金色の螺旋

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第六章 妖霧立つ森

七.鳴動する魔山
 生を感じ得ぬ、清閑な狭霧の森。麗蘭は其の黒緑の天蓋の下、千の齢を重ねた老樹にもたれて地に座り、睡郷から戻り掛けていた。
――今度は、現だろうか……?
 目を醒ました麗蘭は、瞼を上げて視線を巡らす。相変わらず噎せ返るような邪気の中で意外にも、身体にはさほど影響を受けていない。意識を消失した後、身の内に秘めた神力が独りでに己が身を守ったらしい。
――不甲斐なくとも、眠る力は立派に神巫女の力……か。
 苦笑を漏らし、寄り掛かっていた樹に手を付いて立ち上がる。袴に付いた泥を払い、周囲を注意深く探り始める。
「物凄い……黒神の気が……」
 手の甲で口元を覆い、我知らず声に出してしまう程、存在を主張する邪神の神力。麗蘭は呪を唱え、身の回りに結界を張り直して守りを固める。
――もしや、此の近くに『元凶』が……?
 此の魔山に入った目的でもある、妖を操る黒き力の源。見つけ出して排除し、妖たちの白林来襲を防ぐことで、黒神の邪悪な計画を砕かねばならない。
――蘢や……魁斗のものらしき気は、感じられない。
 彼らの身を案じつつも、今は無事だと信じるしかない。彼らの光は邪な力の壁に阻まれ、此処までやって来ないだけに違いないと。
「私だけで行くしかない……か」
 単独で進むと決めた麗蘭だが、以前のように只、独りで為さねばならぬという考えに突き動かされている訳ではない。無数の敵が息を潜める此の森では、手掛かり無く下手に探し回るのは得策ではない。目標が見えている今、自分だけで進むのは危険だと承知しつつも、先に動いた方が良いと冷静に判断したのだ。
 目指し歩み行く方向は決まっている。黒の気が満ち満ちている方へと進めば良いだけなので、至極簡単である。
 身体が受容せぬ神気に触れ寒気立つのに耐えながら、陰湿な黒土に足を取られぬよう注意して歩く。直感だが、此処からそう遠くないと踏んでいた。進めば進む程に、禍々しい神の力に依って妖気が塗り潰されてゆくのだ。
 群がり立つ黒い木々の間を抜けると、比較的開けた場所に出た。其処に横たわっていたのは、目を疑う程奇怪で底気味の悪い……黒紅色の水を容れた沼だった。
「此れも……黒神の穢れなのか」
 濃密な黒の気が、此処を起点にして外部へと流れ出している。麗蘭は、此の古沼が琅華山の中心部であると見抜く。恐らく黒神の支配を受ける前は、妖気の苗床だったのだろう。
 殆ど間を置かずして、麗蘭は根源たる毒巣を見付ける。其れは沼の水際に突き立てられた、大きな剣。透き通った黒石の、美しく底光りする見事な長剣だった。
――何故だろう……何処かで見憶えが……?
 剣が放つ息苦しい程強力な黒の神気には、奇妙な既視感を覚える。何処で誰が振るっていた剣だったのか、自身の目で見た気がするのだ。
「あれを抜き、清めれば良いのだろうか」
 一歩ずつ慎重に、剣の許へと近付いて行く。大地を伝い、脈動する力を感じる度に恐怖が増し、全身が粟立ち足が石のように硬く為る。何かが……彼女に内在する何らかの力が、近寄ってはならぬと警告する。
――清められるのだろうか、今の私に……!
 邪剣の直ぐ前へと歩み出ると、柄に両手を掛けようとする。剣を包む真黒な気が、麗蘭の神気を拒んで押し返す。
――やはり、此の剣……何処かで……?
