金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

四.剛なる将星
 琅華山を挟んで宿敵、大国茗の隣に位置する白林。どの街よりも国際情勢に敏感な此の街は、現在恐らく、聖安中で最も緊張が高まっている街であろう。
 十数年前の大戦でも、堅固な城壁が幾度も街を守り、茗軍の侵略を免れた。茗と聖安に挟まれ白林の西に聳える魔の琅華山もまた、敵軍を阻む自然の巨壁と為った。
 しかし山を越えずとも、迂回し進軍してきた茗軍に依って何時襲撃されるとも分からない。実際、先の戦では街への侵入は阻止出来たが、国境の防衛線を破られ城塞南方より聖安国内への侵攻を許してしまったのだ。
 麗蘭たちが訪れた時、白林には既に厳重な警戒態勢が敷かれていた。白林軍だけでなく禁軍からも国境守備の大部隊が編成され、城塞や南の防御線に配置されつつある。
 そうした状況の中、街は当然緊迫した空気に包まれており、街からの出入りも厳しく制限されている。蘢が気付いたように、城門付近に民間人が少ないのは其のためであった。

 蘢が持つ上校の階級章で入城した麗蘭たちは、優花を休ませるため一先ず宿を探して入ることにした。旅人は殆ど居ないとはいえ軍人が多く滞在しており、満室の宿が多かったが、以前軍務で数度訪れたことのある蘢のお蔭で、手頃な宿を直ぐに取ることができた。
 街の中央辺りに位置する宿に麗蘭と優花を残し、蘢は独り白林城へと赴く。目的の一つ目は、聖安を出国するに当たり、紫瑤に御座す恵帝に宛てて報告のための文を書くこと。そしてもう一つは、調度白林に訪れている上官、瑛錐公に会うこと。
 聖安禁軍の頂点に立つ上将軍瑛睡は、来るべき大戦に備えて軍備を増強しつつ、帝国領内各地の軍事的要衝を視察しているという。蘢は彼に会い、此れまでの旅の報告をすることに加え、彼から最新の情報を得ようとしていた。
 城壁と同じ鼠色をした煉瓦を積み重ね、三層構造で築かれた白林城は、華美の一切を除いた重厚さで如何にも軍事要塞といった外観を持つ。白林が属する采州の政治や軍事の中心であり、白林総督を兼ねる采州候の居城ともなっている。

 城に入った蘢は、早速瑛睡公への目通りを申し出た。上将軍は直ぐに其れを許し、自分が執務を行う室へと蘢を通させた。広々とした明るい室の奥で、卓に着いて何か書き物をしていた公は、入口に蘢が現れると手を止め、嬉しそうに彼を招き入れた。
「お久し振りです、閣下」
 蘢は慎み深く礼をして丁寧に挨拶する。胸に傷を負っていることを、敢えて隠そうと努めながら。
「待っていたぞ。おまえらしき上校が城門を通ったと聞いたからな」
 手にしている筆を硯の上に置くと、瑛睡は目尻に皺を寄せて笑い掛ける。由緒正しい大貴族の生まれを感じさせる気品と、帝国の大将に足る剛胆さを兼ね備えた壮齢の上将軍は、我が子のように目を掛けている蘢との再会を素直に喜んでいた。
「おまえに伝えたいことがあるのだ。呼ばずともおまえなら、私が居ると知れば自分から来ると思っていた」
 自分の方へと蘢を手招きした瑛睡は、近付いて来る彼を見て僅かに眉を曇らせた。
「……怪我をしたのか? 動きがぎこちない上に、神気が大分落ちている」
「……不覚を取りました」
 苦い笑みを零し、頭を下げる蘢。
「気取られぬよう注意しているようだが、私に見破られるようでは未だ未だ甘いぞ。しかし、命が無事で何より」
 瑛錐は微笑しつつ、黒黒とした口髭を指で撫で付けてから、側に在る椅子に座るよう蘢に向かって合図をする。蘢が席に着くと、自分の身体を椅子ごと彼の方へと向けた。
「見たところ相当な深手だな、誰にやられた?」
「……茗の青竜上将軍です」
 其の名を聞いた途端、瑛錐は僅かに目を見開き険しい顔をしたが、やがて何か納得したように深く頷く。
「……姫君は、麗蘭公主はご無事であろうな?」
