金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

九.血の惨禍

 東門と西門を結び、街の中を横断して真っ直ぐに通っている白鶯大路。宿を出た麗蘭は西門に向け、此の大通りを全速力で走っていた。
 西側から逃げて来る人々と擦れ違い、泣き叫ぶ女性や子供の側を通り過ぎ、重たい鎧を着込んで西へと急ぐ兵士たちを追い抜いて行く。東へ逃げるため次々と家から飛び出して来る人々も後を絶たず、白林一の大路は大混乱に陥っている。
 古来より妖の脅威と共に生きてきた街の人々は、西の城壁崩壊に直ぐ様大きな反応を示した。彼等が妖に対し優位性を保っていられるのは、あの鉄壁に因るところが大きいと、大人から子供まで皆良く知っているからである。
 ところが其の西の城壁が崩されるとは、誰も予期していなかった。山を背にしているため敵軍が攻めて来ることはなく、選り抜きの対妖軍や結界で固めていることもあり安心し切っていたのだ。それゆえか、避難を誘導する軍の動きが悪く、統制が取れていないように見受けられる。
 人と人の間を上手く通り抜けながら、然程息を乱さず軽やかに駆けて行く麗蘭。街の最西へと近付くにつれ、黒の神気と妖気がより大きくなってゆくのを感じ取っている。
――神気は一つ。しかし、妖気は複数……簡単には数え切れぬ程だ。
 麗蘭は予感する。妖が街へ侵入するという、予想し得る最悪の事態が起きたことを。後少しで西門が見えてくるという辺りに差し掛かった時、其の予感は確信へと変わった。
「妖だ! 山から妖が来たぞおおお!」
 狂ったように叫びながら逃げて来る人々や、担がれ運ばれて来る血塗れの……ぐったりとして少しも動かない人々が見え始める。
――急がねば……!
 傷付いた人々を置いて先を行くのは気が進まないが、今自分が急がなければ更に犠牲が増えるのは必至。麗蘭は只前だけを見据え、立ち止まらずに走り続ける。

 漸く西門に……いや、西門が在ったと思われる場所の手前までやって来た時、麗蘭が未だかつて見たことの無い惨状が広がっていた。
 城壁や城楼、西門、そして民家などの建物は崩れ去り、瓦礫の山と化していた。やや強い風に吹き上げられた砂埃と共に、酷く嫌な……生臭い臭いが漂う。妖に食まれた者たちの死体や血が噴き出す強烈な臭いだ。
 建物が無くなり視界が開けているため、彼方此方で妖たちが人々を襲っている光景が見渡せる。若者と老人の別も、生者と死者の別も問わない。目に付いた人間に飛び掛かり、見境なく食欲を満たしている。
 常人の三倍程の背丈で、牛頭と人の四肢を持つ妖哭錆が、必死に逃げ回る男性を捕らえて首を圧し折る。頭、手足をもぎ取り大きな口へと放り込むと、噛み砕いて食い荒らしていた。
 全身が暗紅色で尾が八つある紅狐(こうこ)は、好物とする若い女性を其の尾で絡め取り、喉笛を切り裂いて溢れ出る血液を吸出し、飲み乾している。痙攣していた女の身体が干からび、動かなくなると投げ捨て、次の獲物を探しに行く。
 残骸の隙間からは、煉瓦の下敷きとなった者の死体らしき腕や足が飛び出ており、巨大な鳥の形をした落鳥(らくちょう)という妖が其れを引き摺り出し、咀嚼している。
 余りの光景に、麗蘭は思わず鼻と口を覆って目を逸らしてしまう。妖に人が喰われる場面を見るのは初めてではないが、慣れているというわけでもない。鼻が曲がる異臭や人の身体が引き千切られる凄惨さに吐気が込み上げてくる。
 何とか耐えると再び顔を上げ、弓をしっかり握って矢を番える。狙うは化蛇(かだ)という妖……麗蘭と同じ歳くらいの少女を、一部だけ残った家の壁際に追い詰め、鋭い牙で今にも噛み付こうとしている有翼の大蛇だ。
