金色の螺旋

前に戻る目次次へ

第五章 天海の鵬翼

八.誰が為の戦い
「本当にごめん、先を急ぐのに足引っ張っちゃって……」
 寝台に腰掛けた優花は済まなそうに言って、自分の手の甲を額に当てた。疲労感にぐったりとして、見るからに具合が悪そうだ。麗蘭と蘢の前ではずっと我慢していたようだが、宿に着くと一気に疲れが出たらしい。
「そんなことは無い。蘢も瑛睡公に用が有るし、他にも色々準備も有る。こう為らずとも、今日直ぐに出発ということにはならなかっただろう」
 茶を運んできた麗蘭は、寝台の傍に在る椅子に腰掛け、優花に湯呑を手渡す。
「無理をさせて……済まない。私も蘢も、おまえの優しい言葉に甘えてしまったな」
 俯く麗蘭に、優花は慌てて首を横に振る。
「どうしても一緒に行きたいって言ったのは私だし。麗蘭たちの所為じゃないよ」
――だってもしかしたら、本当に此れが最後になるかもしれない。茗から戻ったら、麗蘭は本当に……皇女さまになるんだもの。
 一度目は彼女の出自を風友から聞いた時。そして二度目は、泉栄で再会し紀佑の家で一晩過ごした時。もう何度も、優花は覚悟している。自分と麗蘭が此れ切り会えなくなるのではないかということを。
 麗蘭が光龍だと知った時から、優花は事有るごとに彼女の身を案じている。光龍というのは、美と力を与えられた幸運な少女ではない。常に命の危険と隣合わせに生きる、重い宿を背負った存在なのだ。
 物語や神話に出てくる光龍は、妖や邪神から人々を守る宿を持ち天命を下されている。最も有名なのは『奈雷』という千五百年前の巫女で、天界と人界を行き来し、金竜を含む数々の害悪を討ち滅ぼした。しかし最後は、天に反旗を翻した黒神に挑んで命を奪われたと伝えらえている。
 二年前に妖王と会って以来ずっと、優花は其のことについて深く考え続けている。人ならざる者と戦わなければならない麗蘭は、いつか『奈雷』のように……命を落としてしまうのではないかと。
「ねえ……麗蘭。本当に茗に行くの……?」
「え?」
 今更、優花が何故そんなことを聞くのか麗蘭には分からなかった。優花の方も、こんなことを言うべきではないと分かってはいても、此れが最後の機会と思うと言わずにはいられない。
 光龍だというだけで既に、人よりも危ない目に遭わなければならないのに、その上敵地へ入るなど……麗蘭ばかりが重荷を背負う理由が、一体何処に在るというのか。今の優花の心境は、憂慮と僅かな怒り、淋しさや悲しみが混じる複雑なものだった。
 麗蘭は茶を一口飲んで息を吐くと、少し困った顔をして言う。
「私が不甲斐ないから、心配してくれているのだな? 私が……茗で死ぬかもしれないと」
 しまったと、優花は後悔する。そんなつもりで言ったのではないのだ。戦い続ける宿を持つ麗蘭を案じているのは確かだが、彼女は親友が強いことを誰よりも知っている。ゆえに、今回も必ず成し遂げると信じている。
「違うの。私は何も、あんたが行くこともないと思ったの。私には分からない事情が有るんだろうけど……」
 其の言葉に表された優花の真意を読もうと努めつつ、麗蘭は首を傾げる。
「優花、紀佑さんの家で話したことを憶えているか? 此の旅は公主としての宿を果たすためのものだが、言ってしまえば、私自身のための旅だと」
 優花は頷く。深いところまで完全に解せたわけではないが少なくとも、麗蘭がいつも通り、自分なりに考え込んでいることは分かった。
「此の人には無い力を、国の為に役立てたいと……昔から思い続けてきた。私が禁軍に入りたがっていたことは知っているだろう?」
「……うん」
 停戦しているとはいえ、激動の時世……例えば蘢のように、聖安には愛国心の強い若者がたくさんいる。麗蘭も其の一人で、阿宋山に居た頃は妖討伐を進んで引き受け、頻繁に彼方此方へ赴いていた。
「自分の出自を知り、蘭麗姫を助ける任務について告げられた時……私は天に感謝した。光龍である以外は何も無い、私のような只の娘が、皇女を救い国を救う一助に為れるかもしれなのだと、心が躍った」
 其の時のことを思い出し微笑する麗蘭を見て、優花も硬い表情を綻ばす。
――光龍であるだけで十分、只の娘なんかじゃないと思うんだけどな……麗蘭らしい。
「そして……其の後何度か、顔を見たことすら無い蘭麗姫が、夢に現れた。夢の中で会う度に、罪悪感めいたものが大きく為っていった……もし私が珠帝の人質となり囚われていたならば、姫は今頃……母上の許に居られたのに」
 優花は此の発言に衝撃を受けた。麗蘭が蘭麗姫に対してそんな思いを抱いているなどとは、露程にも知らなかったからである。
「幾度も幾度も、心の中で謝り続けている。だが当然許してはもらえぬだろう。私が風友さまやおまえと暮らしていた間、姫君は敵の真ん中でたった一人……どれ程心細い思いをしていたのかと思うと、何も知らなかった自分が恐ろしくなる」
 机に湯呑を置くと、麗蘭は優花から目を逸らす。客観的に見れば蘭麗姫のことは決して麗蘭の所為ではない。麗蘭自身、己が生まれを知らされずにいたのだから。しかしそうしたことをあれこれ深く考えて、全て自分の所為だと思ってしまうのが、麗蘭という少女なのだ。
