金色の螺旋

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第六章 妖霧立つ森

六.孤独の深淵
 眠れる少女の傍らに、一人の青年が立って居た。
 すらりとした長身に、腰まで届く瑞々しい漆黒の髪。白皙の肌や長い睫毛、繊細な曲線を描く唇は、一見女と見紛う程の凄まじい美しさを形作っている。
 浮かべた微笑は一瞬にして時を止め、見た者を陶酔させ虜にする。女であろうが男であろうが、此の冷艶なる完美に一度魅入られれば心も身体も差し出して、悦んで隷属することだろう。
「負の感情に耐え切れず、其れを姉へと向かわせたか」
 其の者の低声は、至高の音色を持っていた。聴く者を陶然とさせる甘美な楽の音が、静謐とした室の中で響き渡る。
「他人の夢に介入し、己の強き想いを伝える異能……斯様な形で発現しようとは」
 声を立てずに笑う男は、無垢なる月白姫を緩やかに見下ろしている。愛おしいものを包み込むが如く……其れでいて、可憐な花弁を毟り取らんとする、無邪気で残虐な少年の如く。
――誰? 其処に居るのは……誰なの?
 自分を見詰める青年の気配を感じたのか、蘭麗は意識を取り戻す。静かにゆっくりと、重い瞼を上げてゆく。
「目覚めて……良いのか? 現に戻れば己の醜さに絶望し、更なる暗澹へと堕ちゆくぞ」
――何を……言っているの?
 聴覚が鈍っているのか、自分の頭上で囁いている男の言葉が聴き取りにくい。間も無く徐々に覚醒し始め、瞳にもまた、光が戻り来る。
「だ……れ……?」
 力無く問い掛けた蘭麗の目に、朧に映る黒い人影。はじめ彼女は、あの人ならざる少年が現れたのだろうと考えた。
 青年が瞳と髪に帯びているのは、暗闇を潜ませ胎動する……深淵を現す黒曜色。凡ゆる光彩を排除する、情け容赦の無い底知れぬ純黒。蘭麗は、あの少年と全く同じ其の闇色を、他の誰にも纏い得ぬ稀有なるものだと直感したのだ。
 ところが此の若者は、とても少年と呼べるような体躯ではない。未だ顔立ちは霞んで見えるが、低い声からも明らかに大人の男性であると分かる。
「思い出すが良い……姉の夢の中で、そなたが浴びせた醜悪な言葉を。浅ましいそなたに比べ、姉が如何に高潔であるかを」
――此の人は、一体何を言っているの……?
 数度瞬きして、蘭麗は漸く正常な視界を取り戻した。すると薄桃色の顔が見る間に青褪めてゆき、愕然として自失する。青年の容貌を見て其の端麗さに息を飲むのと同時に、自分の罪を……彼の言葉の意味をはっきりと悟ったのだ。
「あ……ね……うえ」
 覚えている……克明に。自分が姉にどんな風に、何を吐き捨てたのかを。何の罪もない姉を糾弾して追い立て、妬みや嫉みを言い連ねて愚かな姿を晒したことを。
「姉上……私は」
 あんなことを言う気など、毛頭無かった。出来ることならば生きて相見え、其々が過ごして来た苦難の日々を語り合い、分かち合いたかった。姉妹として生まれ、長い時を経て漸く出会えた喜びを、余すこと無く伝えたかった。
「本当に……そうか? そなたが抱いていた姉への想いは、其のように美しいものだったか?」
 静かで穏やかな笑みを崩さぬまま、青年は尋ねる。嘲笑っているのでも、咎めているわけでもなく、淡々と……姫君の心に巣食う暗黒に、直接語り掛けるかのように。
――哀しい瞳をされていた。
 まざまざと思い出される、姉の表情。酷い言葉を放たれても尚、蘭麗に会いたいと口にした姉は、ほんの僅かな間だけ顔を曇らせていた。
「私が……傷付けた?」
 今この場に、其の問い掛けに答えてくれるであろう者は黒の青年しか居ない。蘭麗はおもむろに身を起こし、彼の立つ方へと目を向ける。
 今一度、あの恐るべき美貌を見ようとした其の刹那、青年の姿は跡形も無く掻き消えた。奥底に眠る暗い影を呼び覚まされ、為す術も無い蘭麗は、只呆然として項垂れる。気付けば、彼女は何時もの牢獄に取り残されていた。
 あの非情な青年が、姿を隠して蘭麗の様子を眺めているかもしれない。彼女が打ちのめされ、失意に沈んでいるのを愉しんでいるかもしれぬ。だが今の蘭麗には、そうしたことはまるで頭に無かった。罪悪感に苛まれ、情けなく見苦しい自身の言動を後悔するばかり。
『私はそなたに会いたい。そなたに直接謝り、此の気持ちを伝えたいのだ』
 鮮明に蘇る、姉の強い眼差し。初めて見る彼女は、蘭麗の想像よりも遥かに美しかった。美しく、誇り高く、優しい。屹度聖安の公主足るに、神巫女足るに相応しい、清らかな魂の持ち主なのだろう。
――私もそうで……ありたかった。
 人質としての存在意義が薄れかけている中、せめて気高いままでありたかった。そう願い続けてきたはずなのに、汚く醜い感情を暴走させ全てを地に堕としてしまった。
 蘭麗は掌で顔を覆い、躊躇うこと無く咽び泣く。室の外に立っているであろう茗人の兵に、泣き声を聴かれることすら厭わずに、溢れるに任せて泪を流す。
――姉上は……私を嫌いに為ったに違いない。酷い妹だと失望し、呆れたに違いない。 
 自分の優しさに気付かぬ蘭麗は、自己否定の濁流に攫われ、猜疑心が沸き起こるのを止められない。自分を助けに来るという姉の決意さえも、疑い始めている。
『お可哀想な貴女の……震えるお手を握ってやれる者さえ、居ない』
 孤独の海に溺れて息が出来なく為ってゆく。いっそ此のまま呼吸が止まってしまえば良いのにと……願ってしまう。
 窓の外は未だ明るく、日暮れまでには時間が有る。しかし蘭麗の世界は、いつしか黄昏を飛び越えて夜陰を迎えていた。姫君を陥れた黒神が支配する……芳しき暗香漂う闇が広がり、其の根を下ろし始めていた。
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