金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

七.重ねた罪、罪の重さ
 皓月、見事な魔性の夜。紫暗は珠帝の命により、帝都郊外に在る彩霞湖畔に来ていた。
 此の湖から眺める月は格別で、神々しい月暈を前にしては王でさえ恭しく礼を執る――湖の岸辺に聳える七層の塔は、そうした謂われから恭月塔と呼ばれている。皇族の持ち物で、避暑などに用いられている華麗な塔だ。
 今宵、敵国聖安の帝位継承権を持つ姫君が、此の塔に幽閉されることに為っている。名を蘭麗といい、聖安が『至宝』と呼んで大切に育んできた、稀に見る美姫であるという。 
 命じられた通り、紫暗が塔の入口付近で待っていると、都の方角から従者たちと共に二つの輿がやって来た。先に着いた輿からは珠帝が現れ、やや遅れてもう一つの輿も下ろされた。
 女官に促されて出てきたのは、十歳にも満たぬ幼い少女。薄明かりで足下が見えにくいにも拘らず、ふらつきもせず軽やかに輿を降りる。
 月と松明の光に照らされて、姫君の容貌が晒されてゆく。紫暗は彼女の素顔を一目見るなり、抗いようもなく釘付けと為った。
 其の身に流れる高貴な血のためか、花の如き顔は暗闇でさえ輝いて見えた。愛らしい大きな瞳には、姫君に相応しい利発さや誇り高い意志が宿る一方、確かな恐怖が表れている。
 蘭麗の視線が向けられるのに気付き、紫暗は咄嗟に身体を引く。隠れる必要は何処にもなかったが、如何いう訳か無意識に足が動いていた。
 塔の鉄扉が開き、中から現れた数名の女官や兵たちが珠帝の前に跪く。女帝が幾つか命じると、一番年長らしき女官が丁寧に頷き、蘭麗姫と他の者たちを連れて塔内へと入って行った。
「紫暗」
 姫が居なく為ると、珠帝は紫暗を呼ぶ。木陰から静かに歩み出た彼は、主の許で膝をついた。
「今日より、おまえに蘭麗姫の監視を命ずる」
 斯様な命が下ることは、今夜此処に呼び出された時からある程度予想していた。珠帝が腹心の中から此の役を選ぶとすれば、自分を措いて他には居ないと思っていた。
「あの娘を、此処から決して出してはならぬ。外界には一切触れさせるな」
「御意に」
 一つ目の命は、左程難しいものではない。塔の最上階に押し込め扉を閉ざし、日夜見張っておけば良いだけのことだ。
「時折様子を見に行け。話でもして懐かせて、姫がどんな娘で何を考えておるのか、解るようにせよ」
 二つ目の命が厄介だった。何故そんな難題を仕掛けるのか、紫暗には主の意図が読めなかった。
 表情に出さず困惑している彼を見て、珠帝はくつくつと笑う。
「難しく考えるでない。小娘が喜びそうな御伽噺でもしてやれば良いのだ」
 平然と言われたが、自分があの子供に物語を聞かせている様など全く想像出来なかった。紅燐辺りなら得意そうだが、珠帝に命じられた以上、己がやらぬという選択は無い。
「畏まりました」
 紫暗が頷いたのを見ると、珠帝は微笑んで輿に乗り込む。陸尺たちは再び輿を担ぎ、従者たちと一緒に皇宮へと帰ってゆく。
 彼女が去った後、冴えに冴えた円かなる月を仰ぎ見て、紫暗は嘆息を漏らす。青みを帯びた白い光は、数瞬垣間見えた、哀れな姫君の澄んだ美しさを思い出させた。
 其の日より、紫暗は勅命通り蘭麗姫の監視を始めた。姫と適度な距離を保ち接する一方で、姫を奪い返そうとする聖安の武人をはじめ、彼女の神気を狙い近付く異形たちを斬り、紺青の湖と暗緑の森を血で染め上げた。
