金色の螺旋

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第四章 紫蘭に捧ぐ

八.まどろみから醒めて
 目を開けると視線の先に、石造の低い天井が在った。微睡の中頭を横に倒すと、何処かで見たことのあるような無いような部屋の中で、自分が寝かされている寝台の隣にもう一つ寝台が在る。調度品は漆塗りで統一され、小窓の側には花瓶に撫子の花が生けてあり、中々趣味が良い。
 横たわっているのは、柔らかい木綿の敷き布団。掛け布団もまた木綿であるらしく、将校と為って何時の間にか慣れてしまった絹の布団には当然及ばないが、此れは此れで、懐かしく寝心地が良い。
 胸のあたりまで下がっていた布団を頭まで被り、彼はもう一度眠りに付こうとする。普段は訓練やら軍議やらで昼夜忙しく、二度寝をする等有り得ないことだ。だが今は、何時もと様子が大きく違っている。身体に力が入らず痺れており、胸に鈍い痛みを感じている上に、酷く気だるく熱っぽい気もする。其れに何より……久方ぶりに会えた『紫蘭の君』。今直ぐ夢境に赴けば、再び逢い見えることが出来るかもしれぬ。
 幸福な余韻に浸りつつ、寝返りを打って目を閉じた時。不幸にも神気に鋭過ぎる彼は、覚えの在る麗らかな力を感じ取ってしまう。
「麗蘭……?」
 呟くなり、背中と腰に力を篭めて飛び起きる。目に掛かって邪魔な前髪を右手で掻き上げると、布団を払い除けて寝台から降りる。
――惚けている場合か!
 蘢は自分に渇を入れると、靴も履かずに裸足で歩き出す。本当は走りたかったのだが、足下が覚束ない程身体が思うようにならぬので仕方ない。戸の前まで来て漸く青竜に斬られて重傷を負ったことを思い出すが、傷口が開こうが何だろうが先ずは、麗蘭たちの無事を確認しなければ気が収まらない。

