金色の螺旋

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第三章 竜の化身

五.優雅なる未亡人
 広い敷地に、割合新しい建物。館の主は息子と二人きりで住んでいる未亡人。歳は恐らく、三十代中頃であろう。物静かで落ち着いた雰囲気、更に身形の良さや暮らし振りから、田舎町には似付かわしくない上流の生まれを思わせる。こんなに大きな館で使用人も置かずに、二人で住んでいるというのはとても珍しい。
 麗蘭と蘢、そして優花は、大きな卓の有る広い居間へと通された。快適に整えられ、品の良い調度品や色取り取りの花々に飾られた居室は、主の優れた審美眼を示している。
 女主人は、『友人たちも一晩置いて欲しい』と頼んだ優花に快く了解して、家の中に入れてくれた。その上客人として丁重に持て成してくれている。
 蘢は予定通り、自分は泊めてもらわずに外へ行くと言い張った。家に行くまで言い出さなかったのは、途中で言い出せば麗蘭も遠慮し始めると思ったからだ。だが女主人に是非貴方もと押し切られ、更に麗蘭が自分も野宿すると言い出しそうな顔を向けていたため、結局不本意ながらも甘えることにした。
 麗蘭たちは勧められるまま、主人と卓を囲む形で席に着く。おまけに、美味しそうなお茶とお茶菓子まで用意してくれた。
「嬉しいわ、家の中がこんなに賑やかになるなんて何年振りかしら」
 決して口先だけではない心からの言葉を聞いて、恐縮してばかりだった麗蘭たちは幾らか安堵する。
 香りの良いお茶を美しい所作で一口飲むと、女性はにっこりと優しく笑む。
「私は劉紀佑(りゅうきゆう)。聖安軍の元軍人だった夫が亡くなってから、息子の啓雲と二人で此処に住んでいるの。風友さまとは古い知人でね……昔夫がお世話になったのよ」
 そう言ってから、少し離れた場所で独り書を読んでいる、未だ六つか七つ位の幼い息子へと目をやる。知らない人間が来て恥ずかしがっているのか、先程紀佑が呼んでも此方を一瞥するだけで直ぐに目を逸らしてしまった。
「ごめんなさいね、学校にも行かせていないものだから人が珍しくて、人見知りが激しいの。良くないとは思っているのだけれど」
 庶民の子供は学校に行き、孤児は孤校に行く。だが此の家のようにある程度裕福な家の子供は、学校に行かずに教師を雇ったり、学の有る親が直接勉学を教えたりする場合が多いのだ。
「えっと、二人は優花さんのお友達……なのよね?」
 紀佑は、麗蘭と蘢に問い掛ける。厚遇してもらっておきながら名乗ってもいなかったことに気付いた二人は、居住まいを正して座り直す。
「申し遅れました、私は蒼稀蘢といいます。此方の麗蘭と、訳有って旅をしています」
 彼は迷わず、自分の名と麗蘭の名を出した。麗蘭は少し意外に思ったが、蘢が間違えるはずなどない。紀佑なら名を明かしても大丈夫と判断したのだろう。それに、こんなに温かく迎えてもらいながら偽名を名乗る等、礼儀として良くないに決まっている。
「私は清麗蘭と申します。優花とは同門で、同じ風友さまの孤校出身です」
 微笑みながら聞いていた紀佑は深く頷いて、嬉しそうに言う。
「蘢さんに、麗蘭さんね。大したお持て成しも出来ないけれど、ゆっくり休んで行ってね。直に、夕餉の支度もするから」
 その後麗蘭たちは、紀佑が振る舞ってくれた食事を御馳走になった。そして食後暫くの間、当たり障りの無い範囲で自分たちのことや此の町のこと、更には国内情勢について紀佑と話した。武官の妻であったという紀佑は、政治や軍事の話についてもなかなか詳しいようだ。
 彼女は夫の生前、都紫瑤に住んでいたそうだ。三年近く前に起きた属国との戦争で、夫が片足を失くす大怪我を負って軍役を退いてから、泉栄の地に家族で越して来たという。
 麗蘭は、ずっと気になっていたことを彼女に尋ねてみることにした。
