金色の螺旋

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第六章 妖霧立つ森

三.訣別の痛み
 身体が……酷くだるい。力が入らない。何か、冷たい物の上に横に為っているような気がするが、『気がする』だけだ。
 生きているのか、其れとも既に死んでしまったのか……そんな判断さえつかない。此処が何処で、何時なのか、分かるはずが無い。
――私は、何をしていたのだ……?
 麗蘭は、自分の途切れた記憶を懸命に呼び起こそうとしている。何と戦っていたのか、何故意識が飛んでいたのか、さっぱり分からない。
「麗蘭、麗蘭!」
 頭の上の方で、誰かが自分のことを何度も呼んでいる。聴き覚えの有る声だ……自分よりも大人びていて、凛とした少女の声。
「麗蘭、大丈夫? しっかりして!」
 自分を心配して、気遣ってくれる優しい声。こんな心地良い声を忘れる等、在り得ない。思い出せ、思い出せと、麗蘭は目を開けぬまま幾度も強く念じる。
「麗蘭!」
 漸く、麗蘭はぱちっと目を開ける。彼女を呼ぶ少女が声を上げつつ、肩を揺さ振ったのだ。
「……瑠璃か」
 瑠璃……風友の孤校で学んでいる、麗蘭と同じ孤児の少女。艶やかな黒髪を一つに束ねた、誰よりも優美な容貌の……麗蘭にとって初めての友人。
「瑠璃、私は如何して気を失っていたのだろうか……」
 深く息を吐き、麗蘭は瑠璃の手を借りて緩々と身体を起こす。瑠璃は数瞬驚いた表情を見せるが、直ぐにまた優しく笑んで、麗蘭の髪をそっと撫でた。
「私たちは麝鳥の群れに襲われて、何とか二人で逃げて来た。麗蘭が私を庇ってくれて、神力で消し飛ばしてくれたんだ」
 そう……言われてみれば、確かそうだった。二人で弓の稽古をしていた際大きな妖気を感じ、麗蘭が独りで走り出した。瑠璃は孤校の風友に知らせに行ってから、麗蘭が戦っている森に駆けつけて……加勢してくれた。
「麝鳥共は?」
「もう居ないよ。麗蘭が斃してくれた」
 にっこりと笑む瑠璃は、何時もと何も変わらない。特異な力故に友達が一人も居なかった麗蘭を受け入れ、どんな時でも味方でいてくれる。自分よりも遥かに大人で、美しくて優しい……大切な友人だ。
「……瑠璃、肩を怪我しているのか?」
 ふと、瑠璃の左腕から血が滲んでいることに気付く。麝鳥の爪でやられたのか、大きな切傷が走っている。
「手当てせねば……」
「ごめんね、ありがとう」
 麗蘭は瑠璃の着物の肩を落とし、自分の右手を傷口に触れるか触れないかの位置に持ってゆく。呪を唱えると、眩しい光が瑠璃と麗蘭を包み、みるみるうちに傷が塞がってゆく。
……そう、修行中に怪我をすると、何時もこうしてお互いの傷を治癒し合っていた。二人の力の属性は共に白。同じであるが故に、反発し合うことなく術を掛け合うことが出来た……気がする。
 傷を閉じた後、麗蘭は自分で持っていた手拭で、瑠璃の腕に付いた血を綺麗に拭いてやる。元通り、白く肌理細やかな瑠璃の左肩が露わに為る。
――瑠璃の左肩には……何か印が無かっただろうか?