 月白姫と、敵国の冷酷な剣士の奇妙な関係は、九年もの間続くことに為る――




 珠帝の来訪から一夜明け、眠れぬ夜を過ごした蘭麗が普段よりも遅めの朝餉を取っていると、彼女が未だかつて経験したことのない事件が起きた――塔内に聖安人が侵入したのだ。
 朝の静寂に包まれた恭月塔に、甲高い女の喚声が響いたかと思えば、慌ただしい大勢の足音や物が倒れる音が入り乱れ始めた。
 蘭麗の室に居た女官たちは、様子を見て来ると言い出て行ったきり戻って来ない。独り残された彼女は、事態が見えぬまま待っているしかない。
「失礼いたします!」
 普段は話すこともない見張りの兵が、荒々しい勢いで室に入って来た。
「塔に侵入した者が。姫君は此方から出られませぬよう!」
 そう叫ぶと、兵は室を出て引き返す。『侵入者』と聞いて、蘭麗が真っ先に思い浮かべたのは姉、麗蘭だった。心臓の鼓動が速く為り、目眩に似た不安に駆られる一方で、淡い期待が込み上げてくる。
――私は何故、喜んでいるの? 姉上が危険に晒されているかもしれないというのに。
 混乱の渦に巻き込まれる中、蘭麗は己の気持ちを抑えられない。幾ら『来ないで欲しい』と願っても、姉に会いたいという願望は止められそうにない。
 暫く経つと扉の開く音がして、誰かが室に入って来た。神人であるらしく神気を感じるが、蘭麗の知らない質のものだ。
――姉上……ではないわね。其れ程強くはない。
 外の騒ぎから推測するに、珠帝の配下の者ではない。胸元に置いた手を握り締めて深呼吸した後、意を決して声を掛ける。
「何者ですか」
 毅然とした態度で尋ねると、御簾の外に出て行く。入口の側に立っていたのは、見知らぬ壮年の男だった。
 姫の姿を見るなり、彼の顔に驚きの表情が広がる。そして蘭麗もまた、動揺を面に出さぬよう隠していた。
 奏楽をはじめとする芸事の師や女官、珠帝以外と御簾越しでなく向かい合うなど、此の九年間一度たりとてなかった。しかも此の男は、武装し返り血を浴びているという只ならぬ姿である。
「無礼をお許しください。聖安の第一公主、蘭麗さまとお見受けいたします」
 跪いた男は焦っていたが礼儀正しく、彼女に対し茗人たちとは違った態度を見せた。
「貴方は?」
「聖安で、禁軍中校の位に在った者でございます」
 彼が懐から取り出した双頭龍の紋入りの階級章を見て、蘭麗は驚愕した。言われてみれば、男の顔立ちは茗人のものではない。
「姫君をお救いするべくやって参りました。私の同志たちも貴女をお待ち申し上げております」
 一刻も早く蘭麗を連れ出したい男の焦慮が窺えたが、彼女は突然のことに混乱し動けずにいた。特に気に為ったのは、同じく助けに来るという姉麗蘭も、此の男と一緒に来ているのか否か……である。
「姫君、どうかお早く。敵兵が増えれば逃げられなくなります。何かお気になさることでも?」
「いえ、貴方のような方がいらっしゃるのは初めてなので、少々驚いただけです」
 男は其の言葉に目を見開いたが、直ぐに納得して頷いた。
「以前より、我々の仲間が何人も来たはず。誰も戻りませんでしたので、皆殺されたのだと思っていましたが……やはり貴女さまにお会いすることすら出来なかったのですね」
――何ですって……?