「はい、共に此の白林まで。宿屋にてお待ちいただいております」
 其の答えに安堵したのか、瑛錐は息を吐きもう一度頷いてから、顔を上げて蘢を真っ直ぐに見る。蘢は上官の訊かんとする内容を汲み取り、静かに話し続ける。
「公主殿下の……光龍の神気により居場所を探し当てられ、泉栄を出た後に襲われました。殿下の御名前を既に知っており、明らかに、殿下を拐かそうとしておりました」
「……金竜の邪眼を得てからというもの、様々な人外の力を手にしたと言うからな。人一人を探し出すなど容易いことなのかもしれん」
 腕を組み、ますます難しそうに顔を顰めて言う瑛錐。
「閣下は確か、青竜と対峙したことがお有りでしたね?」
「……大戦中に二度、互いに大将として見え戦い結果は一勝一敗。但し、金竜を縛する前……未だ『四神』や『青竜』などと呼ばれる前の話だ」
 以前、蘢が瑛睡や他の誰かから聞いた話によると、青竜が金竜と戦い封じたのは今から十年程前で停戦後のこと。他の三人と併せて『四神』という呼称で呼ばれるようになったのは、其の少し後のことだという。
「其の後戦場ではない所で一度だけ、邪眼を持った奴を見たことがあるが、纏う神気や力の性質が完全に変化しまるで別人のようだった。元より化物染みた強さだったが、金竜を得たことで異なる次元へと足を踏み入れてしまったとでも言うべきか」
 其処まで言うと、瑛睡は溜め息をついて首を傾げる。
「しかし妙だな。此の時期、青竜は国内で軍務に掛りきりだろうに、直々に聖安までやって来ていた……ということは、公主であるかは別として『光龍』が我が国に居られることを知っていたのではないか? 何故、知り得たのだろう?」
 開戦を控え、今の瑛睡のように国内の視察や禁軍の統率で忙殺されている状況は青竜とて同じはずだ。其れにも拘らず、自ら聖安までやって来たということは、余程の理由があってこそ。恐らく「光龍を探せ」という珠帝の命があってこそだと、瑛睡は推測している。
「私も其処が解せないのです。隨加で海賊の残党を殲滅するためだけに遣わされたとは、余り思えない」
 確かに隨加の時は、姿を見られずに短時間で確実に数十人を殺さなければならないという厳しい条件が有った。しかし複数人でもって当たらせれば、態々青竜を使わなくとも為せたはずであろう。光龍を追わせていて、調度近くに居た青竜を下手人に選んだと考える方が自然である。
「公主殿下には都にお隠れいただき、私だけが任務を続けるというのはやはり、難しいでしょうか?」
 あと少しで茗、というところまで来て今更麗蘭に帰れと言うのは、彼女を酷く傷付けることだと分かってはいる。しかし彼女の安全、聖安の未来を考えた時、此のまま旅を続けて良いものか、蘢は不安に為ったのである。
 そもそも瑛錐は、麗蘭を旅立たせることを最後まで反対していた。彼女を行かせる位なら自分が行くとまで言い張り、恵帝にも強く訴えていた。ゆえに蘢は、彼女が光龍であると知られ青竜までもが出てきた今、瑛睡なら屹度旅を中断させる方に賛成すると考えていた。ところが意外にも、彼は首を横に振ったのだった。
「第一公主の麗蘭さまには、いずれ女帝として登極していただかなくてはならない。蘭麗さまではなく、麗蘭さまに。麗蘭さまが一子であられる以上、其れは何が有ろうと守らなければならん」
 聖安の皇家には、古くから続く珍しい慣例が有る。一番始めに生まれた皇子、または皇女が必ず帝位を継ぐというものだ。
 此れは数世紀前、帝位を巡って起きた深刻な内乱を省みて生まれたもので、第一子に身体的・精神的な異常が有る場合を除き、頑なに守られてきた。此の数百年の間殆ど例外無く一子継承であったため、帝に相応しく無い愚王が立つことは有れど、継承権争いは起きたことが無い。
「だが麗蘭さまの場合は事情が違う。今まで大半の臣下や民たちは蘭麗さまこそが一の姫と信じている……其処に、真の一子であられる麗蘭さまが現れれば、如何為る?」