 自分でも何故だか分からぬが、そんなおかしな考えが麗蘭の頭を擡げる。
――何か……何かが在ったのではなかったか? 自分と瑠璃の関係を一変させてしまうような……何かが。
 今、目の前にしている瑠璃の美しい肩には、何も無い。何も無いのだから、こんな考えが浮かぶこと自体が奇妙なのだが、如何にも引っ掛かる。
「麗蘭?」
 左肩を見詰めたまま動かない麗蘭を、瑠璃は不思議そうな顔で見やる。
「いや……何でもない」
 言ってはみたものの、何か言いたそうなところは顔に出てしまっている。麗蘭は元来、自分にも他人にも正直な人間なのだ。
「じゃあ、行こうか。風友さまが心配なさっているに違い無いよ」
 瑠璃と同時に、麗蘭も立ち上がる。足元が覚束無くて、よろめきそうに為った所を瑠璃が腕で支える。
「無理しないで、ゆっくりね」
「あ……ああ」
 眩い程に輝く、瑠璃の笑顔。彼女と出会って未だ数か月しか経っていないが、本当に何時も助けられてばかりで、麗蘭は嬉しくも……少しだけ歯痒い。
 先刻麝鳥を蹴散らしたのは瑠璃ではなく麗蘭だという話だったが、何だか信じ難い。武術に秀でているのも瑠璃で、神術も瑠璃の方が一段上だったはずだ。
 好意に加えて憧れと、羨望。瑠璃に抱くのは何時もそうした感情のみだったように思う。
――いや……何か他に……私が瑠璃に対して抱いている心情は、他にも有ったのではないか。
 目覚めてからというもの、如何して疑念が次々に出て来るのだろう。倒れて頭でも打ち、記憶が曖昧に為っているのだろうか。
 手を瑠璃に引かれて、孤校の方へと歩き出す。阿宋山の森は穏やかで、麝鳥の大群が現れ戦ったこと等夢のように感じられる。
 麗蘭の歩調に合わせて進む瑠璃は、暫く何の言葉も発しない。後ろをぴたりと付いて行く麗蘭も無言のままだ。次第に重く為ってゆく空気の流れを変えるため、何かしら話そうと口を開くが、先に声を発したのは瑠璃だった。
「麗蘭……私に言いたいことが有るのでしょう? 隠さず教えてくれない?」
 唐突な質問に呑まれ、麗蘭は答えを失う。思わず、何のことだか分からない振りをしてしまう。
「言いたいこと……?」
 すると、瑠璃が突然足を止める。麗蘭の右手を握る手に力を篭め、先程までとは異なる声音で言い放つ。
「分かってるのよ、貴女が私のことを本当は如何思っているのか……妬ましく思っているんじゃなくて? 貴女の態度からは時々そう見えるけれど」
「何を言って……」
 背後に居る麗蘭の方を向くこと無く、彼女のものとは思えぬ言葉を浴びせかける。
「妬……ましく……私が、瑠璃を……?」
 繰り返し言ってみると、胸の奥に閊えていたものの正体が分かった気がする。瑠璃の言う通り……麗蘭は彼女と共に過ごすうちに、徐々に嫉妬を覚えるようになったのだ。
 自分と同等、或いは自分以上の才能や神力を授かりながら、周りの人間と溶け込めずずっと独りだった自分とは異なり、孤校の子供たちに好かれた瑠璃。自分よりもずっと強く美しく、決して道を間違えない、高潔な瑠璃。
 唯一自分を認めてくれる風友も、直に自分から離れ……瑠璃だけを見るようになってしまうのではないか。天帝の神巫女であるはずの自分が、そうではない瑠璃に全てにおいて負けている等、在って良いはずが無いのではないか。
 焦燥……そして、憤り。浅ましいと思いながらも、麗蘭は醜い感情を抱くことを止められない。
「私は……おまえを……妬んでいる」
 言わされた訳でもないのに、麗蘭は心の内をするすると漏らしてしまう。漸く此方を向いた瑠璃は、魅惑的な美貌を満足げに歪ませて、麗蘭が見たことの無いような笑顔を見せた。
「やっと素直に為ってくれたのね……じゃあ、もう一つ答えてくれる?」
 人の心等見透かしてしまうであろう、澄んだ紫水晶の瞳は麗蘭の双眸を捕らえて離さない。
「私の左腕には……何が有る?」
