金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

五.不可解な焦燥
 蘭麗姫が幽閉されている恭月塔の内部を、最下層から最上層まで一本で繋ぐ三波石の螺旋階段。気が遠くなる程長い階段を、一人で上がってゆく男の姿があった。
 一体何故だろうか? 長年歩き慣れたはずの此の石段は、上る度に長くなる気がする。そしてそう感じる度にまた少しずつ、姫君が遠ざかってゆくかのように思えてならぬ。
 茗の四神の一人であり、御史部の長、大御史を務める白虎は、約数週間振りに此処を訪れている。蘭麗姫の監視を命じられてから早八年以上経つが、此れ程間を空けて姫に会いにゆくのは滅多に無い。
 だが聖安との再戦を控えた今は、此方へ来るのが疎かになるのも致し方の無いこと。かつて属していた禁軍から女帝直属の監察機関である御史部に移った今、大軍を統率するということは無いが、日夜国内外の監視の任に追われている。敵情だけでなく混乱に乗じて動こうとする国内の不穏分子を潰す任務などを担い、多忙を極める日々を送っている。
 夜闇に薄月が昇った頃漸く時間を見つけ、久方振りに恭月塔にやって来た白虎は、塔内に入るなり大きな違和感を覚えた。此処のところ皇宮内で感じている不審な気と同じものを、僅かではあるが確かに感知したのだ。
『黒の気に注意せよ。利洛城に入り込み、浸さんとしている人ならざる者の気だ』
 聖安から戻った青竜が言っていた。詳しいことは聞かなかったが、あの言葉から分かることは一つ。あの青竜ですら、其の奇怪な『黒の力』を排除できていないということだ。そうした類の妖異が現れれば真っ先に、自ら取り除きに行くあの、青竜が。
 白虎は胸騒ぎを感じて、歩速を上げて姫君の許へ急ぐ。蘭麗が、月白の姫君が得体の知れぬ力の餌食に為るなど許し得ない。
……青竜が珠帝や茗を守っているように、あの姫を護ってきたのは他でもない、白虎である。
 姫を奪い返しに来た聖安の剣士を数えきれぬ程、塔の下で殺した。姫の聖なる神気に惹かれて塔へやって来た妖もまた、嫌という程殺した。何も考えずに遂行する『任務』としてではなく、明らかな憎悪と殺意を込めて。姫君本人には其のことを知らせていない。聖安の者が自分を助けにやって来ている等という希望を持たせることになるし、特段敢えて知らせる必要は無い……其れだけの理由だ。
……屹度、姫君は知らぬだろう。白虎という男がどれ程自分に執着しているか。
 白虎自身も姫に伝える気は無いし、伝えたいとも思わない。高い高い塔に囚われた哀れなる姫君と、彼女を護りながらも籠の中から逃さない自分……此の関係が、何故か彼にとっては不思議と具合が良い。只ずっと永久に、此のままでいるべきなのだ。否、此のままでいさせてみせる。
 恋とか、愛とか、決してそんなものではない。彼自身はそう強く意識している。只単に、自分と姫の関係を壊されるのが堪らなく不快なだけ。あの姫君を自分が占有したいという、浅ましい独占欲であって、其れ以上の感情は無いのだと。
 蘭麗の室に近付くにつれ、僅かずつではあるが存在感を増してゆく怪異の気配。
――急がねば。
 沸き上がる嫌な予感が彼を逸らせる。なかなか辿り着かない苛立ちに、自然と怒りが込み上げてくる。
『研ぎ澄まされた刃のようだった神気が、随分と丸くなったな……鬼が腑抜けたか。聖安の姫君は其れ程佳い女なのか?』
 姿を消した玄武と最後に会った時、そんな言葉を浴びせられ鼻で笑われたことを覚えている。酷く腹が立ったが、完全には否定出来ない自分に気付いた。童の頃から互いを見知っている彼の言うことなのだから、神気の質が変わったというのは本当であろう。
 凍て付いた氷刃の如く、冷徹で残忍な男……其れこそが、白虎と呼ばれる紫暗という男だったはずだ。血の通わぬ冷たさやしたたかさゆえに珠帝の信頼を受け、大御史という地位を得ている……今の彼のように、女のために焦ったり気が急いたりすること等、以前はまるで無かったというのに。
 そんな自分自身に疑念を抱きながらも、彼は急ぐ。そして石段を上り始めてから一度も立ち止まること無く、呼吸を少しでも乱すこと無く、やっと最上階に辿り着いた。
「久しぶりね、紫暗」
 御簾の向こうから聴こえ来るのは、透き通った姫君の声。紫暗の良く聴き知っている清らかなる音色は、以前と何ら変わりない。
「長らくお会いしていなかったわね。貴方もお忙しいのでしょうね」
 何時も通り、紫暗は姫が如何様な表情をしているのか想像する。無垢な愛らしい貌にほんの少しだけ大人びた雰囲気を纏わせ、敵である自分に真意を悟られぬよう繕っているに違いない。
 会う時は何時でも御簾越しなので、蘭麗は恐らく紫暗の顔を知らぬだろう。一方で紫暗は姫の容貌を見たことが有る。但し、彼女が未だ此処に囚われて間もない頃の話だ。ゆえに彼が描くのは、あの遠い記憶に基づく幼い少女の顔貌が主となっている。
『聖安の姫君は其れ程佳い女なのか?』
――其のようなこと、知るはずもなかろう。
 どうやら玄武は、紫暗が姫の美しさが放つ毒気に当てられたとでも勘違いしているようだった。紫暗に有るのは何年も前の記憶……其れも幼子の姿の記憶。
 そんなものから想像を膨らませて情欲を抱く程、自分は妄想家ではない。色情を抱き得ぬ女に、如何やって溺れろというのだ?