「……麗蘭公主を女帝に押す者と、麗蘭公主が第一子であられるのを認めない、蘭麗公主を押す者とで、二分されるでしょう」
 九年もの間敵国に幽閉されているとはいえ、蘭麗の悲劇的な生い立ちに同情し、彼女を支持する者は多い。麗蘭の存在を知った時、そうした者たちが黙っていないであろうことは想像に難くない。
 本人たちが望まずとも引き起こされる、何としても避けるべき骨肉の争い。其れは至極、簡単に訪れる未来なのだ。
「我が国の平穏を此れ以上乱すこと無く、麗蘭さまを公主として国内外に受け入れさせるためには……やはり其れなりの段階を踏んでいただかなくてはならない」
「蘭麗姫を奪還し、聖安に勝機を齎す。麗蘭公主が真に認められるには、此の難関を突破することが不可欠……でしょう?」
 皇女としての正式な帰還と将来の即位のため、麗蘭を蘢と共に旅立たせることは、今此処で改めて話さずとも元より言われていたことだった。実際、旅立つ前の麗蘭自身にも其の目的は告げている。
 分からない、という顔をしている蘢を見て、瑛睡は続ける。
「麗蘭さまが茗に赴き及ぶ危険と、蘭麗さま救出成功の暁に得られるものとでは割に合わない。おまえは恐らく、そう言いたいのだろう?」
 蘢はやや目を細めて首肯する。詰まるところ、彼の考えは其の通りであった。紫瑤を発つ時とは、既に状況が大きく異なっているのだ。開戦が近付き、麗蘭の名と光龍であることを敵に知られ、強大過ぎる敵青竜に目を付けられ、おまけに麗蘭の助けと為り盾と為るべき蘢は大きな怪我を負った。こうした状態を踏まえると、麗蘭が受け入れられるための手段としては、別の機会とやり方を考えた方が良いのではないかと、蘢は思い始めたのである。
「青竜が接触してきたこと等は知らなかったが、私も同じ考えだった。そしてもう一度、恵帝陛下にお考え直しくださるようお願い申し上げた。ところが陛下は、思いも寄らないことを仰った……麗蘭さまの危険を軽減する秘策が有ると」
「秘策……ですか?」
 頷くと、瑛睡は椅子から立ち上がる。合わせて立とうとする蘢を制止し座らせたままにしておくと、大きな窓の傍へと歩いて行く。
「おまえは『昊天君』を知っているか?」
「……確か、魔国の王子の一人であったかと」
 唐突な問いを訝しがりながらも、蘢は答える。同盟国とはいえ、魔界の者たちと全くと言って良い程接点の無い蘢だが、噂に名高い『昊天君』の名前位は知っていた。何十人と居る魔族の王子の中で、恐らく最も高名なのが彼であろう。
「先代魔王を父君に持ち……『神』を母君に持つそうですね。数年前に今の魔王が即位するまでずっと、次期魔王の最有力候補であったと記憶しています」
 碧空を見上げていた瑛睡は、蘢の方へ振り返って満足そうに笑む。
「『半神』というだけでも此の世に二人と居ない稀有な存在だ。其の上母君は只の『神』ではなく『闘神』……天帝の命で邪神を討伐する戦の神という噂」
 其処までは、蘢も何処かで見聞きして知っている。強大な魔の力と聖なる神力を併せ持つ其の王子は、何を思ってか魔王の座を継がずに魔国を出て、今は人界の諸国を旅して流れているという話だ。
「何でも、恵帝陛下は昊天君とお会いになり……麗蘭さまとおまえの旅に加わるよう依頼されたらしい」
 考えもしなかった瑛錐の発言に、蘢は我知らず目を丸くする。期待通りの反応だったのか、瑛錐は何処か楽しげに笑む。
 此の英雄は、戦場や公の場では人界随一の将星と呼ばれるに相応の厳しさや激しさ、生粋の貴族らしい矜恃を見せているが、其の内奥には生来の親しみ易さが確かに在る。其れが、何万の部下や聖安の民たちから絶大な人気を勝ち得ている所以であろう。
「私に御用が有ったというのは、其のことでしょうか?」
「そうだ。聖安を出る前に合流出来るよう、伝えておかねばと思ってな」
 蘢は驚きを隠せない。だがもし其の話が本当なら、手放しで喜べる。神々に比肩する力を持つという魔の王子が味方に付いてくれるのなら、此の上無い戦力と為るに相違無い。
