金色の螺旋

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第四章 紫蘭に捧ぐ

一.鬼哭、鳴り響く
――あの日の海は、無惨にも虐殺された者たちの血が溶け込み……赤々と染まっていた。

 其れは波の立たぬ、死滅した海の色。憎き敵国に殺し尽くされたとある村の、怨みと哀しみの彩り。
 少年が生まれて育った海辺の村は、取るに足らない辺鄙な漁村。少年の髪や瞳の色と同じ蒼玉の如き海と、深緑の森に挟まれた、小さな小さな村であった。
 剛健で立派な漁師である父に、美しく心優しい母。貧しいが日々の食事には困らない程度の慎ましやかな生活。海や森で遊び、其処で捕れた生き物を食して生きる。少年にとっては此の狭い場所だけが世界の全てであり、ずっとずっと其れが続くと思っていた。
 少年にとって、そしてあの村にとって、命運を分けた最大の不幸は只一つ……遠く海の向こうには敵の大国、茗が横たわっているという、村の存する位置だった。
 聖安と茗の戦は年々激化し、年経る毎に聖安側にとって不利な戦況に陥ってゆく。そして何時しか聖安は、陸からも、そして海からも、茗の軍隊の侵入を赦した。
 運命の、あの日。一斉に海に出て、長く留守にしていた村の男たちが帰って来た翌日。ほぼ全ての村民が其々の家で家族との時間を過ごしており、其れもまた、大き過ぎる不幸であった。

 正午を過ぎた頃、海の向こうより大挙してやって来た茗の水軍が、少年の村の在る浜から上陸した。まるで足下の虫螻を排除するが如く、家や船、僅かな財産、更には人々の命全てを平らげて行った。
 父母と一緒に家に居た少年は、母によって床下の倉庫に隠された。普段は父が漁業で使う道具をしまってある其処は、恨めしいことに小さな少年一人が隠れられるだけの広さしかなかったのだ。
 程無くして頭上に空いた隙間から、父の身体が槍で突かれる音を聴いた。卑しい男共によって母が辱められ、挙句剣で裂かれる音を聴いた……小さな穴から見上げていた少年の鼻に、二人の流した血らしきものが振り掛かった。
 彼は為す術も無く震えていた。敵兵の眼前に飛び出して戦うこと等、一切頭に浮かばなかった。其の時起きていることが信じられず、ゆえに恐怖すら覚えず、只々呆然とするだけだった。
 男達の笑い声や足音が無くなり家の中が静まり返った後も、少年は暫く床の下から出ることが出来なかった。家の外では、依然として人々の悲鳴や怒声、絶叫や奇声が乱雑に入り混じり「出て行けば死ぬ」ことが明白だったからである。
 暫くの間、少年は些かも動かなかった。呼吸をすることさえ躊躇いがちに行う程であった。外の雑然とした混乱は長く続かず、やがて水を打ったように静まり返る時が来た。すると彼はとうとう決心して、傍に在った足場に足を掛けて地上へ戻る。
 自分が入っていた穴から恐る恐る頭を出すと、其処には当然であるかのように、父母の亡骸が打ち捨てられていた。裸に剥かれ身体を折って倒れた母、全身を串刺しにされ穴だらけの父……どちらも襤褸切れと為り、暗紅色の血に塗れていた。
 彼らの顔を見ても、少年は其れらの遺体が自分の親のものだとは思えなかった。数刻前までは生き生きとして美しく輝いていた二人の顔は、まるで作り物のように変わり果て、目を見開いて少年に何かを伝えようとしているかに見えた。そんな両親を目の当たりにしても、不思議なことに、少年の眼から涙が流れることは無かった。

 ふらふらと、よろよろと歩いて家の外へ出てみると、およそ此の世のものとは思えぬ光景が在った。
 白く輝いていた砂浜には累々たる人々の屍が投げ出され、上空を飛ぶ海鳥たちが啄もうと狙っている。石造りの防波堤を隔てて建てられている木造の家々は、少年の家とその周囲数戸を除いて尽く焼かれ、黒焦げの塊と為った死骸や何とか焼けるのは免れた死体が点々として在る。
 日が沈みゆく空も海も、血に塗れた浜も、紅玉色を更に濃くした赫い色。少年の眼は、其の色以外の色彩を認識出来なくなってしまったようだった。
 其処彼処に散らばった、少年の良く見知った人々の顔が目に飛び込んでくる。彼は、此れらの人々が生前こんなに恐ろしい顔をしていたのを見たことが無い。村人の怨恨と呪詛の念は、惨殺を行った茗人に対して向けられたものなのか、たった一人だけ生き残った少年に対して向けられたものなのか……彼には判断出来なかった。
 突然、其れまで感情を失っていた少年は激しい憤りを感じる。言いようもない憤怒の炎が、身体の奥底から沸き上がって来る感覚。まるで、足元に転がっている村人たちから立ち昇った怨念が、少年に全て吸い寄せられ乗り移ったかのようだ。
 憎い、只、憎い。悲しみよりも苦しみよりも先ず、憎悪。少年の宝物であり続けるはずだった、眩しく光る世界を奪い去り踏み潰した者たちが憎い……赦せない。未だ幼い少年は、そんな黒々とした醜い激情に支配され、あっと言う間に蹂躙された。
 激しい怒りと反響する鬼哭は少年に悲しみを忘れさせ、彼を強くした。忌まわしい記憶が彼の真っ直ぐな魂を歪ませることなく、やがて「自らが誰にも負けない武人と為り、自分と同じく全てを失った聖安人を救いたい」という心へと昇華したことが、唯一の救いである……しかし心底には、茗に報復せねばならぬという強い気持ちが棲み続けているのかもしれない。彼の味わった凄惨な経験を思えば致し方のないことだった。

――此れが、蒼稀蘢の過去である。
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