「だからせめて……私が姫を救い出す。茗に赴くことで命が脅かされ、光龍としての宿が果たせなくなろうとも、そうしなければ私自身の気が済まない。以前『自分自身のために旅を続ける』と言ったのは、くだらない自己満足と、自分を安心させるためという酷く勝手なもの、という意味だ」
「……麗蘭」
 剣を持ち戦っている時の麗蘭は力強くて勇ましく、圧倒的に美しい。優花は友人としてそんな麗蘭を誇らしいと感じる反面、やはり自分とは遠く離れた高みに居るのだと……思い知らされる。ところがこうして、優花に気持ちを打ち明けている今の麗蘭は、本当に彼女の言う『只の少女』に見える。優花と同じ、悩み苦しむごく普通の少女に。
 もし、麗蘭が自分と同様『只の少女』であるのなら、掛けてやるべき言葉は自然と浮かんでくる。優花が欲しい言葉を、麗蘭にも掛けてやれば良いのだから。
「私ね、あんたは何時も……光龍や公主の宿について考えているから、ひょっとすると強い義務感みたいなもので動いているんじゃないかって、心配してたんだ。でも、あんたが本当に自分の意思で茗に行くんだってことが、やっと分かったよ」
 伏せられた麗蘭の目を覗き込むと、彼女はほんの少しだけ恥ずかしそうな顔をしている。優花は何時にも増して、親友のことが大切に思えてきた。
 直に別れなければならないのは本当に辛い。麗蘭の想いを聞いても、茗に行って欲しくないという気持ちには変わりない。だが優花は出来る限りの満面の笑みを作り、麗蘭に自分の気持ちを伝えようと口を開き掛ける。
……優花が言葉を発しようとする、調度其の時。窓の外から途轍も無く大きな雷鼓が轟めいた。
「きゃっ!」
 余りの大音響に驚いて、優花が身を竦ませる。麗蘭は窓の方へと走って行き身を乗り出して、外を見た。
「雲一つ無い……なのに何故、雷が?」
 間を空けずに何度も何度も、雷光と雷鳴が繰り返される。日が暮れ始めてはいるが雨が降る気配は無く、雷雲も無いというのに。
「麗蘭、此の音……近いよ。近くで雷が落ちてるんだよ」
「……確かに、そうだな」
――自然の雷でないのなら、誰かが起こしているとしか考えられぬ。
 麗蘭は瞑目し、怪しげな気が無いか集中して探る。すると直ぐに、此れと分かるものを感じた。
――何だ? 此の気は……
 手繰り寄せてゆくと、麗蘭は思わず目を見開いた。自分の顔から血の気が引き始め、体が震え出すのをはっきりと感じる。
「どうしたの? 麗蘭」
 背後から見て麗蘭の様子がおかしいと思った優花は、立ち上がって重い体を引き摺りながら窓辺へと歩く。麗蘭の手を握ると、彼女の体温が驚く程下がっていることに気付く。
「麗蘭? 大丈夫?」
「あ……ああ優花」
 頷いてみるものの、とても『大丈夫』ではなかった。麗蘭が探り当てた気は、金竜の邪気と同じく彼女の魂と身体が全力で拒絶反応を示す……黒神の気であったのだから。
――何故此処に、黒神の気が?
 彼女が此の気を感じ取ったのは過去に三回だけ。最初は未だ幼子の頃、阿宋山に黒神自身が現れた時。次は其れから数年後、黒神の神巫女瑠璃が孤児として孤校にやって来た時。そして最後は……正体を現した瑠璃が、麗蘭を殺そうとした時。
――黒神か瑠璃のどちらかが近くに……?
 光龍の宿を負う以上、いずれ必ず対決せねばならない巨悪。こんなに早く、再び対峙することになるのだろうか。
 暫く経つと落雷は止んだが、代わりに怯えきった人々の声が耳に入ってくる。
「おい! 西門が城壁諸共崩れたそうだぞ!」
「西だって!? 山の方角じゃないか!」
 半ば狂乱した声を聞きつけ、麗蘭たちは今居る二階の部屋から外を見下ろす。外出を控えていたはずの人々が次々に戸外に出て、騒ぎ始めているようだ。
「城壁が壊れたって……まずいんじゃない?」
 西の城壁と言えば、琅華山の妖から街を守り続けている貴重な防御壁だ。其れが壊れたとなれば街は混乱に陥り、妖の侵入を許す可能性も有る。
「優花、済まぬが此処で待っていてくれないか? 様子を見て来る」
 そう言いながら、机上に置いた武具を身に付ける麗蘭。優花は反射的に自分も行くと言い掛けるが思い止まり、出掛けた言葉を呑み込んだ。
「……分かった。此の騒ぎじゃあ、蘢も戻って来るかもしれないし、待ってるね」
 つい先程、麗蘭に言い掛けて伝えられなかった言葉。其の言葉を心中で繰り返しながら、自分は待っていよう。そして麗蘭が帰って来たら、茗へ送り出す前に必ず伝えよう。優花はそう決心して、麗蘭を笑顔で見送った。
「気のせいかな? 夕焼が……何時もより赤い気がする」
 独り残された部屋の中で、窓から正面に見えるのは偶然にも西方……赤く焼けた空と琅華山。麗蘭のように只ならぬ邪神の気を感じた訳ではないが、胸騒ぎを覚えて身震いした。
前に戻る目次次へ
Copyright (c) 2012 ami All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system