金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

六.失意の底で
 紫暗が去って独りと為った室の中、椅子に座っていた蘭麗はすっと立ち上がる。簾を上げてつい先程まで紫暗が居た場所を見やると、小さく息を吐く。
「何かお分かりになられましたか?」
 何処からか聴こえて来た声に、蘭麗ははっとさせられる。声がした背後を振り向くと、蘭麗の椅子にあの人ならざる少年が座していた。
 意表を突かれて驚きを隠し得ない蘭麗を、頬杖を付き何食わぬ顔で見詰めている少年。黒く大きな瞳で見上げられ、彼女は思わずどきりとさせられてしまう。相手は子供といえどやはり、人を超えし者。幼い面貌に漂う妖艶さに言葉を失い、否が応でも釘付けにされてしまうのだ。
「貴方は何時も突然現れるのね。公主の御簾の中へ無断で立ち入るなんて、私がこんな状態でなければ大変な目に遭っているところよ」
「……お許しを。貴女さまの驚かれたお顔をどうしても拝見したくて」
 少年と見えるのは此れで四度目。彼は一応、蘭麗に対して丁寧な言葉を使っているのだが、言動の所々から皇女への礼節を持っていないことが窺える。そもそも人ではないのだから、相手が皇帝の娘とはいえ人の子に礼を尽くす必要を感じていないのかもしれない。
「あの鋭そうな男から、何かしら情報を得ようとしておられたのでしょう? 如何でしたか?」
 僅かに小首を傾けながら、態とらしく微笑する少年。一体何時から紫暗と自分の会話を盗み見ていたのか、蘭麗には見当も付かない。
「……少なくとも、貴方と彼とは関係が無いということは分かったわ」
 紫暗の方から人ならざる者について尋ねてきたのだ。其の可能性は高いと、蘭麗は踏んでいる。少年は大きく頷くと、更に問い掛ける。
「では、前回僕がお教えしたことについては?」
――戦が近い。茗は再び聖安に攻め入り、破壊の限りを尽くす。今度は本当に……聖安を滅ぼすつもりで容赦無く。
 蘭麗は答えることが出来ない。不意を狙ったつもりがやはり紫暗は手強く、何も引き出せなかった。
「彼では、相手が悪うございましたね。なかなか頭が切れそうで良く勘付く」
 幼い孺子にしては不遜な物言いに聴こえるが、何故か傲慢さは感じられない。其処が、此の少年の不思議な所だ。
「ねえ、気高い姫君。僕は貴女に嘘を吐いてはおりませぬ。確かに時折……事実でないことを言って愉しむことも有るけれど、貴女のように高潔な御方には、敬意を表して真実のみを告げるのです」
「だから、貴方を信じろと言うのかしら」
 姫君の表情に深い猜疑を見ると、少年は悲しそうに目を伏せる。そんな様子を見せられると、蘭麗は自分が悪いことをしたような気になってしまう。
「姫は、疑り深過ぎていらっしゃる。長く敵の真ん中で……お独りで過ごされてきた所為か、何処か素直でないところがお有りだ」
 内心で蘭麗はぎくりとする。其の言葉通りで、彼女は自分の心が年々捻くれてゆくのを感じ、恐れているのだ。
「まあ、ご不安になられる必要も有りますまい。生きてゆくために如何様にも変わる……其れが人の子というもの」
 つい先程の、悲しみの表情は何処へやったのか……少年は明るい笑みをのぞかせる。其の屈託ない笑顔を見て、蘭麗は自分の心内を見透かされたのに気付き、初めて此の童を恐ろしいと感じた。
 立ち尽くす蘭麗から目を離さずに、少年は右手を伸ばしてゆっくりと上げてゆく。調度姫の顔辺りまで上げるとぴたりと止めて、再び口を開く。
「では……見せて差し上げよう。貴女が今御覧になりたいと思われている、現実を」
 蘭麗が聞き返す間も与えずに、其れまで何の気配も力も示さなかった少年の周囲を、黒い気が取り巻き始める。妖のものではない、何かもっと高位に属する気……妖のものよりずっと澄み切った、純粋なる闇の気である。
 彼女は以前にも、その気配を感じたことが有った。だが何時、何処であったかは思い出せない。そう遠くない過去であることは間違いないのだが、思い出そうとすると、頭に(もや)が掛かって思考が進まないのだ。
 黒き力が蘭麗に触れた時突として、彼女の視界が変貌した。目に見える物全てが霧に覆われぼやけていき、自分の視力を奪われてしまったのかという錯覚に陥る。
 然程間を空けることなく濃霧が晴れ始めると、また徐々に周りが見えるようになる。蘭麗が立って居たのは驚くべきことに、離れて九年経った今でも目に焼き付いているあの場所だった。




 祖国聖安の燈凰宮が正殿、陽彩楼。其の中に在る女帝が重臣と謁見を行う大広間、翔龍の間は、金箔の壁画に囲まれ眩い光を煌めかせる最も格式高い室である。
 畳の床に並んで跪き、叩頭して女帝に忠誠を誓う数十人の臣下たちの後ろに、蘭麗は立っていた。
――此処は……あの懐かしい陽彩楼……?