 呪を唱えて神力を矢先に篭め、怪物の後頭部目掛けて放つ。白い光を纏わせた破妖の矢が一直線に飛んで行き、狙い通りに人の頭程の大きさがある的を貫き一矢だけで射ち倒した。
「大丈夫か?」
 少女に駆け寄り身を屈め、声を掛けるが返答は無い。只麗蘭を見上げ、両手で頭を抑えて身を震わせている。余程恐ろしかったのであろうか、顔は涙で崩れ、時折発する不可思議な声はすっかり掠れていた。
 自分の足では立ち上がれず、逃げられそうも無い。しかし此のままにしておけば再び襲われるのは目に見えている。麗蘭は少女に向け手を翳し、長めの呪を早口で唱える。柔らかく優しい白光が少女を取り巻き、守るようにして完全に覆う。
「暫くは妖を避けられる」
 少女の周りに結界を張り終えたところに、別の化け物が背後より躍り掛かって来る。麗蘭は振り向きざまに剣を抜き、斜めに下ろされる鋭い指爪を弾いた。
 体は犬に似ており、豹と同じ模様を持つ(こう)という妖。阿宋山の奥でも見かける、本来なら人に害を為さぬ種族である。
 不気味な獣から目を逸らさず剣の切っ先を真っ直ぐに向けたままで、少女から離れた位置に移動してゆく。すると獣の方も麗蘭から視線を外せず、黒い血に塗れた口から忌々しそうに唸り声を上げた。
――おかしい。此れは狡だ。普通なら人間を喰わぬ理性的な妖であるはずなのに、何故人を襲う?
 血が滴る尖った牙を剥き出しにし、敵意に満ちた眼で麗蘭を睨んでいる。彼女の神気に警戒する様子を見せないこともまた、珍しい。
 前足を上げた姿勢で哮り立ち、辺りに大きな地鳴りを起こすと、妖は再び麗蘭に突進して来る。対する麗蘭は剣の腹に指を当てて呪を唱え、素早く神気を篭めると、自分の顔の前にしっかりと立てて構える。
 片足を一歩下げた状態で大地を踏みしめ、狡を迎え撃つ。狡は少し離れたところまで来ると跳躍し、麗蘭に向かって勢い良く飛び付いて来る。構えた剣を大きく後ろに引き、時を見計らって一気に振り抜く。怪物の上体に刃を喰い込ませて躊躇うことなく両断すると、返り血を浴びないよう即座に走り出し、血が迸り出ることのない場所へと移動した。
「此れは……黒神の気か?」
 狡を斬った時、其の身体に宿り染み渡った邪神の黒い力を、麗蘭は確かに感じ取った。
「妖共の様子がおかしいのは……まさか」
 麗蘭は漸く気付き始める。邪悪なる黒神の力が妖たちを侵食して理性を破壊し、狂わせていることを。狡の他にも、普段は大人しいとされている妖までもが牙や爪を血で濡らし、狂暴化しているところを見ると、そう考えてほぼ間違いはないだろう。
「何と……惨いことを」
――しかし今は、狩るしかなかろう。
 神気を浴びせたために、一滴の血や肉片も付いていない剣を再び鞘に納めて腰に差す。弓矢を取ると矢筈を弦に掛け、麗蘭の姿を見付けて走って来る別の狡へと放つ。眉間を射ち抜かれた狡が横に倒れるのを確認すると、息を吐いて再び周囲を見回した。
 城門付近を守っていた討伐士と思しき、数人の剣士たちも、それぞれが奮戦している。どの者も強者と見受けられるが、敵の数が多すぎる。更に妖たちは、邪神の力の影響下にあるためか、妖力を引き出されて格段に強くなっている。神力が保たず力尽きて、喰われてしまっている神人も出て来ていた。
 人間を……特に神人を喰らえば妖力も増す。既に幾人も喰っている妖は、普通の神人兵では太刀打ち出来ない程までに妖気を膨れ上がらせている。
 そうした妖たちも、神巫女の神力を以てすれば一矢で斃すことが出来る。麗蘭は無闇やたらに射掛けるのではなく、妖気のより強い妖を狙い撃ち、次々と貫き倒していった。