「町の宿は全て埋まっていたのには、何か訳が有るのでしょうか?」
 そう質問してはみるが、何か特別な理由が有るということは先程蘢も言っていたように明らかであろう。案の定、紀佑は首肯して教えてくれた。
「本当に此の数日の話なのだけれど、茗の行商人たちが沢山来ていて、宿を全て借り切ってしまっているのよ。数日前の、茗が商船の出入りを禁じた勅令は知っていて?」
「……はい、存知上げております」
 麗蘭が答えると、紀佑は話を続ける。
「私が、都に居る知り合いから得た情報に依ると、茗は近々海上貿易だけでなく、陸上の通商も完全に打ち切るつもりらしいの」
 此れには麗蘭も、そして蘢も驚かされた。初めて聞く話だ。
「茗は自分たちの属国を始め、茗側に協力する国々と共に通商協定を結んで我が国を孤立させようとしているそうなの。其のための布石ということね」
 風友の下で政治・外交を学んだ麗蘭も優花も、そして蘢も、先の戦争で茗が採った戦略を思い返していた。十数年前のあの時も、本格的に戦が始まる前、今紀佑が述べたことが実際に起こっていたのではなかったか。
「其れが本当ならば、前回の戦争と全く同じ流れですね。我が国は其れで経済的に打撃を受け、追い込まれた」
 蘢が溜め息をついて言うと、紀佑が静かに頷いてから続ける。
「此処から少し東へ行くと、貞街という交易所が在るのだけれど、其処に大勢集まっていた茗の行商人たちが引き揚げ始めたの。此の辺りで宿が取れる町は泉栄位しかないから、集中してしまっているのね」
 其処まで聞くと、三人共大方事情を察することが出来た。
「未だ正式に珠帝の勅令が下ったわけではないので、此の辺りの町で一旦待機しておこうということか……」
 納得したように言う麗蘭には、困惑の色が現れている。どうやら、聖安と茗の情勢は急速に開戦へと向きつつあるようだ。
「前の戦の時……本当に酷く辛かったことを覚えているわ。沢山の人が亡くなって傷付いて……珠帝はまた、そんな恐ろしいことを繰り返そうとしているのね」
 悲愴な面持ちの紀佑に、麗蘭も全く同感だった。茗と聖安、麗蘭が出自を知らされず、父や母と離れて育つことになったのも先の戦に因る。麗蘭自身も実際、少なからず運命を狂わされているのだ。
 大陸でも屈指の大国である二帝国の大戦は、人々の平和な暮らしに様々な暗い影を落とした。その後も聖安は属国の反乱や周辺国との小競り合いを続けてきたが、やはり茗との戦は規模が違う。あれ程甚大な被害を受けた戦いは他に無いだろう。
「戦を知らぬあの子には、平和な世の中で育って欲しかったのだけれど」
 紀佑は、窓際の長椅子でうとうととしている啓雲の方を見やる。夕餉を食べ、独り遊びに飽きてからは、ずっとあちらに座って退屈そうにしていた。
「……とは言っても、戦で父親を亡くしているから……戦争が恐ろしいものだということは、何となく分かっているのでしょうね」
 其れを聞いてふと、麗蘭も思い出す。既に会うことは叶わなくなった、彼女の父である先帝・甬帝のことを。
――記憶が正しければ、九年程前になるか……士気の弱まった聖安軍を鼓舞するために自ら出陣され、戦場で崩御なされたのだったな。
 甬帝が自分の父であることも知らされていなかった麗蘭でさえ、亡くなったと聞かされると途方もない喪失感が有る。幼いとはいえ、少しでも父と過ごした記憶が有ろう啓雲の悲しみは如何程であろうか。夫を亡くした紀佑や、麗蘭の母恵帝は猶更、其の悲哀を推し量ること等出来はしない。
「……紀佑さん、もしかして亡くなられたご主人は、禁軍の劉少将では?」
 出し抜けに尋ねる蘢に、紀佑は不思議そうな顔をする。
「え、ええそうよ。瑛睡公の下で少将を務めていたわ」
 瑛睡公という名を聞いて、麗蘭ははっとした。蘢と同じ所属ではないか。
 蘢はやはりという顔をして、急に紀佑へと頭を下げる。