 躊躇し手を止めた時突として、後ろから声が聴こえ来る。
「……止めておけ。其の剣に触れるな」
 其れは、抑揚の無い男の声。魁斗や蘢と比べてかなり低く、有無を言わさぬ威圧感が有る。一方で、魅惑的な甘やかさを含んだ妖しさを感じさせる。
「おまえは……!」
 剣から退いた麗蘭が後ろを向くと、濃い霧の奥から人形が浮き出でて来る。其の様はまるで、霧が集められ固められて人の姿を拵えているかのよう。
 現れたのは、稀有なる威容を纏いし美丈夫であった。癖の強い長髪と瞳は翠玉色を帯び、切れ長の眦や尖った顎の輪郭、高い鼻梁という整い過ぎた造作は、危うい妖冶さを漂わせている。ゆったりとした衣服の上に獣の毛皮を羽織り、莫大なる妖気を放つ神剣、虎楼を腰に携えていた。
「妖王、邪龍……!」
 男の姿を認め、麗蘭は剣を抜いて真っ直ぐ彼に向ける。無機質な表情を崩さぬ妖王は、泰然として麗蘭を見下ろしていた。
「今のおまえの神力では、其の剣には太刀打ち出来ぬ。触れた瞬間、立ち所に喰い殺されるだろう」
「……此の剣を知っているのか?」
 自分を訝しげに睨んでいる麗蘭を見て、妖王は口角を片方だけ上げて静かに笑む。
「……神剣淵霧。我が異母兄、黒神の剣だ」
「黒神の……?」
 麗蘭は目を丸くして、再び剣を見やる。妖山と同化し脈打つ魔剣は、絶えること無く黒の力を送り込んで穢れを広めている。
 此れが黒神の剣だと言うのなら、膨大な神気を有しているのも頷ける。だが、見たことの無い剣に見覚えがあるのは何故なのだろうか。
 暫し邪剣に気を取られていた麗蘭は、今一度妖王を見る。
「おまえは、どうして此処に来たのだ?」
 二年前、此の男と剣を合わせた時とは様子が違う。今の妖王は剣を抜く気配がまるで無いし、少しの闘気も感じられない。
「……おまえの手助けをしてやりに……とでも言ったら、信じるか?」
 愉しげに口元を歪めると、妖王は麗蘭と剣の方に近付いて来る。麗蘭が彼を警戒しつつ剣から離れると、其のまま剣の前まで行き迷うことなく、黒石の柄を右手で掴んだ。
 彼が触れた途端、剣は拒むかのように小さな電光を発して音を立てる。僅かに顔を顰めた妖王だったが手を止めることなく、深々と大地に刺さった剣を一気に引き抜いた。
 抜いた瞬間……剣と山との、邪神と山との繋がりが断たれた。地が鳴動を始め、重い地響きを伴う地震と為って揺れ動く。所々地割れが起こり、枝葉は激しく揺さぶられている。麗蘭は側に在る樹幹に掴まり、倒れそうに為る身体を何とか支える。そうしなければ立って居られぬ程の、大きな地動であったのだ。
 すると、妖気を覆い隠していた黒の気が次第に弱まってゆく。妖力を呑み込んでいた神力が剣に引き戻され、空間が再び妖力の方で満たされる。剣を抜くのと同時に、妖王が己の力を送り込んでいるのやもしれぬ。
 揺れと地鳴は徐々に収まり、森は何事もなかったかのような何時も通りの静寂に包まれる。麗蘭が顔を上げて沼を見やると、黒い沼水が緑がかった乳白色に変化し妖光を発している。
 淵霧を持ち上げた妖王は、黒黒とした長い刃を見入る。邪な力を湛えた凶剣は、血の如き紅に染まり鮮麗に輝いていた。
「神力の放出が止んだ……其の剣だけで、此の山一つ分の妖を操っていたというのか」
 黒神の巨大な力を目の当たりにし、麗蘭は愕きを隠せない。妖王は手にしている神剣を地に突き立て、再び麗蘭の方を見る。
「其れを……如何するつもりだ?」
「無論、お返しする。本人でなければとても扱えぬ代物だ」
 麗蘭の問いに、隠そうともせず答える妖王。彼の意図が、麗蘭には解らない。魔剣を抜き去ることは、黒神の意に反することではないのだろうか。何故黒神に反し、麗蘭たちの助けと為るようなことをするのだろうか。