 我が目を疑い何度も瞬きを繰り返しながら、彼女は正面を見る。
――夢でも幻でも何でも……もし本当に、翔龍の間ならば、あの御簾の向こうには……!
 臣たちの向こう側に位置する、金の簾で隔てられた一段高くなった間には女帝が御座しているはずだ。蘭麗が会いたいと焦がれ続ける、あの慈しみ深く優しい母が。
 目を凝らして、離れている御簾のあちら側を見る。朧げに映るのは、身分の高そうな女性らしき者の人影。
――間違いない。母上だわ……!
 蘭麗は確信する。姿がはっきりせずとも、其の清らかなる透き通った神気は明らかに恵帝のものだ。
 自分は此処に居る、聖安の公主は無事に戻った。そう伝えるために口を開け声を上げようとする。群臣たちは、そして母は、驚くに違いない。仮初の協定が崩れ、珠帝が攻め入ってくるかもしれぬ。だが、今の蘭麗にそうしたことを考える余裕はなかった。只、母に会いたい。聖安の公主として国に戻りたいという、幼く真っ直ぐな望みだけを掻き抱くばかり。
――ああ、声が出ない。
 此れは何の悪戯なのだろう、何の悪夢なのだろうと、哀れな蘭麗は絶望する。何かが彼女の声を奪っているようで、少しも音を出すことが出来ないのだ。
「戦の再開に備えて、魔国の戒王陛下に援軍を申し入れるべきかと。今こそ、其の時なのです」
 諸臣の内の誰かが頭を垂れたままで述べる。彼がもう二言、三言付け加えた後に、静かに聴いていた女帝が只一言だけ、玉音を発する。
「……許す」
 口を閉ざされたまま聴いているしかない蘭麗は、薄れ掛けた記憶を呼び起こす。聖安と魔界はずっと以前から同盟関係にあり、有事の際には軍を出し、相互に助け合う盟約を結んでいる。先の戦では魔国の側も内戦状態に有り、実質機能しなかった同盟であるが、十年近く経った今では事情が異なっているのだろう。
――魔国に援軍を要請する……ということは。
 盟約といえど、人と魔族の交わすもの。人間同士の物のような普通の協力関係ではない。人界と魔界は互いに不可侵であるという一般的な慣習が有るため、特に戦で援助を頼むのは余程の場合のみである。属国の反乱鎮圧や、小国との小競り合いなどでは兵力を求めないのが暗黙の了解なのだ。 
――大国との戦が、やはり茗との戦が……!