「私は聖安禁軍瑛睡公麾下で、上校を務めております。劉少将には大変お世話になりました」
 改まった態度で深々と礼をする蘢を見て、紀佑は少し考えてから驚いたような反応を返した。
「……蘢さん、蒼稀蘢さんね。貴方があの天才と名高い……! ああ、どうか頭を上げて下さいな」
 紀佑は畏れ多いと言いたげに、慌てて首を横に振る。
「此方こそ、夫が張との戦の際、貴方に命を救われたことは聞き及んでいるわ。どうお礼を申し上げたら良いか……!」
 そう言って俄かに席を立ち、床に膝を付いて礼をしようとした紀佑を、蘢は何とか止めた。
「そんなことをしていただく必要は在りません。私がもう少し早く動いていれば、劉少将がお怪我をすることはなかった……少将はあの時の傷で……!」
 少しの間蘢と紀佑のそんなやり取りが続いたが、全く分からないという顔で見ていた麗蘭と優花に気付いたのか、紀佑が説明し始める。
「……二年程前、辺境の属国張が聖安の支配から脱しようと乱を起こしたのは、御存知かしらね? 其のまま大きな戦へと発展し、戦闘中にあの瑛睡上将軍や私の夫をはじめとする将官たちが敵の奇襲に遭い、捕らわれてしまったの」
 張の反乱の話は、麗蘭たちも風友から学んで知っている。張が茗から連衡を持ち掛けられ、茗の援助を得て反乱したが、聖安禁軍の活躍で鎮圧されたという。
「自分の小隊だけで敵陣に乗り込み、素晴らしい機転と剣の腕前で将官たちを助けたそうよ。しかも、未だ軍学校を出立ての頃だったとか」
「……恐れ入ります」
 謙遜し過ぎず自然に受け取る蘢は、褒められ慣れているように見える。麗蘭も優花も、只驚嘆するしかない。
――二年前と言えば……確か蘢は今年で十八になると言っていたから、調度今の私と同い年ではないか。
「大将軍の窮地を救ったのだから、さぞかし出世されるのだろうと思っていたけれど、其の若さで上校だなんて……流石ね」
 蘢は軍学校を出て間もない頃から瑛睡に目を掛けられていた。卒業して瑛睡の麾下となり早速の大活躍で、其の天才振りが恵帝にまで知られるところとなった。
 しかし、蘢が紀佑に自分の名を明かしたのは、何も夫を救った恩人として感謝されたかったからではない。只素直に、紀佑に対して礼と詫びを言いたかったのだ。
 軍に入ったばかりの頃は、上官であった劉少将に良くしてもらっていたし、彼が大怪我を負うことになったのは自分の未熟さ故だと考えていたこともある。思わぬ所で其の奥方と息子に会い、蘢は思い掛けない巡り合わせを感じていた。
「……お兄ちゃんが、『そうき少尉』なの?」
 何時の間にか、長椅子に居たはずの啓雲が卓の近くまでやって来ていた。大きな瞳で蘢を見詰めながら顔を輝かせている様子は、先刻まで恥ずかしがって目も合わせようとしなかった様子と比べれば大きく異なっている。
「……そうだよ。今は上校だけどね」
 蘢は少年を真っ直ぐに見て、柔らかく笑む。すると少年は、急に姿勢を正して大きくはっきりした声で言った。
「父上を助けてくれて、ありがとうございました」
 意外な礼の言葉に蘢は一瞬目を丸くするが、直ぐに自分も立ち上がり、力強く頷く。そして腰を低くして啓雲と同じ目の高さに合わせると、彼の頭にぽんと手を置いた。
「劉少将は……君の父上は、立派な人だった……僕の目標だった。君のようにきちんとした強い息子を持って、さぞかし鼻が高いだろう」
 啓雲は手の甲で自分の鼻をこすると、照れ臭いのを隠したいのか蘢から目を逸らし、母の後ろに隠れてしまう。そんな様子を、麗蘭たちは微笑ましく見守っていた。
 やがて少しして、蘢と啓雲を残してそれぞれ部屋へと引き取っていく。麗蘭と優花は同じ客室を借り、蘢は別の一室を借りた。彼は啓雲に懐かれてしまったようで、せがまれて暫く一緒に遊んでやることにしたのだった。
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