 しかし、思慮深い蘢には一つ気に掛かる点が有った。
「……昊天君が我々に助力くださるのは何故なのでしょうか? 恵帝陛下が此度の旅について明かされたということは、魔国との同盟以上に……彼の王子とは特別な縁が有るのでしょうか?」
 察しの良い蘢に何時もながら感心しつつ、瑛錐は少し首を傾げて答える。
「王子は未だ幼子であられた頃、幾度か紫瑤に来られていたし、私自身、皇宮にいらせられたのをお見掛けしたことが有る。蘭麗さまとも面識が有るのではないか?」
 瑛睡の尤もらしい答えに、蘢は複雑な心情を隠しつつも納得した面持ちを見せる。自分の知らぬ蘭麗姫の一面を知っているかもしれない、という高貴な青年の存在は、「焦り」とは行かぬまでも、彼に幾らか悔しい思いをさせたのだろう。
 二人は其の後も暫くの間、話し込んでいた。瑛睡は蘢に聖安国内の状況や恵帝の様子、茗に潜ませた諜者からの情報などを伝えた。中には茗の上層部が最近の珠帝の言動に少なからず動揺していること、消えた玄武が未だ行方知れずであり、遺体が焼かれるのを青竜が見たなどという噂が広がっていることなども含まれていた。
「あの玄武を負かすとは、おまえも強くなったな」
「……恐れ入ります」
 まるで我が子を褒めるかのように嬉々とする瑛睡に、はにかむ蘢。他の誰に称賛されようともやはり、彼が褒められて最も嬉しくなるのは此の瑛睡なのだ。
「しかし……本当に強敵でした。私の挑発に乗って隙を見せるまでは、勢いは彼の方に有りました」
 謙遜ではなく、蘢は本気でそう思っている。だが相手の感情を動かし勝ちを得る方法が、殺し合いの中では当然のように用いられる技術であるということも、勿論心得ている。
「やはり、若い頃からの性は変わらんか。彼奴はおまえ位の歳の頃から短気な若者だった」
 昔、若き玄武と剣を合わせた将軍は深く息を吐き、何処か懐かしそうに言う。軍学校時代に蘢が耳にした噂に依ると、玄武は大戦の頃卓越した剣の腕で不敗を誇っていたが、戦場で瑛睡に挑み猪突猛進して敗れたという。
「其れでも敵ながら、才気に溢れた勇ましい男だった。こんな幕引きとは、惜しい気もするな」
 海賊に肩入れし敵国の若い将校に討伐され、生死は別として長年仕えた珠帝からは存在を抹殺されるなど、本人にとっては余程無念だろう。
「確証が有る訳ではないのですが、私には何故か……未だ彼が生きている気がしてならないのです」
 蘢は俯く。自分の口からそんな言葉が出てきたことを、些か不思議に思いながら。
「……奴が如何なっているかも気になるところではあるが、やはり今は、青竜だな」
 再び椅子に坐した瑛睡に、蘢が躊躇いがちに尋ねる。
「麗蘭公主を狙っている以上確実に、青竜は再度接触して来るでしょう。我々は……また防ぎ切ることが出来るのでしょうか?」
 麗蘭や優花を含め、他の者の前では極力押し隠している危懼も、瑛睡の前では見せられる。素晴らしい上官であると同時に、彼の中で今や父親の如き存在と為った瑛睡は、何時でも的確な助言を与えてくれる。
「正直なところ、難しい。奴は既に人智を超えている……私が戦ったとしても、金竜の力で一溜りもないだろう」
 大将軍の発言は、見栄や自尊心とは無縁な、清廉な士の言葉其のもの。 
「おまえも奴の力を目の当たりにし分かったと思うが、人が人の領域を超えた者と渡り合うのは、実に難しいことなのだ。人外の者に対抗出来るのは、殆どの場合で同じ人外の者のみ。我々は分を弁えるべきところを見定めねばならない」
 一国の将軍の言葉にしてはやや弱気であると取られかねない発言が、蘢の心には自然と落ちて来る。長年戦いに身を置き、其の中で人ならざる者と幾度か対峙した経験の有る瑛睡の言だからこそ、説得力が有る。
