金色の螺旋

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第二章 蒼き獅子

五.惑う男
――あの女が、居ない。
 日が落ち夜が始まった頃、男が寝所で目覚めると、隣で寝ていたはずの女の姿が見えなくなっていた。
――先刻まで確かに、此の腕の中に居たというのに。
 重い身体を起こし、眠ってしまうまでの記憶を呼び覚ます。昨晩からいつものようにあの女と此処に籠もり、朝起きると其のまま昼までずっと睦み合っていた。いつの間に、疲れて寝入ってしまったのだろう。
彼は海賊が根城としている小島に家を構え、茗から連れて来た数人の従僕と共に滞在していた。
「おい、誰か来い」
 男の苛ついた低い声を聞きつけ、下男が入って来て跪く。
「瑠璃は如何した?」
 赤墨色の髪を掻き上げると、左頬から耳の付け根にかけて走る傷跡が見える。十数年前の戦で負った、彼の特徴とも言える刀傷である。
「えっ? 居らっしゃらないのですか? 御主人様と共に此方に入られて以来見ておりませぬが……ひいいいい!」
 老いた下男の間抜けな声で余計に腹立たしくなり、男は突然側にあった鉄の燭台を思い切り投げつけた。顔に直撃するところを何とか避けると、何度も何度も頭を床に擦り付けて謝り続ける。
「申し訳ございません! 申し訳ございません! しかし、朝からずっと見ていましたが誰も戸口からは出ていません!」
「ちっ……!」
 忌々しげに舌打ちすると、寝台から抜け出て歩き出す。這い蹲っている下男を数度足蹴にすると、側にあった着物を取って寝室を出て行く。男が通った後には鼻と口から血を流し、気絶している男が転がっていた。
――瑠璃を抱きたい。
 彼女が現れてから一週間。陸地に連れて来て決して外へ出さず、飽きることなく抱き続けた。自分は一体如何してしまったのか不思議に思う程、彼女の色香に捕らわれてしまったようだ。
 あれ程麗しく、神々しくも淫らな女は居ない。過去にも未来にも、屹度あの女以外に現れはしない……いや強いて言えば、彼の主君である珠帝も匹敵するであろうが、当然の事ながら瑠璃のように自由になる女ではない。そう思うと、瑠璃を決して逃したくなくなる。
 此の腕に抱き自ら快楽を与えている間だけは、確かに瑠璃を支配していられる。彼が彼女を抱きたいと思うのは、自分の劣情を満たす為ではなく彼女を自分の手の中に留めておきたいからだと言っても、過言ではない。
「御主人様、お客人がお見えです」
 着物を着始めると、別の下僕が恭しく告げる。
「……誰だ?」
 此処を尋ねてくる者等滅多にない。本国の者にさえ、居場所を知らせていないのだから。相手によっては会わずに追い返し、瑠璃を探しに行こうと思っていた。
紅燐(こうりん)様と名乗っておられます」
 其の名を聞いた途端、男の顔色が変わる。不愉快そうに再び舌打ちすると、応接間へと通すように命じる。
「朱雀が……言われてみれば奴の気を感じないでもない。こんな所まで一体何の用だ?」
 ぽつりと独言して着替えを再開する。客人が彼女となれば、一応邪険には出来まい。適当に相手をして、早く帰すのが得策だと踏んだのだ。



「機嫌が悪そうだな、玄武」
 卓を挟んで玄武と向かい合った朱雀は開口一番、素直な感想を述べた。
「何用だ? 早く用件を言え。旧知とはいえ、親しく近況を伝え合う仲でもないだろう?」
 朱雀は何時も身に纏っている戦闘時の装束ではなく、普通の女らしい色鮮やかな着物を着ている。
 ぶっきらぼうに言った玄武に溜息をつくと、彼の要望通り用を話し出す。
「陛下の勅命が下りた」
 懐から勅書を取り出し、彼の前にすっと差し出す。数秒其れを見詰めてから、玄武は何も言わずに両手で受け取った。
 巻かれた文書を開き一渡り目を通すと、手から滑らせるようにして卓の上に落とす。
「玄武、もっと慎重に扱え」
「何だ、此れは?」
 首を捻り言い捨てる。どうやら、彼は珠玉の命が気に入らないようだ。
「……見ての通りだ。聖安の第一公主が現れる。見つけ次第、捕らえて陛下の御前に献上せよ。但し極力害してはならぬ……」
 彼女の言に益々気分を悪くしたのか、玄武は卓を殴り付けるように叩いて遮断する。
