉への想い。
――姉上、姉上……麗、蘭。
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