 女という存在の価値は、己の欲望を満たしてくれる点のみに有ると信じて疑わぬ紫暗にとっては、そうした思考に及ぶ流れは至極自然であった。
「お久しゅうございます。お変わりはございませんか?」
 片膝をついて跪き、抑揚の無い声で問い掛けながら、視線だけを動かして部屋を見回す。
「……ええ、特には。そろそろまた、読む書が尽きて来たくらいかしら」
「では、何時も通りご用意いたします」
 読書好きである蘭麗姫の書を揃えるのは、いつしか紫暗の役目と為っている。彼自身がかなりの読書家であり、しばしば姫の好みそうな書を選んで下女に持って来させていた。
「お願いね。何か心が躍るような、冒険譚が好いわ」
「畏まりました」
 会話を続けつつ、紫暗は室内の様子に不審を抱いている。塔に入って螺旋の石階を上り切るまで感じていたあの黒い気が、此の室に入ってから忽然と消え失せたのだ。
 意図的に、此の室内だけ気を消して……姫君に気取られぬようにしているのだろうか? 気配に敏感な姫が、何の反応も示していない。尤も、気付いていたとしても、敵である紫暗にわざわざ其れを伝えてくるかどうかは分からぬが。
「姫君、付かぬことをお尋ねしますが」
 正しい答えを得られるか否かは別にして、彼は一先ず、問うてみることにした。
「近頃此の室に、人ならざる者の来訪はございませんでしたか」
 蘭麗が其の質問に答えるまで、ほんの数瞬だけ間が有った。
「さあ……特に、気付かなかったけれど。貴方は何か感じたのかしら?」
 何も知らぬという口振り。しかし、紫暗は知っている。此の年若い姫は、あの珠帝をも感心させる程聡く、自分の感情や思考を隠すことに長けているのだと。
「……いえ、姫君が気付かれぬのなら、私の思い違いでしょう」
 知らぬというのなら、本当に心当たりが無いか言う気が無いのかのどちらかであろう。後者であれば聞き出そうとしても、まず話そうとはしまい。
「書物は二、三日中にお届けいたします。今宵は、これにて」
 何の気も感じられぬとなれば、長居は無用。紫暗には他にも仕事が山程有り、何時までも此処に留まってはいられない。短く挨拶をして立ち上がり退室しようとする。
「紫暗」
「……は」
 呼び止められ振り返ると、出し抜けに問われる。
「戦が近いのかしら?」
 不意打ちではあったが、紫暗は間を置き過ぎず平然として答える。
「私には分かりませぬ」
 下手に何かを答えるよりも、絶妙な調子でそう答えておくのが一番差支えない。珠帝の臣下である彼が分からぬはずがないのだから、答える気は無いと示すことが出来るのだ。
 何か気付いたのだろうかと、表情に出さず怪しむ紫暗。答え其のものを期待するのではなく、相手の反応を見定めようとする戦術としての質問と見て間違いはないと、判断したのだ。
 蘭麗が此処に幽されてからというもの、珠帝が「姫の耳に入れるべきでない」と見なした情報については一切姫に伝えぬよう、徹底されている。姫の世話をする女官を数日毎に交代させて親しくなることを避け、必要な時以外は会話するのも禁じられている。渡す書の全てを紫暗が選定している理由もまた、其処に有る。
 だが賢く鋭い彼女のことだ、何の手掛かりが無くとも、勘付くことも有るかもしれぬ。
「……そう。深い意味は無いのよ。只何となしに思っただけなの」
 言葉通り、彼女の口振りから深い意図は見えない。頭の良い彼女の行動を逐一勘繰ってしまうが、案外本当に、何気無く訊いただけなのかもしれない。
「……失礼いたします」
 深々と頭を下げてから、紫暗は今度こそ退出する。室の外に出ると奇怪なことに、例の気配が跡形も無くなっていた。
――此処まで綺麗に消失しているとは、ますます妙だ。
 結局、探れたことは殆ど無い。だが確かに言えるのは、異様な力を放つ人ならざる者は自在に気を操り、紫暗から己が存在を隠そうとしていたということ。しかも、潜むなら完全に潜めば良いものを、中途半端に存在だけ現しているかのように見えるのだ。
 当初最も恐れていたように、あの気が姫君に害を及ぼしているようには見えなかった。少なくとも……今は未だ。少し前に珠帝に揺さ振りを掛けられて精神的に応えているかと思ったが、物ともせず気丈に振る舞っている。纏う神気にも翳りは認められなかった。
――何とか時間を作り、見に来るしか無いか。
 彼はそう決めて、酷薄そうな顔にやや自嘲気味な笑みを浮かべる……何も姫君を案じているわけではない。自分の手中に在るものが、得体の知れぬ何かによって掠め取られるという状況を何としても避けたいだけなのだと、心中で繰り返しながら。
「塔内で何か少しでも不審な物を見たら、直ぐに報告しろ」
 室の外に居た女官や兵に強く命じてから、紫暗は再びあの長い階段を下りてゆく。胸奧に抱いた言葉に表せられない疑懼の念を、拭いきれぬまま。
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