 暫くすると、先程麗蘭が追い越した白林軍の兵たちが大挙して到着した。物凄まじい残虐な現場に皆、言葉を失い、膝を付いて嘔吐してしまう者までいる。
「第一隊は残っている人々を逃がせ! 第ニ隊は神人の援護をしろ!」
 指揮官らしき無骨な男が、手で鼻を覆いながらも何とか声を張り上げ、部下に指示を飛ばす。しかし早くも震え上がっている兵たちは、妖たちの恐ろしい形相に慄然として剣を抜くことすら出来ない。何人かの勇敢な若者だけが意を決し、妖の元へと走って行くのみであった。
「止せ! 神人でなくば奴らの相手は無理だ!」
 彼らに気付いた麗蘭が、出せる限りの大声で叫ぶ。妖気を撥ね除ける十分な神気を持たぬ只人では、余程の使い手でなければ妖と戦うことなど出来ない。妖の持つ穢れの強さに依っては、吐息に含まれる毒気だけで死に至らしめられてしまう。
 麗蘭の忠告に反応し身を引く者もいたが、其れでも数人は構わず突き進んでゆく。神人でないのにも拘わらず妖に挑むだけあって、其れなりに腕に自信が有るのだろう。確かに剣の扱い方などから判断すると、人間同士の戦いにおいてだけならば、かなりの腕前の持ち主と評される力量だ。
「うおおおおおお!」
 一人の若い兵が、子供の骨をしゃぶっていた哭錆に向けて剣を振り上げ、肩口に斬撃を落とす。刃は狙った通りの位置に食い込んだが、化け物の身体は人間の力では斬れぬ程に固く、攻撃の効力は皆無に近い。哭錆のような強靱な肉体を持つ妖に対しては、麗蘭がやっているように剣に術をかけて妖の苦手な神力を移し、斬れ易くしてから戦うしかない。
 哭錆は兵に向かって眼を細め、薄気味の悪い顔を作る。人間の表情で言えば優越感に浸った笑みといったところだろうか。
 若者は慌てて剣を引こうとするが、刃が妖の肉にめり込んでおり、如何やっても抜けない。完全に妖の間合いへと入ってしまった若者は、顔を蒼白にして死を覚悟した。
「身を屈めろ! 奴の血を肌に浴びるな!」
 青年は麗蘭の声に反応し、言われた通り剣から手を放して頭を低くする……窮地に立たされた彼を救ったのは、彼女が射た神速の矢。若者の真上を通り越すと哭錆の右眼を射抜き、牛の頭の右半分を吹き飛ばすと、瓦礫の山の奥へと消えてゆく。
 人を喰って肥大した妖気と、黒い神の力に浸食され濁り切った妖の血が、兵の丸めた背中に降り掛かる。此の邪悪な血は、浄化の力を持たぬ只人が身体に直に浴びれば猛毒となり、澄み切った強い神気の持ち主である麗蘭にとっても命取りになる。どちらでもない普通の神人でも、暫くの間動けなくなる位には為るだろう。
「立てますか?」
 弓を手にしたまま、蹲っている兵の側へと走って来る麗蘭。彼は恐る恐る顔を上げ、顔面が潰れた状態で仰向けに倒れている哭錆と、思わず見入ってしまう程美しい彼女を順に見た後、幾度も首を縦に振った。
「ああ、立てる。忝い」
 若者に手を差し伸べようとした瞬間、麗蘭は突然背後を振り返り、目にも留まらぬ速さで剣を抜く。彼女の背を貫こうと射られた矢を、すんでのところで弾き落とし、飛んで来た方向を凝視する。
――確かに此方からだったと思うのだが……
 矢を放ったのは誰か見定めようとするも、怪しい者は誰も居ない。地面に落ちた矢を拾い上げるため膝を折り、手で触れようとした其の時、麗蘭は気付く……自分を狙った矢が、黒神の力を纏っていることを。
「瑠璃……か?」
 四年前、風友の孤校にやって来た黒龍の神巫女瑠璃。麗蘭と同等……或いは麗蘭以上の弓の名手である彼女ならば、神気を矢に移して射てば、遠く離れた場所からでも標的にあてることが出来るかもしれぬ。
――また、私を殺そうとしたのか?
