金色の螺旋

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第七章 光焔の剣

八.鷹の恐怖
 暮れ方の神坐は、ほんの僅かだが異界の様相が薄まる。正の神気を強める太陽が隠れ、少しだけ聖地としての加護が弱く為るのだった。
 其れでも、黒い力を持つ者や妖をはね除ける結界は強く、非天は決して寄せ付けない。たとえ入れたとしても、其の邪悪な力を振るうことはおろか、思うように身体を動かすことすら儘ならない。
 ゆえに、珪楽の人々は昔から争いを知らなかった。茗帝国の支配者も長い間、此の聖地を侵すことはしなかった。そして其の、『人』に対する無防備さが、珠帝の横暴に依る悲劇を招いた。
 人、ならば、聖域に足を踏み入れることが出来るのだ。邪心を持つ者であろうと、人の子に寛容な神域は受け入れる。そうした邪な人間から光焔の剣を守るため、魅那と天真の母たちは命を捧げることに為った。
『此の珪楽に惨劇を齎した珠帝』の忠臣だった男とて、人の子。戦場においては残忍な殺戮を愉しみ、己が封じられた地、隨加においては海賊の真似事で暴虐の限りを尽くした『玄武』とて、此の地に立つことが出来たのである。
「……久し振りだな、蒼稀蘢」
 蘢と玄武が再び対峙したのは、下宮へと続く石段の下。夕日の赤い光が彼らの顔を鈍く照らしている。
 茗においては死したと公表され、今や主君に見放された身。自分よりもずっと若い蘢に敗れ、武人としての誇りも奪われたはず。其れなのに、玄武の様子はあの時と殆ど変化が無い。変わったことと言えば、幾分か頬が痩せたこと、腰に差した剣が以前よりも短いものに為っていることだけだ。
――得物を変えたのは、左手を失ったためか……
 動揺を悟られぬよう、蘢は感情を隠して驚く顔一つ見せない。其処が面白くないらしく、玄武は詰まらなそうに舌打ちした。
「相変わらず癇に障る奴め。だが……生きていてくれて嬉しいぞ。青竜に深手を負わされたという割には元気そうだ」
 不敵に笑う玄武を、蘢はやや訝しげに睨む。
――何故、知っている? 珠帝に見限られ、訣別したのではと思っていたが……未だ通じていたのか?
「茗の玄武は死んだと聞いていたが、やはり生きていたんだな。珠帝に命乞いでもしたのか?」
 煽るような物言いをするのは当然、蘢の策だった。玄武が挑発に弱いということは、前回の戦いで分かり切っていることだ。しかし、幾ら短気とはいえ、玄武は一国の将を務めた男である。同じ失態は繰り返さない。
「一つ教えてやる。あの方はそういう真似が一番お嫌いなんだよ」
 以前とは違い、玄武は少しも動じていない。動揺するどころか、妙な落ち着きすら見せている。
――隨加の時と変わっていないようで……やはり何処かが違う。何か……超然としている。
 何にせよ、隨加で使った心理作戦は役に立たない。蘢は覚悟を決め、腰の剣に手を添えた。
「此処に来た目的は?」
「……おまえに仕返ししてやろうと思ってな。両手で剣を握れないのは不便で仕方がない」
 含みのある言い方で、蘢は他意があることを直ぐに見抜く。
「では、どうして僕の居場所が分かった? 誰に聞いた?」
「教えてやる義理は無い」
 蘢には、彼らしからぬ焦りが見え始めていた。単刀直入に尋ね、答えてくれるはずなど無いというのに。