「長年掛け秘密裏に準備してきた(そう)国や祥岐(しょうき)国との連合も、天下に知らしめる時期かと。恵帝陛下を筆頭に、他二国の王と連名で公表なさいませ。敵への威嚇にもなりましょう」
 また別の重臣が進言すると、しんと静まり返った広間に女帝の穏やかでいて力強い声が響き渡る。
「許す。丞相よ、直ちに布告の準備をしてください」
「御意にございます」
――あれは、翠峡(すいきょう)……! 懐かしいわ。丞相に為られたのね。
 幼い頃、時折自分の遊び相手になってくれた忠臣を見付け、蘭麗の帰りたいという気持ちは更に高まりゆく。
「やはり……茗との戦が始まるようですね」
 不意に、背後から囁くような声が聴こえる。蘭麗が驚き振り向くも誰も居らず、白い畳の床が続くだけ。
――確かにあの少年の声が聴こえたはずなのに……!
 彼は今、姿を現さぬつもりらしい。蘭麗と同じ場面を見ながら、彼女の直ぐ後ろでささめいているようだ。 
「ふふ、姫君……彼方に御座す女帝陛下は、貴女さまのお命と聖安の命運の、何方を選ばれるでしょうね?」
 姫が何を問われているのか分からずに黙していると、彼は更に続けた。
「国を守るために民や臣下を騙し、娘を敵に渡す……あの美しい御方は将に、王の中の王だ。近い未来、『国のために蘭麗姫のお命を犠牲に』という嘆願に、屹度『許す』とお答えになるでしょうね」
「何を言って……」
 言い掛けて、即座に否定できぬ自分に気付く。少年の言葉にまるで雷に打たれたかのような衝撃が走り、全身を駆け巡って震えを起こし始める。
 彼の言う通りかもしれない。自分は、人柱なのだ。聖安を、そして姉を守るため供された生贄。いつ何時傷付けられ、殺されるとも分からぬ、あの恐ろしい珠帝に差し出された供物。もしかすると、此の先もずっと……永久に。
「……たとえ母上が其のような選択をされたとしても、私は受け入れる。国を統べる者の娘として当然の運命。其れが、私の宿なのでしょう」
 自分を奮い立たせて放った言葉には、抑え切れない恐怖が有り有りと現れている。当然、黒の少年が其れを見逃すことはない。
「蘭麗姫、お可哀想な貴女の……震えるお手を握ってやれる者さえ、居ない。貴女はこんなにも誇り高くお優しく、可愛らしい御方だというのに」
――心が痛い、くずおれてしまいそう。
 涙が出そうに為るのを懸命に堪え、唇を強く噛む。泣いてはいけない……落涙して、此れ以上弱さを見せるわけにはいかない。自分の心だけでも、皇女であり続けなければならぬのだ。
 蘭麗の姿は誰にも見えていないのか、粛々と続く御前会議。彼女のことなど、気にも留めない。少年の力で自分の姿が皆に見えていないとは分かっているが、たとえ見えていたとしても見ぬ振りをされるのではないかと、何故だか疑ってしまう。
「貴方は、一体何をしたいの? 私を揺さ振って追い詰めても、得られるものなど無いでしょうに」
 彼女らしくない強い語気で、直ぐ傍に居るであろう少年に問う。返答は無く、蘭麗は自分が人ならざる少年の術中に嵌ってしまったということに気付く。『彼ら』は往々にして、人間を惑わしたり絶望させたりして愉しみ、其の弱く移ろい易い心を糧にするのだ。
 込み上げてくる悲しみに打ち勝とうと、両の手足に無理矢理力を篭める。だが、どうにも上手くいかない。急に得体の知れぬ虚無感に襲われ、全身の力が抜け始めた。
――ああ、母上。あと少しなのに……あと少しで辿り着けるのに。
 幾ら叫ぼうとしても声を出せず、自ら駆け寄ることも儘ならぬ。希望を失った時、(たが)が外れたように涙が溢れ出して蘭麗の視界を塞ぐ。
 思わず目を閉じ、再びゆっくりと開けてゆくと、彼女は元の牢獄へと戻っていた。九年の間見慣れた室の中で呆然とし、重苦しい現実へ帰って来るのに少しの時間を要した。
 涙を指で拭い、感覚を研ぎ澄ませて辺りを見回す。少年の黒い気と力は、何時の間にか霧散していた。
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