 残酷な事実を突き付けられ絶句する蘭麗に、男は手を差し伸べた。
「貴女を聖安へ……恵帝陛下の御許へお連れすることは、我らの悲願。さあ、お手を」
 彼の口調は比較的優しいものだったが、蘭麗は逡巡を示した。今自分が逃げ出したなら、聖安や姉にどんな影響を及ぼすのか、そもそも本当に逃げることなど出来るのか、様々な迷いが脳裏を掠めてゆく。
――もし、私が此処を出たならば……姉上が危険を冒してやって来る必要がなく為るかもしれない。
 些か強引に結論を出すと、蘭麗は男の手を取ろうとする。しかし突として、男がくぐもった声で呻いた。
 背後から投げられた小刀で心の臓を一突きされたらしく、其のまま前方へ倒れ伏す。
「きゃっ……!」
 覆い被さって来る男の身体を避けると同時に、声を上げないように自分の口を両手で押さえる。恐る恐る男を見下ろすと、既に事切れているようだった。
「姫」 
 出入り口の方向から、聴き慣れた低い声がした。蘭麗が顔を上げると、見たことのない男が立っていた。
「紫暗……なの?」
 彼が紫暗であることは、纏う神気からも明らかだ。また、周囲に誰も居ない此の状況が、聖安の剣士を一撃で殺したのが彼であると物語っている。
 初めて目にする紫暗の容姿は、蘭麗が想像していたよりもずっと若く中性的なもの。真っ直ぐな髪と同じ藤色の双眸は、研磨した氷刃の如く鋭利で冷え冷えとしている。
「貴方はこうやって……私を助けようとする人たちを……」
 何の根拠も無いままに、紫暗は優しい男だと信じていた甘さに気付く。強い神人であるとは知っていたが、穏やかな声調で美しい物語を紡ぐ彼からは、人を惨殺する様など浮かびようもなかった。
 蘭麗は鬼でも見たように脅え、立ち竦む。紫暗に害されることはないと分かっていても、感情のない無機質な瞳で見詰められると、逃げ出したくて堪らなく為る。
 せめて一言、弁明の言葉でも掛けてくれれば良いものを、紫暗は何も言おうとしない。動けぬ蘭麗から暫し目を逸らさずにいたが、やがて彼女に背を向けた。
「到着が遅れ、見るに堪えぬものをお見せして申し訳ございません」
 紫暗らしい、抑揚の無い声だった。何時もと変わりない調子なのに、此れまでの彼とはまるで別人に見える。
「……答えて。貴方は、此の塔に来た人々をどれだけ殺めてきたの?」
 恐怖に耐えつつ気丈に尋ねた蘭麗に、紫暗は浅く溜息を吐いた。
「其れを訊いて、何に為ると仰る」
「知りたいの。私の罪の重さを」
 背後から姫の強い視線を感じたが、紫暗は問い掛けには答えなかった。少しして後ろを振り返り首を垂れると、右腕を広げ扉の方を指し示す。
「どうぞ、別室にお移りください。此れ以上、斯様な所に居ていただく訳には参りません」
 蘭麗は動かぬまま紫暗を見据えていたが、程無くして彼の指示に従い室を後にする。三波石の螺旋階段に出るなり、恐るべき惨状を目にして、彼女は今度こそ悲鳴を上げた。
 青白い石段が血の海に沈み、転がった死体もまた、紅血に浸されている。死人の中には塔の兵たちも居れば、先程紫暗に殺された聖安人の仲間と思しき剣士たちも居た。
 戦慄して震えが止まらず、其の場にへたり込みそうに為るのに何とか耐える。手で口を覆い、押し上がって来る吐き気も懸命に堪え、やっとのことで声を絞り出した。
「紫暗、此れは……」
 恐る恐る尋ねると、彼は眉一つ動かさず即座に答える。
「貴女の罪です。蘭麗姫」
 事もなげな返答に、蘭麗は唖然とする。何を言われたのか理解出来ず、一瞬思考が停止した。
「貴女を救おうとする貴女の民たちに依って、私の部下が殺されました。貴女の民たちを、私が殺しました。結果、貴女は斯様な光景をご覧に為っている」
 蘭麗を冷然と見下ろし、一切の慈悲無く責める紫暗。幼い頃より知っている彼が『消えた』――というよりも、元より『存在しなかった』という事実は、凄惨な場面を見せられたこと以上の痛みと為って彼女を襲う。
「期待を抱かれぬよう。此処から離れようとなさらぬよう。さすれば、此れ以上罪を重ねることも有りますまい」
 其の警告は、数日中に現れるという姉について示唆している――蘭麗はそう確信した。絶望の際に追い詰められていたが、泣き崩れたいのを我慢し強く言い放つ。
「参りましょう。案内してください――『白虎』」
 以前、女官や兵たちが紫暗をそう呼んでいたのを思い出す。とにかく今は、彼を別の名で呼びたかった。何時しか親しみを籠めて呼ぶようになっていた、『紫暗』とは別の名で。
――屈せないわ。私の罪深さを思えば、尚更。
 小さな足で石段を踏み締め、静かに降りゆく紫暗に続く。気を抜けば消えてしまいそうな己の意志を保とうと努めながら。
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