 言ってはいけない、言うべきではない。口に出してしまえば、待ち受ける未来は目に見えている。互いが其の身に、其の魂に背負った宿ゆえに従わなければならない運命は、決まり切っている。
「……其れは……」
 此の時の麗蘭にはもう、分かっている。瑠璃の腕に刻まれたものは何で、其の印が何を意味しているのかを。
「おまえが何故答えを躊躇うのか……私には分からぬ。此の左肩に刻まれた御印こそが、私自身を示す証だというのに」
 身も心も冷え切った、つい今し方までの瑠璃とは別人のような声。此れこそが本当の瑠璃であり、自分と自分の主である天帝と永遠に敵対する、非天の巫女。黒神の命有らば、孤校の子供たちを脅かすことさえ厭わない、冷酷な女。
「おまえの其れとて、同じであろう? 其れこそがおまえの正体であり、存在する意義でもある。私たちは美しき龍神に支配される、巫女という名の傀儡なのだ……」
 麗蘭の左肩を指差し、言い切る瑠璃。美しい顔からは笑みが消え失せ、なんの感情も読み取れない。心を巧みに押し隠しているのか、元より心自体を持っていないのか……分からない。
――そう、私は、神巫女。
 紛れもない、変えようの無い事実。其の事実のために麗蘭は戦い、苦しみ、葛藤して生きて来たのだ。
――瑠璃には、『闇龍』の証が刻まれている。
 声に出さぬまま、認める。友であり姉であった彼女が、己が全てを賭けてでも消し去らねばならぬ宿敵であることを。
――瑠璃は、斃さねばならぬ敵だ。
 下げていた顔を上げ、決然とした瞳で瑠璃を見据えた時、彼女たちは阿宋山ではなく妖の山の……霧の森に居た。
 何かを受け入れたらしい面持ちの麗蘭に、瑠璃が静かに笑む。口元だけで微笑んでいる彼女を見ていると、敵同士となったあの日の記憶がありありと呼び起こされる。
――幼かったあの時、私は誓った。たとえ瑠璃であろうと……全力で戦うと。
 同時に疑いが生じる。誓いを思い出したはずなのに、如何して自分は戦おうとしないのだろう。矢を番えて引き絞り、剣を抜いて振り払おうとしないのだろう。
 今目の前に居る瑠璃が、本物の瑠璃ではなく夢や幻の類であることに、麗蘭は何時からか気付いている。今対峙しているのは、四年前の訣別の日と全く変わらぬ姿の瑠璃であり、経た歳月を考えれば明らかに不自然なのだから。
 本物ではないと分かっているから、戦う気になれぬのだろうか。もし此れが瑠璃の……いや、彼女でなくとも敵の罠であるなら、麗蘭は戦わずして非天に敗れてしまう。黒神を斃せるのは麗蘭だけ、という天帝の言葉通りならば、麗蘭の敗北が天界側の負けに繋がりかねないのだ。
「私が敵だと認識してはいるが……戦うとなると動き出せなく為るようだな」
 心境を言い当てられた麗蘭は、怯みそうになるところをぐっと堪える。
「気丈なのも良いが、やはり物足りぬ。私が見たいのは、おまえの美しい貌が憎しみと苦痛で歪む様のようだ」
 余裕の笑みを見せながら、愛おしげとも取れる酷薄な表情で言い放つ瑠璃。冷たい瞳の光が、彼女の麗容を一際妙なるものにしている。
「……苦しむが良い、麗蘭。其れが私の悦びと為る。そしていずれ、私の苦しむ様がおまえの悦びと為る時が来るだろう」
「瑠璃……」
 眉根を寄せ首を横に振ることだけが、今麗蘭に出来ること。
――頭では戦わねばならぬことが分かっていても、心ではそうもいかない。私は、瑠璃と戦いたくないのだ……!
 返す言葉を考えあぐねていると、俄かに霧が濃く為り始め、忽ち二人を覆ってしまう。お互い見詰め合ったままで、白霧が麗蘭と瑠璃を隔てて広がってゆく。
 瑠璃だけでなく、目に見える世界全てを霧が埋め尽くした時、麗蘭はたった独りで……寂寞たる白い光の中に佇んでいた。
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