「ところで、あの娘の姿が見えないな。麗蘭というそうだが……美しい顔をもう一度見たいものだ」
 態とらしい、好色そうな目で言う玄武を見て、蘢は船上での出来事を思い出した。暫く経った今でも、腸が煮えくり返りそうに為る。
「あの社の中か? おまえを殺したら、俺のものにしてやろうか」
 下卑た笑いに我慢が出来ず、蘢は一瞬だけ、端正な顔を怒りに歪めた。麗蘭は彼の仲間であり、いずれは仕えることに為る君主であり、聖安だけでなく人界中に希望を与える光龍である。醜い言葉を浴びせ掛けられるのは、許せない。
 鞘から剣を引き抜き玄武に向け、立ち所に闘気を纏う蘢。
「聖域の土を血で穢すのは、気が咎めるけれど……」
 剣を交えないという選択肢は、存在しない。そして戦う以上、蘢に敗北は赦されない。
 対する玄武は謎めいた笑みを滲ませたまま、蘢を真っ直ぐ睨め付けている。彼を射込む鋭利な眼光を見れば、玄武という剣士が慢心を捨て去り、蘢を仕留めるつもりでいると分かる。
「……かつて此処で、巫女たちが人身御供と為ったそうだな」
 携えた剣に右手を掛けると、玄武は唐突に話し始めた。
「神剣のため……いや、五百年も昔の光龍と、顔すら拝んだことの無い新たな光龍のためか。今のおまえも、あの娘……光龍のために命を懸けるか? 生贄と為って、此の地に沈むか?」
 問われて、蘢は玄武から視線を逸らすことなく答える。
「貴様を斃す。仲間である麗蘭のため。そして、我が祖国を守るために」
「……生意気な奴だ」
 嘲笑い、突然腰を低くして半身を後ろに捻った玄武は、身体を戻す勢いで抜刀して斬り掛かった。正面で受け止めた蘢は、激しい衝撃に思わず数歩後退してしまう。
――片腕で、此の力と速さか……
 たった一撃で蘢を戦慄させる玄武の実力は、片腕と為っても全く衰えを見せていないように見える。其れどころか、挑発にも乗らず余裕を見せている今の方が、より冴えているのではないか。
――いや、片手で剣を振るっていれば、いずれ必ず隙が生まれるはずだ。
 右腕だけで振るえる武器に持ち替え、其れを使いこなせるように為るまでは、玄武程の達人でも訓練に時間を要するはず。加えてあの隨加での戦いから然程経っていない今は未だ、剣を振っているだけで体力を消耗するだろう。
 だが其れは、蘢にも同じようなことが言える。天真に治癒術を掛けてもらっていれば違っていたかもしれないが、運悪く一歩遅かった。
 長期戦に為れば、互いに苦しい戦いに為るのは必至。当然玄武の方もそう考えて、決着を急ぐに違いない。相手の実力を確かめるため、戦いを始めてから暫くの間、双方共に様子を窺っていた前回とは違う。
――ほんの僅かでも、先にしくじった方が負けだ。
 元々衰えている体力を出し渋るよりも、一閃一閃に有りったけの力を篭め、隙を突いて致命傷を与えた方の勝利。
 相手の技を最小の動きで躱し、挑発的な攻撃で翻弄する巧みな剣技は、今の蘢には余り見られない。玄武の放つ剣撃を受け止めつつ、間隙を縫って刃を突き入れることに神経を集中させている。
 蘢の狙いは首や頸椎、肝や腎、そして心の臓と言った急所ばかり。そして其れは、玄武とて同様である。静寂とした無風の地は二人の殺気に満たされ、緊迫とした空気が張り詰めていた。斯様な状況下で、互いに必殺となる一刀ばかりを繰り出し打ち合う此の剣戟は、此れまで蘢が経験したどんな戦場よりも苛烈であった。
――やはり、此の男は強い……!