 目を瞑り、剣を握る手に力を篭める。未だ幼かったあの日、姉のように慕っていた瑠璃に裏切られた胸の痛みが甦る。初めてできた友であり、心から尊敬していた彼女に、ぞっとする程冷たい瞳で「殺す」と言い放たれたあの苦しみは、四年前から少しも和らぐことはない。
「……余所見をしていると、また不意打ちを喰らうぞ」
 後ろから出し抜けに声を掛けられた麗蘭は、見返ると同時に剣を振り上げ、瞬く間に声の主へと剣先を突きつける。
「……誰……だ?」
 其の姿を見た途端、麗蘭は数度瞬きして息を呑んだ。剣が示す先に、信じ難い程美しい青年が微動だにせず立っていたのだ。
 人目を引く明るい金糸の髪は、風が通り抜ける度微かに揺れ、神々しくも温かな光彩を放つ。清澄な海青の瞳に加え、形良い鼻や口など全ての部分が理想的に配置され、精悍かつ高雅なる奇跡の美貌を造り出している。
 体躯はというと、細身でも華奢でもなく、かと言って筋骨隆々でもない。肩幅のある長身に均整の取れた身体は、鍛えられ緊まっているのが良く分かる。
 容貌の美醜に無頓着な麗蘭でも、此の青年のことは「美しい」と感じた。光輝く……大げさな表現ではなく、将にそう形容するのが相応しい。
 圧倒的な、光芒。或いは、天海から舞い降りた金の大鵬。恐るべき惨禍の中彼が放つ、天より注がれた光の如き彩だけが輝きを纏っている。
 いつしか麗蘭が助けた兵の姿もなくなっており、彼女と青年が二人で見詰めあう状態となっている。其のまま暫し経つと麗蘭は我に返り、彼が帯びている気を探る。敵なのか、其れとも味方なのか、見極めねば剣は下ろせない。
 ところが幾ら感じ取ろうとしても、青年からは強さも力の質も何ら読めない。彼の手にしている一振りの刀に目を落としてみると、妖のものと思しき妖気を孕む、多量の赤黒い血で濡れている。
 青年は麗蘭の視線に気付いたのか、刀を持つ右手を小さく振ってみせながら口を開く。
「此れが気になるか? 分かると思うが、妖の血だ。結構斬ったはずだから、もう然程残っていないだろうよ」
 麗蘭は其の言葉で漸く、妖の数が短時間でかなり減っていることに気付く。警戒心を解かぬまま、麗蘭は剣を持つ手をゆっくりと下げた。
「そなたは……何者だ? 気が全く読めない。巧みに隠しているのだろう?」
 怪訝な顔で尋ねる麗蘭。青年は不思議そうな目をするが、やがて何かに気付いたようで、口端を少し上げて微笑する。
「そうか、綺麗に隠し過ぎるのもいけないんだな。加減が良く分からん」
 今度は強めに刀を振るい、こびり付いた血を払う青年。麗蘭と同じく刀身に神気を纏わせているらしく、一度振っただけで完全に弾け飛び、白刃は元の輝きを取り戻す。
 刀慣れした手付きで納刀すると麗蘭の方へ歩き出し、彼女の横を通り過ぎた所で立ち止まる。首だけ捻って見返ると、やはり楽しげな笑みを浮かべている。
「俺は、伸魁斗。一先ず此処から離れよう。瘴気だらけで息が詰まりそうだからな」
「しかし……」
 まだ妖たちが、と言い掛けて、止める。魁斗が指差した東の方向を見やると、数十人規模の神人軍たちが到着していたのだ。遠くで姿は見えないが、蘢らしき人物の神気も混ざっている。
「此処まで減れば、あとは神巫女殿でなくても奴らが何とかするだろうさ。動きが遅いとはいえ、白林の神人兵だ」
 さり気なく彼の口に乗せられた『神巫女』という言葉に、麗蘭は反応せざるを得ない。戦い始めてから隠神術を用いていなかったため、神気が筒抜けになっていたとはいえ、神気だけではっきり気付く者はそう居ないであろう。
「おまえの身にも毒だろう、神巫女殿。いや……皇女殿下と呼んだ方が良いか?」
 目を見開いて驚く麗蘭の反応に、魁斗は面白がる様子も悪びれる気配も見せない。相手が皇族だと分かっている割には、物言いに気を付けているようにも見えない。
――本当に、一体何者なのだ……?
