金色の螺旋

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第八章 霞む四星

十.暗淵の救済
 緑鷹を『送った』後、瑠璃は廟を出て、珠帝から与えられた正殿朱鸞宮内にある居室へと戻った。
 転移の術を用いることで、一瞬にして室の前にやって来る。皇宮の深い所ではあるが、瑠璃の室付近に人は少ない。黒巫女の待遇は厚く、女官を数人与えられることに為ったが、本人が拒んだ。主が降り立つ可能性の有る此の場所に、人間を近付けたくなかったのだ。
 既に時刻も遅く、視界には誰も居ない。瑠璃は扉へ手を伸ばすが、取手に触れるか触れないかというところで、何かに弾かれたように動きを止めた。
――お出でになられたか。
 扉の向こう側から感じる、自分が纏うものと同じ種の力。黒神の巫女である瑠璃が、此の世で唯一身を震わせて畏怖し、また歓喜し、平伏さねばならぬ主君の神気。
 闇龍の魂に刻み込まれた主への畏れが、瑠璃の身体を強張らせる。一方で、主に会い見えることが出来る至福が、彼女を此の上なく悦ばせる。
 身を引き締めてから、ゆっくりと扉を開けた。音を立てず静かに閉じると、室の奥に在る大きな窓を見やる。四方に置かれた照明が放つ薄光に、人影が浮かび上がり仄見えている。
 瑠璃は歩み出て、膝を屈めて跪いた。
「……我が君」
 窓を背にして椅子に坐した、一人の青年に向かって首を垂れた瑠璃は、恭しげに声を掛けた。
「ご命令を果たすのが遅くなり、申し訳ございません」
 自分がつい先程まで何処で何をやっていたのか、報告する必要は無い。主は全て見通した上で、こうして降臨したのだから。
「心地良い、死の香りがするね……瑠璃。話して」
 頭上から降る主の声に、瑠璃は身を固くする。たった一声で彼女を魅了し、屈服させる……彼女にとって彼の君の声は、此の世で最も尊い玉音であった。
「御意」
 何を、と確認せずとも、瑠璃には主が問うていることがはっきりと分かっていた。そして態態語らせずとも、主には彼女の心などお見通しであることも。黒神は、こうして自らを曝け出させることで人を従わせるのである。
「随加で玄武将軍を助けた後、将軍の望みを聞き入れ、蒼稀上校の居場所を教えて珪楽へ向かわせました」
 此の行動は、黒神の意向ではなく瑠璃が独断で行ったもの。しかし其のこと自体は、禁じられていたわけでも彼の命に反したわけでもない。
「浅はかな私は、玄武将軍の願いを勘違いしておりました。蒼稀上校を殺し、珠帝の許へ其の首を持ち帰ることだと思っていた……青竜将軍の邪剣を受けた手負いの上校が相手なら、片腕といえど玄武将軍が負けるはずがないと……読みました」
 瑠璃の声は、はっきりとした震えを帯びていた。何を前にしても動じず、他人に心情を読ませない彼女からは想像出来ない様であった。
「されど、玄武将軍は其の時既に……死を覚悟していたのです。珠帝の御前に出るより先に、上校の手で死んでも……其れなら其れで、良いと思っていた。そんな彼と、何としてでも生き伸びようとする上校では、勝敗は分からなく為りまする」
 緑鷹の覚悟について、直接本人から聞いた訳ではない。だが離れた所から蘢との戦いを見守る中で、瑠璃は緑鷹が死ぬための機会を求めていると悟ったのだ。
「ゆえに、私は珪楽に赴き彼を助けました……私自ら彼の地に行くことはならぬという、貴方さまのお言葉を破ったのです」
 珪楽には蘢だけでなく麗蘭も居たため、下手をすれば顔を合わせてしまいかねない。今、神巫女たちが対峙することは、彼の君の意図するところでは無かったのである。黒の力に侵食され、瑠璃が自由に動くことが出来た妖霧の森ではかなり麗蘭に近付いたが、あの時とは状況が異なっていた。
「彼が『上校に破れて』命を落とすことは、恐れながら……貴方さまのご本意ではないと拝察いたしました。貴方さまは『私』に、珠帝から緑鷹を奪えと命じられたのですから」
