金色の螺旋

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第七章 光焔の剣

三.揺るがぬ覚悟
 乱れ咲く紅梅の色と香りを纏った女が、紫檀の寝台の上で一人……目覚める。天蓋を仰ぐ虚ろな瞳を(まばた)くと、不意にひんやりとした寒さを感じたのか、思わず両の腕を抱え込む。
 何も身に付けぬ褐色の艶肌からは、昨晩の熱がすっかり引き切っている。嫌と言う程与えられた快楽の余韻も感じられず、空しく残されたのは、身体の奥深くに穿ち放たれた『力』のみだった。
――神に身を(ひさ)ぎ、力を得ることが……斯様に空虚なことであったとは。
 彼女は、自分の内に在る神力が日に日に強まって行くのを感じている。夜闇に紛れて姿を現す彼の邪神が、閨事(ねやごと)を通して己の莫大な力を女に注いでいるのだ。
 至上なる肉体の悦びと、至高なる黒い神の力。人の身で其れらを得る代償として掬い取られるのは、燃える命か魂か……女には未だ分からない。だが危険を冒してもなお、彼女は力を手に入れなければならぬ。渇望してやまない、ある『尊きもの』のためだけに。
 起き上がり、寝台から抜け出ると、黄金の御簾の向こうに控えている女官に声を掛ける。
「巫女殿がお出でであろう? 通せ。おまえたちは下がるが良い」
「……かしこまりました」
 女官が出て行くと、女……女帝珠玉は、光を遮った昏い室の中で蝋燭の灯りを点ける。此処の所、朝の陽光が苦手に為りつつあり、自分の許し無く窓を開けぬよう命じてある。此れも、黒神を受け容れているがゆえの変化なのだろうか。
 薄い着物を羽織って椅子に坐し、入室して来る黒の巫女を待つ。黒き神と同じ気で身を包んだ黒衣の女が、御簾を隔てた正面で膝を付く。
「良くぞお出でに、巫女殿」
 此の利洛城内で、黒巫女は隠神術を使い決して己が気を漏らさない。優れた神人である珠帝ですら、彼女の力を感じることは出来なかった。だが、今は違うようだ。黒巫女の術をも破れる程に、珠帝の神力は高まっている。
「ご機嫌麗しゅう存じます、陛下」
 黒巫女は頭を下げたまま、淑やかに挨拶する。
「私の気を感じ取られるとは……御身、かなりの御力を得られたとお見受け致します」
「……左様。彼の君は昨晩もお出ましになられた。まこと、身に余る光栄ぞ」
 満足そうに笑むと、珠帝は椅子の手摺に肘を置いて頬杖を付く。
「あの世にも麗しき黒の君主は、憐れな人間たちを歓喜させ、陶酔させ、全てを与える代わりに何をお取りになられるのだろうな? 黒の巫女よ、そなたならば知っておろう?」
 期待せずに、問うてみる。
「……我が君の望まれるもの全てにございます、陛下」
 案の定、ぼんやりとした答えしか帰って来ない。
「望まれるもの……か」
 珠帝は目を細めて巫女を見やる。此の女の心の内を見通そうとするが、やはり上手くいかない。人の心を探ることに掛けては相当の自信が有るが、相手が黒神に仕える巫女となると一筋縄ではいかないらしい。金簾(きんす)越しで互いの表情が見えぬ今は猶のこと、難しい。
「巫女殿、『麗蘭』は今どの辺りまで来ているのだ?」
「……昨夜、琅華山を抜けて茗に入ったようですわ」
 其れを聞き、珠帝は喜ぶと同時に訝しげな顔をする。
「遂に、我が国に入ったか……だが奇妙なことよ。昨日我が領土内に入ったのに、朱雀からの知らせが届かぬとは」
 国内に侵入したのなら、朱雀が張り巡らせている網に掛からぬはずが無い。『麗蘭』については朱雀に与えた再重要の任務であり、新たな情報を掴めば即刻珠帝に伝えるはず。夜が明けて暫く経っている今、何の伝令も無いのはおかしい。
「恐らく、聖地珪楽に立ち寄るかと」
「珪楽……か。妾が血潮で穢した聖域ではないか」
 信頼出来る朱雀からの報告が無くても、珪楽に向かうというのは納得がいく。光龍ならば、彼の地に眠る剣を求めるのが至極当然であるからだ。
「珪楽ならば、私は立ち入ることが出来ませぬ。青竜上将軍とて同様でしょう」
 如何に彼らの力が強くとも、白の神気が満ちる聖域には近付くことすら困難である。今回は、麗蘭たちの居場所が分かっていても手出しは出来ない。
「されど、陛下のお望みは麗蘭の開光でございましょう?」