 彫の深い完璧な顔貌は、聖安人のものとも茗人のものとも造りを異にする。出で立ちは華やかでもなければ逆に質素でもなく、至って普通の袴姿。身形から身分を推測することは出来そうにない。
 公主であることも知られているとなれば尚更、正体を突き止めねばならない。だが其のこと以上に、麗蘭は彼自身のことをもっと知りたいと思い始めている。
 理由は二つ。気は感じ取れなくても、全く隙のない所作や剣の扱い方から相当の腕前であることが明白で、剣士として心惹かれる人物だということ。そしてもう一つは、魁斗という人物に興味を覚えたことにあった。
 ほんの少し言葉を交わした程度で、彼の人となりが分かったというわけではない。麗蘭自身にもはっきりと説明出来ないが、彼には何処か、気になる部分が有る。強いて言おうとするならば、自分を飾り立てようとしない態度や物言い……だろうか。
「……私は清麗蘭だ」
 自ら名乗った彼女に、魁斗は少しだけ意外そうな顔をする。
「敵か味方か分からん奴に、簡単に名を教えて良いのか?」
「そなたなら、何となく良い気がしただけだ」
 慎重な性格を自覚している麗蘭自身、そんな自分の発言に驚いている。魁斗は少なくとも敵ではない……完全な直感だが、何故か確信に近いものが有る。
 そうこうしている内に、遅れて到着した軍が残りの妖を討伐するために散って行く。此方の方向に向かって来る者も数人おり、其の中には蘢の姿もあった。
「蘢!」
 麗蘭の姿を見出した蘢が駆け寄って来る。其の様子は怪我を負っているとは思えぬ程、普段通りのもの。
「遅くなって済まない。城を出る時あの雷鳴を聴いて宿に行ったら、優花が君は此処に向かったと言っていたから……」
 彼女の無事を確認すると、視線を隣の魁斗へ移す。蘢の顔から察するに、やはり魁斗のことは知らぬようだ。
「上校の階級章……もしかして、おまえが公主の供をしているっていう噂の天才上校か?」
 蘢は僅かな時間、魁斗を見たまま沈思していたが、直ぐに思い当たる節を見付けたようだった。
「……もしや、貴君は『昊天君』では?」
――昊天君?
 其れは、麗蘭が初めて聞く呼称。問われた魁斗は自分の頭を軽く掻くと、小さく息を吐いて頷いた。
「まあ、そうも呼ばれてる。本名は伸魁斗だが」
 答えを聞き終わる前に、蘢は其の場で片膝を付いて首を垂れる。
「失礼いたしました。私は蒼稀蘢、仰せの通り聖安の上校を務めております」
 恭しい蘢の振る舞いは、以前紫瑤で恵帝に拝謁した時見せたものと同じ。麗蘭は、『昊天君』という者がかなり高い身分であることを悟ることが出来た。
「立ってくれ。俺はもう自分の国とは切れているつもりだし、おまえみたいに立派な英雄に頭を下げてもらう程の男じゃあない」
「……とんでもございません。しかし、そう仰るのなら」
 謙遜しているのではなく、本当に決まり悪そうに言う魁斗を見て、蘢は立ち上がる。
「蘢、此の方は一体……?」
 貴人だと分かったからには、とりあえず「方」と言っておく方が無難だろうと思い、麗蘭は戸惑いつつ其のような尋ね方をした。
「……此の方は現魔王陛下の弟君にして、闘神の血を引く『半神』であらせられる」
「何……?」
 麗蘭は瞠目する。そして、昔風友から聞いたことを思い出す。数十人もの魔界の王子の中で、神を母に持つ者がたった一人だけ居る。『神』と『魔族』の血を引いているというだけで稀有だというのに、『闘神』と『魔王』の息子など殆ど奇跡に近い。恐らく、長い歴史の中で初めて現れた存在ではないか……と、師は言っていた。
「我々の任務にご助力下さるよう、恵帝陛下が依頼されたと、瑛睡上将軍からお聞きしました」
 魁斗の手前だからか、蘢は麗蘭に対しても敬語を使っている。だがそんなことも気にならぬ程、麗蘭は大きな衝撃を受けていた。
――半神の王子が、私たちの旅に加わるというのか……?
「……其の話は後でゆっくりしよう。一先ず今は、此処を離れたい。悪いがおまえ達の宿に案内してくれるか? 俺が泊まっているところは、酷く狭いんだ」
 王子ともあろう者が、『狭い宿』に滞在している等考えにくい状況だと思ったが、麗蘭も首肯して賛成した。
「そうしよう。残してきた優花も心配だからな……蘢、構わないか?」
「もちろんです」
 死の臭いと弱りゆく妖気から逃れるように、麗蘭は蘢、そして魁斗と共に戻って行く。新しい出会いが齎す旅の行方を、そして妖との戦いの最中仄見えた瑠璃の存在を、確かに感じながら。
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