「青竜に対し、今の所我々に有る対抗策は二つ。光龍であられる麗蘭さまが開光し、前世で金竜を封じた時のようなお力を得ること。そして、神に並ぶと言われる昊天君のお力を借りることだ」
「公主か……魔の王子かのどちらかが、青竜を斃し得るということですね」
 自分では青竜を破ることは出来ない……軍人として、剣士として、一人の男として、負け嫌いな蘢としては受け入れたくない事実。されど瑛睡の言う通り、身の程を知り自分の為すべきことを正しく見極めることこそが、最終的な勝利へと繋がる足掛かりと為る。蘢は将軍のお陰で若くして、其れをきちんと知り得ている。
 頬を緩めると、瑛睡はふと外を見やる。既に空は朱に染まり始めており、何時の間に長く話し過ぎてしまったことに気付く。
「さあ、もう行け。姫が待っておられるだろう。本来なら此の白林城にお越しいただきたいところだが、城主である采州候にも姫のことは隠さねばならぬからな……致し方ない」
「承知しました」
 言われるままに立とうとした時、蘢は重要なことを思い出して問うた。
「ところで、魔国の王子は今どちらに居られるのですか?」
 先を急ぐ旅ゆえに、せめて白林近辺まで来てくれていることが望ましいと思っていると、瑛睡の答えは期待以上であった。
「王子は既に此の街に居られる。明日にでもお探ししろ。城の者には事情を伏せて、此方にお招きしたのだが断られてしまったのだ。旅籠に泊まって街を見たいから……と」
 貴い生まれでありながら市井が見たいなどと、数年人界を旅して回っているだけあって、普通の貴人とは感覚が異なるらしい。王子がどんな人物なのか、蘢はますます気になった。
「畏まりました。其れでは、此れにて」
 瑛睡に頭を下げてから背を向けようとすると、不意に呼び止められる。
「待て……最後に、訊いておきたいことが有る」
 蘢が振り返ると、将軍は一際真剣な顔つきで彼を見詰めている。
「公主麗蘭さまは、如何な御方か? おまえの率直な意見を聞かせてくれ。私も紫瑤で一度お会いしたが、長く共に旅をしているおまえの口から聞きたいのだ」
 漠然とした質問に対してどのような答えが求められているのか、蘢は一瞬だけ戸惑う。しかし結局、心に浮かんだままの返答をすることに決めた。
「何事にも真摯で直向きで、其れでいて勇敢な御方です。常に御自分の宿と向き合っておられます。時折冷や冷やさせられますが……周囲の者に力に為りたいと思わせる人柄の良さも、素晴らしい」
 はっきりと言い切る蘢に、瑛睡はほう、と嘆息する。
「此の上ない賛辞だな、おまえにしては珍しい。其れ程あの姫が気に入ったか」
「……気に入ったというよりも、尊敬に値する、という方が近いでしょうか。大変礼を失する言い方になりましょうが……」
 蘢は言いながら、胸に深い傷を負った時のことを思い出していた。青竜を己自身が斃すべき敵と見なして他者の手助けを良しとせず、独りで立ち向かって行った麗蘭は、見方に依っては無謀で愚かしいと言えるかもしれぬ。だが蘢は、あの時の彼女の行いを勇気有るものとして受け止めている。他の少女ならば、他の人間ならば、果たしてあの場で同じ行動を選択できたであろうか? と。
 望んだ以上の答えを得られた瑛睡は、目を細めて笑みを漏らした。
「では、其の思いを持ち続けて……麗蘭さまをしっかりと支えるのだ。戦は私に任せておけ。優秀な副官が居ないのは痛手だが、私は私の役割を果たす」
「……承知」
 力強く頷いて、蘢は再び敬礼する。程無くして彼が室を後にすると、瑛睡は暫しの間何かを考えていたが、やがて墨の乾いた筆を手に取り自分の執務に戻る。
 薄暮が迫る時分、窓の外からは柔らかな光が差し込み、室内を優しく照らしていた。瑛睡が向かう黄花梨の大机には、大量の書類や巻物が山積されている。
――夜明けまでに終わらせたいが。
 将軍は苦笑いして、重い筆を走らせ始めた。
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