 彼女が話した『玄武を助けに行った理由』は、嘘ではないが全てではなかった。危険を冒して聖地にまで行ったのは、主の考えを汲んだということよりも、自分の感情に従ったことの方が大きい。緑鷹を助けたいという、彼女自身の強い意思に身を任せたのであった。
 話し終えると、瑠璃は頭を上げぬまま主の御言葉を待つ。斯様な命令違反如きで、黒の神が怒りを示すとは思えない。結果的には、彼の描いた通りに為ったからである。
 其れでも瑠璃が怯えているのは、彼女が主に救いを求めていたがゆえ。主の言葉よりも緑鷹の願いを優先させてしまったことを後悔すると共に……言い表せない胸の痛みに困惑し、恐怖していたのだ。
「黒龍さま」
 顔を上げ、縋るような目で主を見る。程無くして発せられた彼の声は、瑠璃の予想していた通りの優しげなものだった。
「……おいで」
 瑠璃は主の手招きに応じて歩み出ると、誘われるがままに彼の両足を跨いで膝の上に乗った。主の尊顔は見慣れているはずなのに、瑠璃は其の余りの美しさに溜息をついてしまう。
 見た目は二十歳を過ぎた辺りというところの、女と見紛う麗しい青年。瑠璃と同じ艶やかな黒髪を結い、両瞳の色彩もまた、漆黒。変幻自在の彼は何時も異なる年齢の姿を取っているが、瑠璃の前には大抵此の麗姿で顕れる。狡猾な邪神は、彼女を支配するには此の姿が最も効果的だと見抜いていたからだ。
「苦しかったろう。光に晒された身体も、掻き乱された心も」
 聴く者を恍惚とさせる美声が、澱みなく流れ出てゆく。瑠璃の前髪を除けて額に手を当てると、彼女の双眸を闇黒の瞳で覗き込んだ。
「傷付いた身体は癒してあげよう。力が戻ったら、また行っておいで」
 黒の神は、巫女の腰に手を回して口付けた。打ち震えている彼女の唇を割って入ると、戸惑う舌を絡め取って吸い上げる。
 未だ若いとはいえ女としての悦びを良く知っており、どんな男でも翻弄してみせる瑠璃でさえ、黒神を前にすると接吻一つで陶酔させられてしまう。強過ぎず激し過ぎず、女の情欲を呼び起こすよう巧みに焦らす主に為す術も無い。
 何時も、同じ。暫くの間は黒の神力で満たされる快い感覚に溶けていられるが、何時も……次第に虚しさを覚え始めて耐えられなく為る。
……瑠璃が、神巫女としてではなく一人の女として黒神を欲していることを、彼が知らぬはずが無い……にも拘わらず、此の残酷なる邪神は、献身的な美貌の下僕を一度も抱こうとしなかった。其れどころか、欲望の欠片すら見せたことがなかった。
 こうして身体と身体をぴたりと付けて、愛欲に浮かされた物欲しげな眼差しで彼を見詰めてみても、生気の無い黒曜石の瞳は何の光も宿さない。低俗な妖や人間の男だけでなく、彼の異母弟である妖王をも誘惑する瑠璃の『女』をもってしても、彼を揺り動かすことは出来ない。
「……如何したの、今日は妙に煽るねえ。あの男が死んだから、寂しいの?」
 心なしか愉快そうな黒神の言葉に、瑠璃は我に返る。そして、無意識とはいえ主に対し、あんな視線を向けてしまったことを酷く悔やんだ。
「申し訳ございません」
 何時の間にか主の首の後ろへ伸ばしていた両手を引くと、瑠璃は思わず俯いて目を逸らす。
「あの男が気に入っていたのだろう?……珍しく君を悦ばせたから? 其れとも、君を愛していたから?」
「……あの方のことは、何も」
 自分を試すかのような問い掛けに対し、瑠璃の口から漏れ出たのは『偽り』の答。黒龍は其れを咎めようとはせず、彼女のしなやかな髪を、細い首筋を、長く形良い指で撫でた。
「君の……そういうところが、とても好い。脆く弱い一面を引き出して遊ぶと、少しも退屈しない」
 痺れるような美しい声で耳打ちされると、瑠璃の肩が跳ねる。珠帝や青竜将軍を前にしても怯むことなく、あの緑鷹をも虜にした瑠璃ですら、此の邪神の前では無力な少女同然。仕草一つ、言葉一つで自在に反応を操られてしまう。
「そんなに震えなくても良いよ。君は何時も通り、僕を満足させてくれたし……それに、ねえ? あの男にだって、彼の望む死を与えてやったじゃない」
