金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

八.姫君の呪い
 聖安人たちの来襲に依り、恭月塔内部には惨憺たる光景が広がっていた。
 入口を突破した十数名の侵入者は、守衛の兵たちを次々と斬りながら最上階へと向かった。塔内に配置していた兵は五十名を超え、迎え撃つには十分な数であったが、手練れ揃いによる急襲で歯が立たなかった。
 皇宮から恭月塔に向かおうと準備していた紫暗は、敵襲来の報せを受けて急行した。到着した時、塔が制圧され掛けていたにも拘らず、立ちはだかる者全てを殺して蘭麗の許へと駆け付けたのだった。
 紫暗直属の部下である守衛隊長は、決死の覚悟で応戦したが賊と姫の接触を許し、自らもかなりの手傷を負った。嵐の去った恭月塔の一室で、彼は一連の騒動について紫暗に報告していた。
「遺体を調べたところ、殆どの者が聖安禁軍の階級章を身に着けていました。以前から現れている退役将校たちの一味かと」
 此れまでにも恭月塔に侵入を試み、紫暗自らが殺した敵の将兵が幾人もいた。ただし九年間で、塔内に入り込まれたことは無い。いずれも事前に情報を掴み塔の外で迎え撃ったものであり、不意を衝かれたのも初めてだ。
「残党がいるやもしれませぬ。兵を出し彩霞湖周辺を探させております」
 一通り伝え終わると、男は跪いて深く頭を下げた。傷の痛みに耐えつつ、まるで皇族や貴族を前にしているかの如く平伏し、極度に緊張して震えている。
「不甲斐なく、申し訳ありません。二度と無いようにいたします」
 震慄して怯える男を責めることなく、紫暗は只、冷ややかな視線を向ける。
――二度目など、起こせるものなら起こしてみるが良い。
 侵入者を許した守衛の長を生かしておくなど、何時もなら考えられない。剣を振り上げる気も誰かに処分させる気も起きない今の自分が、良く解らない。
「『例の者たち』の足取りは」
 紫暗もまた、腕の良い諜者を使って公主麗蘭や蒼稀上校と思しき若者たちを追わせていた。しかし、彼らが気の感知に優れているため注意を要することや、諜者たちが妖に襲われることもあって、常に動向を把握するのは困難を極めた。
「昨日の夕刻、楚州魏燕村の付近に居たとの報せを受けております」
――楚州。此処から目と鼻の先ではないか。
「妖の急襲を躱しつつ、街道を避けて進んでいるようですので、此処まで来るのには数日掛かるものと思われます」
 楽観的な部下とは異なり、紫暗は敵が明日にでも此処にやって来ると目算した。神巫女の力が如何程のものかは想像するしかないが、少なくとも玄武を負かした蒼稀上校が一緒なのだから、過大評価しておく位が丁度良いだろう。
「姫には離れの館へお移りいただく。最小限の女官をお付けしろ」
 纏まった少ない言葉で、紫暗は他にも幾つかの指示を出す。命を受ける部下も慣れた様子で、幾度か返事をして直ぐに退室した。
 一人に為り、紫暗は椅子に腰掛け卓上の書類に目を通し始める。恭月塔を守っていた兵の多くが使えなく為ったので、代わりと為る隊の編成図を用意させたのだ。
 確認した後、次は紙と筆を手に取る。珠帝に宛てて、彼女の命令通り蘭麗を移す手配を行った旨を無駄の無い文章で認めてゆく。手早く書き終えて出来た書状を丸め、紐で括って筒に収めた。
 先程の男が戻って来るまで手持ち無沙汰に為り、手指を組んで額に付ける。こうして仕事の合間に考える時間が出来ると、今朝の蘭麗とのやり取りを思い出してしまう。
――如何してあれ程躍起に為ったのだろう。
 若い頃から、頭で考えた通りに動けないことなど自分には無いと思っていた。だが、月白姫が出てくるとどうも調子が狂う。
 先刻も、姫の希望を砕き罪悪感を膨らませ、逃げる意思を奪おうとしたのは確かだが、冷静な判断の下での言動だったとは言い難い。
 蘭麗姫を手放してはならない――彼女を逃がすなと命じられてからの九年間で、気付かぬうちに掛けられた『呪い』は、重い鉄鎖と為って紫暗を縛る。
――本当に、『呪い』のようだ。あの美しさは。
 九年振りに垣間見た月白姫の容貌は、紫暗の予想を遙かに超えていた。長年宮廷に居て、絶世の美女と名高い珠帝をはじめ佳人を見慣れているが、はっきりと心を動かされたのは初めてだ。
 顔貌の秀麗さだけではなく、魂が放つ清らかさや儚さが、蘭麗という人間の輝きをより一層貴なるものに高めている。一体何が、あれ程のものを造り出すのだろうか。珠帝が……茗が、彼女に与え続けてきた苦しみか。或いは、聖安の民たちが背負わせてきた悲しみか。
 紫暗はまたしても、蘭麗の存在が自分の頭の中を塗り潰しているのに気付く。彼女の哀しげな面持ちを無理矢理外へ追いやると、刻一刻と近付きつつある強敵との戦いに備え、意識を集中し始めた。



 聖安の将校たちに依る蘭麗姫奪還が失敗した日――其の日のうちに、姫は恭月塔から出されることに為った。無論解放ではなく、捕虜の移送である。
 九年振りに輿に乗せられた蘭麗は、塔に程近い位置に在る屋敷へと移された。十数名の兵たちと二人の女官が供をし、馬に乗った紫暗が先導した。