「俺は奴の配下ではない。奴が俺の領土を侵せば黙っておれぬし、退いてもらわねばならぬ」
 妖王は、腑に落ちない顔をする麗蘭の思考を見透かしている。何千年もの時を生きてきた彼にとっては、素直な少女の心を読むこと等訳が無い。
「領土を侵した……?」
 麗蘭が其の意味に気付くのに、然程時間は掛からなかった。
――妖共を狂わせ、白林に攻め入らせたことか。
 其のことに対し妖王が何故不服なのかは、麗蘭には分からない。妖異たちの王としての矜恃が許さないのか、狂い死にゆく下僕たちを憐れんでいるのか、或いは何か……別の理由が有るのか。
「茗へ向かっているそうだな。やっと動き出したは良いが、苦戦しているように見える」
 唐突に、妖王は話題を変えた。
「何故……何処まで知っている?」
 眉を顰めて問うが、彼は答えない。麗蘭の方も返答を期待していたわけではなかった。
「茗の女帝だけでも手こずるだろうに、金龍や黒巫女……そして黒神の影まで現れたからな。さぞや、苦しかろう」
 同情するかのようなことを言いながら、妖王の笑みは変わらない。
「おまえは如何なのだ? おまえも、私の前に立ちはだかるのか?」
 下げていた剣先を再び妖王に向けると、麗蘭は鋭い眼光を送り込む。
「気付いているだろう? 今の俺には戦う気は無い。おまえの旅に……人間共の争いに此れ以上関わる気も無い」
 言葉通り、彼には相変わらず戦意が無い。
――だからと言って……敵であることには変わりない。
 油断は出来ぬと気を引き締める。妖王は如何か分からぬが、妖が人を陥れ欺くのは往々にして有るものだ。
「そろそろ思い知っただろう? 開光しなければ黒神どころか瑠璃とも戦えない。妖を討ち人間を救うという務めも果たせない。今回のように……な」
 妖王の言葉で、麗蘭は白林の西城塞を妖が襲った時のことを思い出す。魁斗にも言われた通り、光龍として力を使いこなせていれば、犠牲は抑えられたはずだということを。
「……そんなことは言われなくとも分かっている」
 開光については麗蘭自身も散々思い悩み、自分を責めているのだ。指摘される度に言い開くことさえ出来ないのが……苦しい。
「此のままおまえが開光せず、黒神に嬲り殺されるのを眺めるのも悪くはないが……如何にも物足りぬ」
 薄っすらと笑みながら恐ろしいことを口にする妖王だが、只の脅しではない。歴代の光龍の中で最も強いと伝えられる奈雷でさえも、黒神の手に掛かって落命しているのだから。
「五百年に一度しか転生しない光龍と、千五百年振りに天帝の封印から解かれた黒神の戦いが……そんな味気無いものであっては困る。おまえには抗ってもらわねば」
 其処まで言うと、妖王は背後の沼の方を指差した。やや深く息を吐いてから、麗蘭には背を向けたままで話を続ける。
「茗に入り、神剣天陽を手に入れるが良い。其の剣こそが、開光の条件の一つだ」
「な……」
 思い掛けない発言に度肝を抜かれた麗蘭は、途中で言葉を失ってしまう。天陽のことは、有名な話であるため彼女も当然聞き知っている。しかしそんな物が実在するとは信じていなかった。ましてや、其の剣が開光の要件と為る等考えもしなかった。
「天陽……奈雷が金龍を討伐する際に神王から賜り、代々の光龍が受け継いできたという神剣か」
 声に出して知識を確認してみるが、益々納得できない。幾ら神剣とはいえ、一振りの剣が千五百年の時を経て残っているということが有り得るのだろうか。
「何を驚いている。天陽と同じ時期に下賜された淵霧も、俺の虎楼も、こうして存在しているだろう」