 戸を開けて部屋を出ると、隣の部屋に人の気配がある……間違いなく麗蘭の気だ。壁伝いに入口まで来ると、戸の取手に手を掛けいきなり開けたくなるところをぐっと堪える。一呼吸置いて、握った手でとんとんと叩いて合図した。
「麗蘭、入るよ?」
 やはり、声も出すだけでも少し苦しい。絞り出した声は自分が思っていたよりも弱々しいものであったが、中に居る麗蘭は気付いてくれたようだ。
「蘢……蘢なのか?」
 がたんという音がして直ぐ、蘢が開ける前に戸が開く。向こう側に現れたのは紛れもない麗蘭の姿で、見たところ酷い怪我などはしていないようだ。
「麗蘭、良かった……!」
 喜び安堵し過ぎたせいか、蘢は我知らず麗蘭の両肩に手を置き、大きく息を吐いていた。麗蘭はそんな彼らしくない行動にやや戸惑いながらも、彼が無事意識を取り戻したことに肩を撫で下ろす。
「……あ、済まない。つい……」
 慌てて麗蘭から手を離し、思わず目を逸らした蘢は、彼女の向こう側に居る優花の姿も見付ける。
「優花も、大丈夫そうで良かったよ。迷惑を掛けたね」
 心配そうに蘢を見ていた優花も、彼と目が合うとほっと息をついて首を振り、微笑む。すると入口に立っている蘢の背後から声が飛んで来た。
「蘢、起きたか」
「……號錘」
 蘢が振り返ると、何やら複雑そうな顔をした號錘が立っている。蘢は暫し見詰め合った後、號錘は麗蘭と優花の方へと目をやった。
「嬢ちゃんたち、蘢が起きたばかりのところ悪いが、飯の支度ができたぞ。玉英を手伝ってやってくれねえか?」
 麗蘭たちが居た部屋奥の子窓からは、赤い夕日が入って来ている。蘢は目覚めてから初めて時刻を意識し、既に夕餉の頃合と為っていることに気付く。
「ああ、分かった」
 頷くと、麗蘭はもう一度蘢を一瞥してから歩き出す。彼女もまた、蘢が目覚めたという喜びと、彼に対して申し訳ないという気持ちが入り交じった悶々とした気分だった。麗蘭に続き優花も、蘢の横を通って室を出て行く。 
 少女二人が居なくなると、蘢と號錘は再び目を合わせて共に部屋へと入る。蘢は寝台、號錘は近くに在った椅子に腰掛けると、號錘が直ぐに口を開いた。
「……で? 一体如何いうことなんだ?」
 腕を組み眉を片方だけ吊り上げ、問い質す號錘。
「麗蘭っていう……あの、物凄い佳人。おまえはあの嬢ちゃんを助けるためにそんな酷い怪我をしたというが、一体何だってそんなことに?」
 蘢は號錘を見たまま目を細め、やがて下を向いて小さく言う。
「……言えない。済まない」
 其の答えをある程度予想していた號錘は、質問を変えた。
「じゃあ、あの嬢ちゃんは誰なんだ? おまえが命懸けで体張ったってことは、偉いお姫さんか何かなのか? お姫さんにしては、武具を持ってるし腕も立ちそうだが」
「其れも言えない。只……」
 顔を上げ、澄んだ蒼い瞳で號錘を見据える。
「此れだけは言える。麗蘭は、身命を賭すに値する人物だ」
 蘢自身、事情を明かせないのは申し訳ないと思っている。だが麗蘭が公主であり神巫女でもあること、蘭麗姫を助けるために敵国へ赴く途中であることは、幾ら號錐であろうと話せない。強大な敵を相手にしている以上、少しでも情報を漏らさぬよう、また何より號錐たちを巻き込まぬよう、出来得る限りの努力をせねばならないのだ。
 そして號錐ならば、また玉英ならば、そんな自分の思いを汲み取ってくれると信じている。只、己が信念に従い命を賭けているならば、心配してくれる彼等も屹度許してくれるであろうと。
 彼の読みは確かに当たっており、號錐自身が思い悩む麗蘭に似たようなことを話している。だがあれはやはり、彼女の手前見栄も入った言葉である。本当は蘢を心から案じ、自分たちには何も打ち明けてくれないことに対する憤りの方が遥かに強い。
 其れでも、蘢が明かさぬと決している以上追及したところで無駄にしかならない。そうと分かっているので、號錐は仕方なく大きな溜め息をついた。
「……しょうがねえな。おまえは頑固だからなぁ」
 そう漏らした號錘は、表情を緩めて白い歯を見せる。そして蘢も微笑み、何処か懐かしそうに室を見回した。
「久々に来たけれど、此処は相変わらずだなあ。『楼』の名に相応しい位大きくするって言ってたのに、未だみたいだね」
「莫迦言え、開業して一年も経ってねぇんだぞ。そんな簡単にいくか」
 笑いながら舌打ちして、指先で蘢の額を軽くつつく。
「あれ、未だ其の位だったっけ? 其れにしては旅籠の主が板に付いているよ。街一番の餓鬼大将が、見違えた」
「おまえこそ、上校に為ったんだって? 都じゃ老若男女に大人気だそうだな」
 硬かった二人の顔が次第に綻んでゆく。主君から託された麗蘭を命懸けで守り抜き、与えられた任務を遂行するため、常に気を張っていた蘢の緊張が解れた一時であった。
「未だ未だ……『未だ上校』だよ。知ってるだろう? 僕は上将軍になりたいんだ。聖安禁軍を大陸一の軍に育て上げ、此の国を茗に……他の何処の国にも侵されないようにする」
――此の国の人々が、僕の大切なあの方が……自由になり、脅えること無く穏やかに暮らせるように。もう二度と、悲しいことが起きないように。
 號錘は、窓の外を見上げている蘢の横顔をじっと見る。軍に入り成功を重ねて出世し続け、自分とは別世界へ入り掛けている蘢も、こうして『夢』を語る時は昔と何も変わらない。蘢という人間を形作る基の部分は、共に過ごした幼い日と同じ、其のものなのだろう。
「……其れで、おまえの『紫蘭の君』とやらにはもう会えたのか?」
 意外な言葉に少し驚いた顔をして、蘢は號錘へと視線を戻す。
「何だ、そんなこと覚えてたのか」
「あたり前だろ、おまえが女の話をするなんてかなり珍しかったからな」
 二年程前久し振りに兒加へ戻って来た時、號錘と二人で一晩飲み明かしたことがあった。どちらも既に相当の酒豪だったが、先に潰れたのは號錘で、自身も微酔していた蘢は油断しつい話過ぎてしまったのだ。號錘は眠り掛けていて蘢が一方的に話しているという状態であったし、忘れているだろうと踏んでいたのだが、何故かちゃんと憶えていたらしい。
 しかし、『紫蘭の君』が誰のことなのか、何処で如何やって出会ったのか等の細かいことは話していないはずだ。姫のことは自分の心だけに留めて、誰にも話さないと昔から決めているのだから。其れにもし、『紫蘭の君』が誰であるか知っているのなら、先程のような質問をするはずが無い。聖安の『第一』公主が未だに敵国で囚われの身であることは庶民ですら、誰しもが知っている。
「……未だだよ。でも、もう直ぐ会える。必ず会ってみせる」
 蘢らしい、自信に満ちた言葉。青竜に大敗し命の危険に瀕して尚、此れだけは譲れない。麗蘭を助けて使命を果たし、『紫蘭の君』を救出する。其のためには何度敗れても立ち上がり、巨大な敵へと向かっていかねばならぬのだ。
「大怪我負ってるってのに、大した自信だなぁ……よし、じゃあ次此処に来る時には、其の女を必ず連れてこい。おまえが其処まで惚れた女なら、是非とも拝んでみてえ」
 席を立ち蘢の横に座った號錘は、肩を組んで言い放つ。蘢は困った顔をして首を横に振った。
「……いやいや、気軽に外へ連れ出せるような御方ではないし、惚れているというのとは……一寸違うんだけどな」
「そんなのは知らん。見たいと言ったら見たいんだ。其の女を愛でながら、また酒を酌み交わそう」
 真顔で無茶を言う號錘に苦笑しながら、『紫蘭の君』の素性を知ったら彼はどれだけ驚くであろうかと想像する。公主を『連れて来い』、などと言ったことを後悔するであろうか? いや、屹度しないに違いない。 
「よし、じゃああの嬢ちゃんたちも待ってるだろうし、飯にするか。玉英にも顔を見せてやれ。あいつもかなり心配してたぞ」
「うん」
 其のまま號錘の肩を借りて、蘢はゆっくりと立ち上がる。
「飯、食えるか?」
「ああ、少しなら」
 言っていることは強気でも、身体には力が入らず儘ならない。青竜が、茗の手の者が何時また襲って来るか分からぬ今、僅かでも栄養を採り、早く治さなければならない。
 笑顔を作り痛みに耐えながら號錘に支えられ、麗蘭たちの待つ居間へと向かって行くのだった。
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