 束の間とはいえ外の空気を吸うことが許されたが、日中の騒ぎでの動揺が続いていたため心安らぐどころではなかった。時折甦る死者たちの記憶だけでなく、紫暗の真実や新たに刻まれた罪の意識が、黒黒とした大波と為って蘭麗を喰もうとしていた。
 移った先は、幾年も人が住んでいないと思われる立派な館。恭月塔と同じく、調度には茗の皇家が使う紋が刻まれており、皇族の別荘であることは一目瞭然だ。
 最奥に在る広々とした一室を与えられ押し込められると、塔での暮らしと何も変わらなかった。急な移動で支度も出来ず、琴や衣服、数冊の書物しか持って来なかったため時間を持て余すだろうが、直に慣れると思われた。
 移動が輿のため大して歩いてはいないものの、数年塔の外に出ていない蘭麗の身体は相当弱っており、疲れが高じて室に入るなり立ち眩みがする程だった。同行の女官たちは、長椅子に横臥する蘭麗に構わず、てきぱきと動いて荷の確認や整理をしていた。
……やがて蘭麗は、新たな牢獄の中で実に静寂な夜を迎えた。周囲で忙しく働いていた女官たちも、一通りの仕事を終えたようだ。流血の惨劇に始まった慌ただしい一日は、嘘のような静けさに包まれて終わろうとしていた。
 湯浴みの後、殆ど手を付けなかったが夕餉を取り、就寝の準備をして女官たちを下がらせる。椅子に座して瞑目し、少し経つと急に立ち上がった。
「白虎、居るのでしょう」
 外側から施錠された戸に近寄り、声を掛ける。神気を感じ取り、室の直ぐ外に彼が居ることは分かっていた。
 昼間の一件で紫暗に脅え、暫くは極力話し掛けたくないと思っていたが、こうして姿が見えないと幾分安心出来た。其れに今は、相手は誰でも良いので話でもしないと気が滅入りそうだった。
「今までずっと、心の何処かで……貴方は心根の優しい方だと思っていたわ。此の後に及んで未だ、私はそんな考えを捨てられない」
 もはや、蘭麗は心情を打ち明けるのを躊躇しなかった。長い長い間、胸が張り裂けそうに辛いことがあっても、誰にも其の苦しみを晒したことのなかった彼女の忍耐も、疾うに限界を超えていた。
「私は、『あの方』とお会いするのが怖い。生きているだけで罪を重ねる私が、あの方の御前に立つなど許されるのかしら」
 麗蘭が数日中にやって来ると、珠帝自らが断言した。紫暗が其れを知らないとは考えにくく、今更姉の存在を口にせぬ必要は無いと思われた。そして其れ以上に、自分でも気付かぬうちに、蘭麗からは深く思考する気力が失われつつあった。
「あの方を……如何なさるの?」
 姉に依って救出され、聖安に戻れるかもしれない――今、そんな希望は無い。近い未来聖安を治めるはずの麗蘭を、本来であれば憚かることなく姉と呼び慕うべき麗蘭を助けたい。在るのは其の一心のみ。
「何も。貴女を聖安の者には渡さない――私の任は其れだけです。其れがお嫌なら、御自分のお力で何とかなさることだ」
 そう言った紫暗の声は余りに底冷えするもので、蘭麗の背筋を忽ち凍り付かせた。何故なのかは分からないが、彼が目の前で人を殺した時よりも身震いが酷く、恐怖を感じている。
 更に、解せない点が蘭麗の脳裏に浮かんだ。珠帝の興味は完全に麗蘭へ移っており、自分は姉を誘い出すための餌に過ぎないのは明白。だが紫暗の言動からすると、違うようにも取れる。
――珠帝ではなく、白虎自身の意思ということ?
 己に注がれ続けてきた熾烈な執着心に、漸く気付き始める蘭麗。しかし彼女には、相変わらず紫暗の心底が読めなかった。口では蘭麗を逃がさないことが優先だと言っていても、実際に姉が来た時彼がどんな行動に出るのかは分からない。
「たとえ貴方といえど、あの方に手出しはさせない。もしあの方に仇為すというのなら、私は貴方を……」
「蘭麗公主」
 感情の昂りを抑えて震える蘭麗の声を、紫暗は冷たく遮った。
「『貴方といえど』というお言葉は無用。お忘れになりましたか? 私は貴女の敵なのです」
 呼ばれたことの無い呼び名で呼ばれ、敵であると突き放される。蘭麗は愕然として、両の掌で顔を覆って膝を折った。人が死ぬのを見せられても尚崩れなかった彼女が、紫暗の心ない一言に我慢出来なく為ったのだ。
 流れる涙は止められずとも、咽び泣く声を聞かれる訳にはいかなかった。一度息を止めて深呼吸した後、戸の向こうに居る紫暗に気取られぬよう静かに言う。
「そうでしたね。確かに忘れていたわ……貴方と私の立場を」
 言い切ると、蘭麗は戸に背を向けた。
「もう、休みます」
 強引に会話を終わらせて、室の奥へと入ってゆく。足音一つ聞こえなかったが、程無くして紫暗の気配も消え去った。
 天蓋の付いた大きな寝台に身を投げ出して、柔らかな枕に顔を埋めた。室の外に漏れ出ることなど構わずに取り乱し、泣きに泣いた。夢の中で麗蘭と出会い、負の感情を浴びせた後と同じ程、止め処なく涙を溢れさせた。
 泣けるだけ泣いて気持ちが落ち着くと、悲壮な決意を高める。今後二度と、敵である紫暗のために心を痛めはしまいと。聖安の公主である自分が、宿敵珠帝の配下のために落涙することは無いと。
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