 表情に出すこと無く、蘢は慄いていた。片頬に冷笑を浮かべて彼を見下し、重厚な斬撃で容赦無く命を奪おうとしてくる玄武は、将に猛将。大戦の折り、『西の猛禽』『女帝の鷹』と呼ばれていた頃の強さは未だ健在なのだろう。
――何故だ……? 以前闘った時は、こんなに怖ろしくは無かったのに……
 気を抜けば剣を持つ手が震え出す程の恐怖と威圧感を覚えると同時に、蘢には解せなかった。何故、随加の時と比べて此れ程違うのか。何故、今の玄武には此処までの余裕が有るのか。
――いけない、気を散じるな。
 歯を噛み締め自分に活を入れながらも、中々勝機が見えず焦燥に駆られる。身体への負担は増していき、傷の痛みも伸し掛かってくる。
 そして蘢は、いつしか自分が防戦に追いやられていることに気付く。呼吸は乱れ、額には汗が流れて、気力と体力共に限界に近付きつつある。
――何とか……何とか活路を開かねば。だが……如何やって?
 頭上から落とされた一撃を弾き返し、蘢は一度飛び下がって玄武と距離を取る。体勢を立て直して再び剣を構えた瞬間、玄武は剣を持ったまま右腕を前に出した。刃を地面と平行にして蘢の方へと突き付けると、剣の周りに神気の流れが出来始める。不審に思った蘢は、玄武が何らかの呪を唱え、神術を発動しようとしていることを察知する。
 同時に、玄武の視線の先が己を捕らえていないことにも直ぐ、勘付く。鋭い鷹の眼は、蘢の立っている場所を越えた所へと向けられていたのだ。
――しまった!
 唇を噛んだ蘢は、咄嗟に後ろを振り返る。何故気付かなかったのだろうと、自分を責める。何時の間にか背後に居た……天真の姿に。
「天真!」
 蘢の声が大きく上がると共に、神力の風を纏わせた玄武の剣が振り下ろされた。放たれた風の凶刃が一瞬にして蘢の横を通り過ぎ、何が起きているのかすら認識していないであろう天真に襲い掛かる。即座に走り出した蘢は、天真の前で玄武の攻撃を弾こうとした。
 傷の痛みが蘢の動きを鈍らせ、剣を持ち上げる力すら奪い去る。間に合わないと判断すると、地を蹴って跳躍し、天真に体当たりする形で抱きかかえて押し倒す。
 避けられた疾風は蘢の背を斬り、彼の血を吸ってから消え失せた。其の様子を見ていた玄武は舌打ちを鳴らし、天真を抱いたまま地に倒れた蘢の許へと近付いて行く。
「詰まらん、久々に餓鬼を切り刻めると思ったのに」
 玄武は元来、女子供も平気で手に掛ける冷血な人間だった。随加で海賊をしていた頃は、船を襲い人々を惨殺し、戦に出られぬ憂さを晴らしていたのだ。蘢が庇うことは計算の上だったが、やはり仕留め損ねたことが気に入らないらしい。
「天真、逃げろ……!」
「蘢さん……!」
 天真を放して声を絞り出し、此処から離れるよう必死に促す蘢。背に受けた一撃は思った以上に深く、血が流出していくにつれて蘢の意識を朦朧とさせる。
「蘢さん、蘢さん……!」
 何とか立ち上がるも、其の場で動けなく為っているらしい天真は、眼に涙を溜めて幾度もしゃくり上げる。うずくまっている蘢も身体に力を入れようと試みるが、まるで上手くいかない。
「終わりか? 蒼稀上校」
 蘢と天真の側までやって来た玄武は大地に剣を刺し、しゃがんで蘢の髪を掴み顔を上げさせた。絶体絶命の危機に陥って尚、蒼く気高い眼をしっかりと開けて自分を見据えてくる蘢を、忌々しそうな顔で睨んだ。
 頭を掴み上げていた手を離したかと思えば、渾身の力を籠めて蘢の頬を殴る。彼の身体が崩れ落ち仰向けに倒れると、鳩尾の辺りを思い切り踏み付けた。
「ぐあっ……」
 青竜に斬られた部位を圧迫され、思わず呻き声を漏らす蘢。身体を強張らせて横に倒し、何とか横に傾けて傷を守るが、玄武は手加減すること無く彼を足蹴にし続けた。
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