「違う。俺が聞きたいのは、此れを本当に陛下が下されたのかということだ」
 朱雀を睨み凄む玄武は、他の者からすればかなり恐ろしく見えるだろう。しかし朱雀は威嚇に全く動じず、只頷き事実を答える。
「本当だ。此れを認められている所を此の目で確かに見た。其れに、長く離れているとはいえ此の美しい文字があの方の直筆であると、分からぬそなたではあるまい? 御璽もちゃんと有る」
――相変わらず癪に触る女だ。
 目の前の女は可愛げもなく、分かり切った事実を淡々と告げる。
「第一公主というのは、前々から陛下が存在を疑っていた恵帝の隠し子のことだろう? 其の娘を捕まえる為に、如何しておまえと……青竜の奴までもが駆り出されている?」
 玄武を苛々させているのは、勅命の内容。本当に久し振りに朱雀自ら彼を訪れ、直に手渡す勅書であるからにはもっと重要な命令を想像したのだが、見事に期待を裏切られた。彼が待ち侘びているのは、聖安の姫を如何のこうのという詰まらぬ命令ではない。「開戦するので帰国せよ」という刺激的な勅令だけなのである。
「……只の一の姫ではない。どうやら“光龍”らしいのだ」
「“光龍”……?」
 お伽噺や神話にまるで興味を持たぬ彼も、余りに有名であるがゆえ其の名は知っている。天の神によって創られ下された、天女の如き絶世の美女である。
「陛下は神巫女を手に入れたいとお考えで、此の命を出された。聖安だけでなく、其の娘も奪い天の力を我が物とするおつもりだ」
 険しい顔で朱雀の言葉を聞いていた玄武は、突如一転して愉快そうに笑い出す。
「くくくっ……! 神の力ね、陛下はそんな怪しげなものに気を取られ、未だに開戦しないと言うか」
 珠帝を侮るような言動に、朱雀が静かに憤りを見せる。
「玄武、其の物言いは無礼ぞ」
 注意する彼女に構わず額に片手を当て、笑いを堪える仕草をして俯いたまま続ける。
「朱雀、嘆かわしくはないか? 陛下のお望みは一にも二にも先ず、人界統一だったはずだ。其の前人未踏の領域に踏み入る夢を、俺たちにも見させてくれた。其れをそっちのけで、神の力等という不確かなものを求めるとは」
 確かに彼の言うことは正しい。朱雀も、其れを認めざるを得ない。だが珠玉が決めた道なれば、自分に其れを否定するつもりは毛頭無い。
「……私は陛下を信じ、従うのみ。あの方に間違いはない」
 迷い無く、玄武が思った通りの反応を示す朱雀。彼は不服そうな顔をしたままで、扉の方を指し示す。
「話は終わりだ。勅令は確かに受け取ったから、おまえは仕事を続けるが良い」
 暫し無言で玄武を直視した後、立ち上がって部屋を出ようとする。其の途中でぴたりと止まり、もう一つの主の命を伝えようと振り返った。
「玄武、おまえの望み通り開戦は近い。其れまで面倒は起こすなとの、陛下のお言葉だ」
 彼が一応頷いたのを確認すると、朱雀は部屋を出て行く。
「ふん……」
――苛々する、ちょっとでも期待した俺が馬鹿だった。
 立ち上がると、先程まで朱雀が座っていた椅子を蹴飛ばして倒す。只そんなことをしてみても、腹の虫は収まらない。
緑鷹(りょくよう)さま、何をそんなに怒っていらっしゃるの?」
 背後から突然聴こえる女の声。玄武は驚いて振り返り、まるで狐につままれたような顔をする。
「瑠璃、おまえ、何時から其処にいた?」
 つい先刻朱雀が出て行った戸口に、彼の探し求めていた女が立っている。怒りで気を取られていたとはいえ、玄武程の武人が直ぐ後ろの女に気付かぬはずがないのに。
 唖然とする玄武に笑いかけ、彼の腕にすり寄ると、耳元で囁くように言う。
「つい、先程からですわ。あの方……美しい人でしたわね?」
「美しい……?」
 そう……確かに朱雀は美しい。彼女のことを気に入らない玄武も、其れは否定しない。
――だが、この瑠璃に比べれば。
 瑠璃の腰に手を回し、ぐいと抱き寄せる。此の女を見ると、ついこうして腕の中に収めたくなるのだ。
「ねぇ……貴方は、あの名高い大将軍でいらっしゃったのね?」
 彼を見上げ、感心したように言う。
「話を聞いていたのか」
 益々怪訝そうな顔をする玄武。部屋の直ぐ外で立ち聞きしていたということになろうが、朱雀も瑠璃に気付かなかったというのだろうか? 