 黒神は、再び瑠璃に深く口付けた。彼が与えた身を駆け巡る快感と甘い蜜の如き囁きで、彼女の身体はまたも熱を帯びて力を失う。主の唇が離れると、瑠璃は糸を引く淫らな舌で続きをねだってみるものの、黒の君主は少しも顔色を変えない。
「……耀蕎の息子も、好い顔で哭いていたねえ。首尾良く進んで、愉しくて仕方がない」
 はっとした瑠璃は、小さく息を吐いた。気を紛らわせるために何か言葉を発そうとして、懸命に探してみる。
「……茗の『朱雀』から……命まではお取りにならなかったとお見受けしましたが。其の……お心は?」
「意図的に殺さなかった訳ではない。死んだって生きてたって、どっちでも良かったのさ。只、『半神半魔の男』の『憎しみ』を深めることが出来れば良かったんだよ」
 そう答えた主の微笑は、美しくも残酷で容赦が無い。彼と同様瑠璃もまた、普段なら人間の生死になど拘りを持たないが、紅燐に対しては……何かが違っていた。
 桂花の下で黒神と会うように、紅燐を誘ったのは……瑠璃。昊天君への狂おしい想いを秘めた切なげな姿は、瑠璃の心にも鮮明に残っていた。
――同情……なのだろうか。叶わぬ恋に身を焼き尽くされているのは、私も彼女も同じなのだから。
 僅かな間、瑠璃は黒神から目を逸らしていた。紅燐、そして緑鷹……珠玉に仕えた者たちと出会い、それぞれの生き方や誇りに触れた日々を思い出し、滝川の流れのように過ぎ去ってゆくのを感じる。彼らに依って己の心が激しく騒ぎ、動かされた事実に恐れ慄く。
『あの男が気に入っていたのだろう?……珍しく君を悦ばせたから? 其れとも、君を愛していたから?』
 先程の、主の問い掛けに対する本当の答は……是。
――私は確かに、彼のことを気にしていた。忘れたかったのかもしれぬ……『此の方』を想う無意味さを。
 瑠璃が至純の愛を捧げる目の前の男は、決して彼女には応えない。千五百年前から受け継がれてきた闇龍の魂が、彼女に告げているのだ。『黒神』は、『瑠璃』を、愛さない……と。
 報われることのない思慕を抱き、苦しみ続ける瑠璃は、自分を心から愛して快楽を与えてくれる緑鷹に惹かれた。其れが、真実。真に愛しているのは緑鷹ではないが、特別な想いを寄せていたことは……否定出来ない。瑠璃が最も恐ろしさを感じたのは、其の事実であった。
――もし、緑鷹さまの望みが死でなかったとしたら……私はあのように平然と……彼の命を貫けただろうか。
 黒神は、身を竦ませた瑠璃の白い額に労わるような接吻を施した。彼女の濡鴉の髪を弄びながら、眼を細めて言葉を紡ぎ出す。
「『君たち』が、愛おしくて堪らない。『だからこそ』……奪いたく為る」
 自分の胸で震えている瑠璃に、邪神は『あの少女』の姿を重ねていた。今将に、己の運命を呪い始めているであろう……もう一人の『神の傀儡』である巫女の姿を。
「おいで……麗蘭。僕に奪われる前に、一つでも多く……守ってごらん」
 耳元で主の声を聴きながら、瑠璃は彼と目を合わせた。慈しむような、それでいて何かを期待するかのような黒神の瞳には、自分の姿が映っていないことなど分かっている。
 其れでも瑠璃は求めてしまう……在るかどうかも分かりはしない、主の『心』の片鱗を。そして、彼女は妬んでしまう。彼が追い求めている、『瑠璃ではない』何かを。
『瑠璃、おまえはどんな男にも靡かず、染まらないのだろうな』
……いつか、緑鷹がそう言っていた。彼にしては珍しい発言だったので良く記憶している。瑠璃自身、特に否定はしなかった。そう思われていても、構わないと思っていた。
――緑鷹さま……あれは、貴方の思い違い。私は、我が君の深淵に落ちて逃れられない。純黒の闇から出られぬことに、悦びすら覚えている。貴方に出会い、一時は此の苦悶から逃れたいと思ったが……結局、私は、そういう女なのだ。
 今は亡き緑鷹へ、声を出さずに語り掛ける。黒神の腕に抱かれて、隷属する狂喜に酔い痴れながら。
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