 女帝の考えを推し量り口にする等、普通なら許されざること。だが此の巫女なら話が別だ。『闇龍』の言葉は、彼の君の御言葉と同じ程の価値と意味を有するのだから。
「其の通りだ。一先ず放っておき、麗蘭に天陽を抜かせてやるが良い。泉栄で青竜将軍が麗蘭を捕らえ損ね、却って都合が良く為った……事は妾の望み通り進んでおる」
 光龍の真の覚醒『開光』に、神剣『天陽』が不可欠であるのは、既に黒巫女から聞いて知っている……珠帝が望みを果たすには、其の開光が必要なのだ。
「……恐れながら、一つ申し上げますわ、美しき炎の王よ。我が君は『退屈』を何よりも厭われる」
 其のたった一言で、珠帝の目に鋭い光が宿る。
「お早く、開戦を。聖安に攻め入り都を業火で嘗め尽くし、人界統一の障壁を打ち崩すのです」
 冷やかに言い放つ様は、血の通わぬ人ならざる者さながら。人の子の言葉とはとても思えない。
「彼の君がそう望まれると言うか……戦を起こさねば『退屈なさる』と。そなた、妾を脅しているのか?」
 片方の眉を吊り上げ、口の端を歪めて微笑しつつ、威嚇する眼差しを向ける。御簾が在るため互いの顔が見せぬ所為も有るのだろうか、瑠璃は臆することなく次の言葉へ繋いでゆく。
「脅しなどと、左様な恐れ多きことは致しませぬ。此れは、陛下へのご忠告。其れに……陛下のご希望を余すことなく叶えるためにも、必要と為るでしょう?」
 人界統一――其れは確かに、珠帝の長きに亘る悲願であった。誰も成し遂げたことの無い夢に惹かれ、珠帝の僕と為った玄武のような男が何人も居る。言い尽くせぬ程、途方の無い夢なのだ。
――だが今と為っては……其の大望よりも遠大な望みが出来てしまった。邪神に身を捧げ、魂を磨り減らしてまで手に入れたいと願うものに……『気付いて』しまった。
「……ご安心なさいませ。今の所は未だ、少しなら時がございます」
 裏を返せば、黒神が何時珠帝を見限り災いを齎すかは分からぬということ。また、もう然程時間が残されていないということ。
「巫女殿にご心配いただかなくとも、妾は戦の準備を急いでおる。間もなく始まろう」
――彼の君に出会ったあの夜から、身を投げ打つ覚悟を決めている。あれを手中にするのには、命すら惜しまぬと誓ったのだ。
「あと数日……十日以内には、国境付近の大地に十万の軍が集結する。さすれば直ぐにでも協定を破棄して進軍を命じ、聖安の地を平らげてみせよう」
 珠帝は席を立ち、断然と言い切る。
「今度こそ、手ぬるい真似はしない……あの国を征して戮の限りを尽くし、焦土と化した彼の地を我が物とするまでは戦を止めぬ」
 敵の返り血を幾重にも浴び、強く為り続けた王者の顔。冷たく厳しい為政者の心と、情熱を孕む激しい女の心。其れらを併せ持つ女傑こそ、大国茗の主、珠玉。彼女の口から放たれるからこそ、残忍で酷烈な言葉も、研ぎ澄まされた偉大なる刃と為って人心を打つのだ。
「頼もしいお言葉、嬉しゅうございます。我が君もお喜びになりましょう」
 頭を垂れた瑠璃に、珠帝は不思議そうに首を傾げる。
「喜ぶ、か。あの御方が喜ぶということなど、本当に有るのか? 揺れ動くお心をお持ちのようには……とても見えぬのだがな」
 小さく呟くと、背に在る椅子に再び腰掛ける。
「人を超えし者であるがゆえの性か……しかし、そなたも同じよのう? 主に似ておるわ」
 そう言って少し笑んでから、珠帝は軽く息を吐いた。彼女の言葉への、黒巫女の反応は無い。
――妾の前で頭を下げてはいるが、決して恭順はしておらぬ。主以外の者に平伏すことが無い……此れだから、巫女という存在は気に入らぬのだ。
 黒の神に敬意を示すため、こうして自室まで入るのを許してはいるが、珠帝は黒巫女を信用しているわけではない。黒布の下に隠したものを見透かそうと、隙を衝く機会を窺ってはいるものの、なかなか見出せないのも忌々しい。
「用がお済みなら、下がって良いぞ。また動きが有れば知らせておくれ」
「御意」
 巫女は深々と丁寧に立礼すると、いずことも知れず立ち去る。独りに為ると、珠帝は怪訝そうに小さく呟いた。
「巫女から奴の気を感じたのは、気の所為か……?」
 強められた感知の力で、確かに見た気がした。行方知れずと為っている、自らが切り捨てた男……玄武の影を。
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