「瑠璃、おまえは肌の色や顔の造りからして……聖安人だろう? 俺は先の戦で、何百人もの聖安人を殺した。戦争が再開されれば、また幾らでも殺すつもりだ」
 言いながら、彼女の指触りの良い黒髪を撫でる。
「俺が怖いか? 憎いか?」
――俺は、此の女にこんなことを言って……一体どんな言葉を望んでいるのだ? 
 不思議そうな顔をして、瑠璃は首を傾げてみせる。
「また幾らでも……殺す? 貴方に、そんな機会は有るのかしら?」
「何……?」
 彼女の問いは予想外過ぎた。眉を顰め、彼は次の言葉を待つ。
「もう一年もの間、こんな異国の地に追いやられて……開戦が近いというのに呼び戻されもしない。一年? いえ、もっとですわね……此処何年も、貴方が戦に呼ばれることは滅多に無い。そうでなくって?」
 腕の中の女は目を細め、容赦なく言い放つ。耳を疑う発言に、玄武は怒るべきところを呆然とし言葉を失っていた。
「戦に出ないがゆえに、かつては称賛された貴方の武力も衰え……溜まる一方の不満を、たかが聖安の地方軍を打ち破った程度の詰まらない功績で晴らそうとして……」
 自分を貶め傷を抉り出すような言葉の数々が、世にも美しい女の唇から出て行く。しかし彼の耳に残ったのは、衝撃的なたった一言。
「俺の力が、衰えているだと?」
 突然瑠璃の腕を掴んで歩き出し、部屋にあった長椅子に押し倒して、乱暴に組み伏せる。だが彼女は怯えるどころか、艶美な笑みを浮かべ続けて玄武を見上げる。
「貴方の神人としての能力も、剣の腕も、兵を指揮する力も、衰えている。其れなのに、貴方の野心や荒い気性は其のままで……だからこそ、珠帝に遠ざけられた」
「……陛下のことを軽々しく口にするな」
 彼の声に、苛立たしさは含まれない。其れは只、静かで冷たい怒りの感情。
「流石、茗の”四神”。自分を邪険にする珠帝に、余程の忠誠を誓ってらっしゃるのね」
――此の女は、俺を煽って如何しようという? 
 部屋の隅にある刀に、ちらりと目をやる。此のまま怒りにまかせて、此の女を殺してやろうか? 
「私を手打ちになさるの? 其れも……良くってよ。貴方が思い通りに出来るのは、私のような弱い女子だけなのでしょう?」
 玄武は舌打ちして、再び瑠璃に視線を戻す。瑠璃を殺すのを止めたのは彼女の言葉の為ではない。此処まで侮辱されて尚、自分は此の女を手元に置いておきたいのだ。
「では、おまえも自分の身を嘆くが良い。おまえが言うような弱い男に、おまえは此れからも為すがままにされるのだから」
 そう言って、彼は女の柔らかい唇を奪う。彼女は悦んで受け入れ身を任す。溶け合ってしまえば、玄武は瑠璃に対して覚えた憎悪を全て忘れてしまう。気位が高く自分を侮る者を許さない彼が、自分を散々侮蔑した瑠璃に与えたのは、悦楽。
 既に、彼が彼女を支配しているのではない。玄武を翻弄しているのは瑠璃の方で、彼自身、其れを受容していたのである。
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