金色の螺旋

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第六章 妖霧立つ森

五.虚空の夢
 瑠璃が居なくなり一人きりに為った麗蘭は、漠々たる白い世界に招かれていた。妖気は感じられず、黒神の気も無い。しかし彼女は、持ち前の用心深さから気を抜くこと無く、腰の剣を強く握って何時でも戦える体勢を作る。
――蘢や魁斗を探さねば。
 敵が何処に潜んでいるか分からない状況で、仲間と離ればなれに為るのは最も避けたいことだった。幾ら麗蘭でも妖山の中での単独行動は危険過ぎるし、特に負傷している蘢のことが心配だ。
 ところが辺りを見回してみても、ただただ虚空が果てし無く続くのみ。此処があの霧の森なのかも、全く別の場所なのかも、分からない。更に今見えている此の景色が夢幻なのか、現なのかどうかも。ひょっとすると、瑠璃と再会した夢が未だ続いているのやもしれぬ。
「先に……進まねばならぬな」
 右足を一歩、踏み出す。向かうべき方向も定まらないが、とりあえず今向いている方へと歩くことにする。
 数歩進むと、麗蘭は前を見たままぴたりと立ち止まる。風どころか空気の流れすらも感じなかった空間が……揺れた気がしたのだ。
――妖気も神気も感じぬ。だが確実に、誰かが居る……?
 気も力も発していないが、何者かが動く気配がした。麗蘭は剣に手を掛けたまま、くるりと後ろを振り返った。
「だ……れだ?」
 立っていたのは、見たことの無い少女だった。麗蘭よりも少し背が低く、長い髪を垂らしてかなり上物そうな着物を身に纏っている。
 其の少女を一目見て、麗蘭は喫驚した。如何いうことか、彼女の顔貌がどうしても認識出来なかったのだ。もやもやとした何かに覆われて、隠されているかのように。
「……如何なされたの? 『貴女も』お独りなの?」
 美しい声だった。高めの澄んだ声音で、柔和ではあるが気品に満ちて、芯の強さを感じさせる。
「そなたは……」
 尋ねようとすると、俄に思い出された。少し前に麗蘭の夢境に現れた、高貴なる妹姫の声に良く似ているのだ。
「そなたは、蘭麗姫か?」
 半ば自信を持って尋ねる麗蘭は、此の蘭麗は少なくとも実体ではないと知っていた。容貌がぼんやりとして見えないのも、何の気も感じられないのも其の所為であろうから。
 何故彼女がこんな所に居るのかは分からぬが、つい先刻瑠璃の幻影と見えたばかりの麗蘭には、蘭麗の幻姿が現れ出たとしても不思議ではないと思えていた。
「夢なのか幻なのかは分からぬが……現ではないとしても、会えて嬉しい」
 麗蘭が浮かべるのは、思いも寄らぬ出来事への困惑が混じる、喜びの笑み。
「会えて……嬉しい?」
 気の所為であろうか。蘭麗の可憐な声に、幾何かの……侮蔑が含まれているのは。
「姉上はお幸せな方ね……何も御存知ない。そんな言葉で、私が喜ぶとでも?」
「蘭麗……」
 どうやら聞き違いではないようだった。蘭麗の言葉には、麗蘭に対する明らかな敵意が表れている。  
「今更私を助けに来て、ご自分の居場所を手に入れたいだけなのでしょう? 家臣たちに、民たちに、公主だと認められたいだけなのでしょう?」
 冷たく突き放された麗蘭は、胸を刺される鋭い痛みを覚える。
――蘭麗……以前夢に現れた時と様子が違うが、本当に蘭麗なのか?
 声は似通っているが、態度がまるで異なっている。紫瑤を発つ朝に現れた彼女は、悲痛な感情を秘めたか弱き声で、麗蘭が茗へ旅立とうとするのを只一向に止めようとしていた。だが此の蘭麗は、強い口調で姉の行動其のものを否定している。
 麗蘭の戸惑いを容易く見抜き、蘭麗が小さく嘲笑う。
「姉上、私には神人として異質な力が有るのです。其れは、夢に依って未来や過去を見通し……人の夢を通じて私自身の想いを伝える力」
 妹の言わんとしていることが直ぐに解せぬ麗蘭は、彼女の方をじっと見つめて次なる言葉を待っている。
「今私たちが居る『此れ』は、貴女の夢。私は貴女の夢の中に訪れて、私の本当の気持ちを伝えているのです」
 夢にしては妙に現実感が有る此の空間も、蘭麗の神力が成すものならば、現でないとしても頷ける。しかしそうだとすると、今の彼女の言葉こそが……彼女の真意。麗蘭に対する反感は、本物だということに為る。
「其れでも……私は」
 意識しないうちに、麗蘭は口を開いていた。彼女の中では、言うべきことは既に決まっていたのだ。蘭麗が麗蘭に対して嫌悪感を抱いているかもしれぬことを、薄々と想定していたのだから。
――私を嫌い、憎むのは当然だ……私は余りにも長い間、蘭麗の犠牲の上で生きてきた。
 厭われていても仕方がない。だがたとえ拒まれても、如何しても伝えたいことが有る。
「そなたが私を快く思わなくとも、私はそなたに会いに行く。そなたが私を護ってくれたように、私も私の全てを賭して、そなたを助けに行く」
 自己満足だと言われれば、そうかもしれない。蘭麗が自分を赦してくれるなどとは、露程にも思っていない。
「私はそなたに会いたい。そなたに直接謝り、此の気持ちを伝えたいのだ」
 余計な弁解をするつもりは無いし、出来もしない。今の麗蘭に出来ることは、嘘偽りの無い自分の気持ちを曝け出し、誠心誠意で応えること。
 蘭麗の反応は……無い。黙したまま、麗蘭の方を向いて立っているだけだ。ふと目線を下げた麗蘭は、着物の袖から出た蘭麗の両手が小刻みに震えていることに気付く。
「蘭麗……震えているのか?」
 気遣わしげに問う麗蘭に、またも蘭麗は応えない。
――間違いない。だが、何故……何故震えている?
 確信する麗蘭だったが、其の理由は分からなかった。怯えているのか寂しがっているのか、怒りに依って震えているのか……蘭麗の心が分からない。
 程無くして、蘭麗は何も言わずに踵を返す。華奢な其の身を竦ませて、足早に歩いて遠ざかってゆく。
 もし、麗蘭への怒りに打ち震えているのでないのなら……もし叶うのなら、走って追い掛け妹の手を取り、強く握ってやりたかった。されど今は、其の時ではない。
――そなたを自由の身にし、赦しを請う。全ては、其れからだ。
 寂光の彼方に消えてゆく蘭麗を見送りながら、麗蘭はそっと目を閉じる。哀しみに満ちるも強い決意を促す夢は、今度こそ終わりを告げた。
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