 妖王が手にしている淵霧と、腰に差した虎楼を順に見てから、麗蘭は以前書で読んだ伝承を思い出した。
「二人の神巫女と天帝、黒神、そしておまえに、竜王討伐の下命と共に与えられたのが其れらを含めた五剣……という話だったな」 
「そうだ。五百年前、おまえの前世である光龍『紗柄』が死んでから、天陽は『珪楽』の地に安置されている」
 紗柄という少女のことは、麗蘭も良く知っている。奈雷から数えて三人目の光龍で、聖安と茗の隣国である祥岐国の王族に仕え、時の闇龍と激しい戦いを繰り広げたと伝わっている。『珪楽』とは、紗柄を祀る聖域として知られていた。
「人間が神を滅するには神剣を用いなければならない。宿に従い、開光して黒神を殺すには、天陽が不可欠……取りに行かぬ手は無い」
 妖王の言うことが正しければ、今後のことを考え回り道をしてでも珪楽に行かざるを得ない。黒神や瑠璃が何時また現れるか分からぬし、青竜に対抗するためにも彼の剣が必要だ。だが麗蘭には、やはり解せぬ点が有った。
「何故、私に其れを教えるのだ? おまえの目的は何なのだ?」
 疑わしげに尋ねる麗蘭に、妖王は笑んだまま答える。
「……退屈凌ぎ。加えて、黒神への仕返しといったところか」
 曖昧ではあるが、言葉の意味は伝わってくる。麗蘭と黒神、麗蘭と瑠璃の戦いを半ば愉しんでいることと、琅華山の件に対する黒神への反撃だということを言いたいのだろう。
「話は終わりだ、早く去れ」
 釈然としない顔の麗蘭を余所に、話を切り上げようとする妖王。彼は再び、沼の向こうを指差した。
「おまえの仲間が側まで来ている。妖気の壁で感知しにくいだろうがな」
 霧を払うかのように、妖王が顔の前で手を横へと動かす。左右に分けられた妖気は次第に薄まり、立ち籠めていた霧もまた、風も音も立てずに晴れてゆく。
――此の気は……!
 本人の人柄を表す、曇り無き真っ直ぐな神気は蘢のもの。そしてもう一つ、未だかつて感じたことの無い不思議な波長を持つ……強大な神気が在った。
――魁斗のものに違いない。
 麗蘭が仲間の気配に気を取られていると、妖王は淵霧を持ったまま歩き出す。彼女と擦れ違った所で一度足を止め、振り返らずに再び口を開いた。
「……もう一つ。開光の際には『犠牲』を伴う。真の神巫女と為るには、其れ相応の対価を要する……覚悟しておくことだな」
「犠牲……?」
 思わず聞き返したが、妖王は何も答えずに森奥へと歩いて行く。薄く為った霧に隠れ、姿を消しゆく妖王を見詰めたまま、麗蘭はある言葉を思い出していた。天帝、聖龍神の御言葉を。
『方法は、そなたが試練を乗り越えることだ。それはいつ訪れるか分からない。どんなものかもそなた次第で変わる』
 四年前、開光の方法について尋ねた時……光龍の創造主である彼の神は、確か其のように教えてくれた。
――邪龍の言っていたことは、陛下が仰っていた『試練』のことか……?
 問うてみても、答えてくれる者は誰も居ない。麗蘭は妖王が去った方向に背を向けて、沼地の向こう……仲間の居る方へと歩き出す。
 妖霧立つ森は寂寂として、黒神の呪縛から逃れたであろう妖たちも鳴りを潜めている。山に入った時は彼方此方から恐ろしげな音が聴こえ、耐え難い邪悪さに包まれていたのが嘘のようだ。確かに妖気は感じるが、其れでも、霧の森にはひっそりとした美しさが在る。
――此れが本来の……琅華山なのであろうな。
 麗蘭は足を速めて走り出し、闇黒色の木立の間を駆けて行く。仲間たちが放つ、眩い光だけを頼りに。
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