金色の螺旋

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第八章 霞む四星

二.桂花の下で
 逢魔が時……陽が暮れゆき天海が火色に染まる時、女は独り、闇への入り口を目指して淋しい林道を歩いていた。艶めく黒髪を結い、一際美々しく燃える真紅の眼を持つ其の女は、前を見据えてしっかりとした歩調で進み行く。
『白練の花が在る処へ。我が主が、貴女をお待ちです』
 突として話し掛けられた、妖しげな黒巫女に告げられた通り、女は白い花の咲き乱れる地へと向かう。誘いに乗ったとはいえ、彼女は巫女を信用していない。巫女と其の主は、彼女の主君に近付き厄を齎している疑いが有るからだ。
――あの巫女の言を聞き入れるなど、私は如何かしているのかもしれぬ……いや、如何かしているな。
 自嘲するように軽く笑んだ時、目的地近くまで来ていることに気付く。控えめな甘い香りが漂い始めたかと思えば、白い花を付けた木々が目に入って来たのだ。
――誰か……居る?
 芳烈な香りを散らす桂花の下、一人の美童が立っていた。黒漆の髪と瞳、白く冴えた顔は非常に麗しく、華奢な体付きからか少年にも少女にも見える。人間でいう歳の頃は十三、四で、調度大人へと変わり始める頃といったところだろうか。
――人、ならざる者。
 此の子供は人ではないと、一目で確信する。此れ程の美貌が、人として存在するはずが無い。斯様な美を神々が人に許すはずがないという、何の根拠も無い直感が頭を走り抜けたのだった。
 美しさ、だけではない。周囲の空気が……風が、異質なのだ。時折『彼』の頭上から舞い降りてくる乳白色の花が、葉が、彼の身体に触れること無く一瞬にして消失してゆく。目に見えぬ炎で焼き払われ、灰すら残さずに滅しているのである。
 無垢なる少年の姿をしているというのに、穏やかな表情で微笑すら浮かべているというのに、対した者に懼れを抱かせ威圧する。無機質で生気の宿らぬ闇色の双眸が、矮小なる人の子の心を暴き、抉り、暗黒に引き込んで突き落とす。慌てて目を逸らそうとしても、既に遅い。一度向かい合ってしまえば彼の虜囚として捕らわれ、其の美に魅了されて魂を奪われるか、恐怖に竦み動けなく為るかのどちらかと為る。
「貴方が、本当に……」
 思わず、疑念を漏らしてしまう。畏怖しているとはいえ、俄には信じられなかった。あの悪名高き邪神が子供の姿で顕現するとは、少しも予想していなかった。
「僕は好きな時に、好きな姿を取る。お望みなら、『黒』い『龍』にでも為ってあげようか? 君にとっては、此のままの方が良いと思うんだけど」
 愉しそうに言う少年は、屈託無く無邪気に笑う。女は自分の両手をしっかりと握り、不覚にも緩みそうになった気を引き締める。
――僅かでも油断したら、呑まれる。
 女は地に片膝を付き、頭を垂れた。人ならざる少年に敬意を示し、助力を乞う意思を伝えるために。
「黒巫女が、貴方さまがお力添えくださると」
 巫女の言う通り、目の前の少年が本当に『彼』であろうとなかろうと、『人を超越せし者』であることには変わらない。何者の手であろうと、借りねばならぬ時を迎えているのだ。
「……全て有りのままに、話してくれたなら」
 言葉が少なくても、彼が何を聞きたがっているのかは窺い知れた。
――何故、尋ねるのだろう。分かっていて……私を召したのではないのだろうか。
「貴方さまが本当に『彼の君』ならば、私の心などお見通しでしょうに」
 恐れを知らぬ、やや強気な物言いをしてみせる。敢えてそう振る舞ってみなければ、少年の威容に気圧されてしまいかねない。
「君の口から訊きたいんだ……咎人の罪を」
――私の罪……
 大切な恩師にさえも、命を懸け仕えてきた主君にさえも明かしていない……女の秘密。胸の奥深い所へと隠し守り抜いてきた、許されざる罪過。
――其れを、自ら曝け出せと仰せなのか。
 逡巡するも、女の答えはたった一つしか無かった。黒巫女の誘いに乗り、教えられた通りに此処に赴き少年と対峙した時から、運命は決している。
「……一度だけ、真心を込めてお慕いした方がおりました」
 さほど間を空けることなく、女は淡々とした調子で話し出した。
「其の御方も、私に愛をくださいました。私とは天と地程離れた貴き方ですから、たった一時でも……嬉しかった。あの方の隣にいた日々は、夢のようでした」
 茜色の空を見上げて大きく息を吸い込み、彼へと視線を戻すのと同時に溜め息をつく。
「されど、元より私には……あの方を愛する資格など無かったのです。私があの方に近付いたのは、主の命ゆえ。あの方を殺めるためだったのですから」
 主の命令、と言いながらも、主の所為にしているわけではない。女はあくまでも、最後まで己の使命を貫き通せなかったことを悔いていた。
「主にお仕えして十年以上経っていましたが、たとえどんな命を受けようとも、迷ったことなど只の一度も有りませんでした……なのに」
 一度言葉を切ると、女はそっと目を閉じた。過去の日に思いを馳せ、胸中から込み上げてくる熱を鎮め、潤み掛けた紅色の瞳を覆い隠すために。
「あの方が私に優しい眼差しを向けてくださる度、大切に抱いてくださる度……私は幾度も……自分の心臓に刃を突き立て血の涙を流しておりました。あの方の懐に入り込んだと……命を奪う隙を窺っているのだと主に報告する度、罪悪感で身を潰されました」
 少年は黙したまま、女の告白を数瞬でも見逃すまいと静かに見詰めている。女の心に見え隠れする悲痛に対し、同情するのでも哀れむのでもなく、只、耳を傾けている。
「……迷った末、私が選んだのは主でした。卑しい出の私を拾い上げてくださり、お側に置いて使ってくださった主に背き……あの方と共に歩むなど……如何して出来ましょう。あの方の命を狙っておきながら、何事も無かったような顔をして……」
 微かに震える声で紡がれる葛藤には、女の誠実さが表れている。生真面目過ぎる直向きさが、彼女の苦悩をより大きなものにしているのが見て取れた。
「だから、私はあの方を裏切りました。剣と殺意を向け、『完全なる敵』に為ろうとしたのです」
 女が其処まで話し終えると、少年は口を開いて穏やかな口調で尋ねる。
「其の時……君はどんな思いだった? 何に嘆き、何を呪った?」
 小さく項垂れ、暫し答えに迷った後に、女は首を横に振った。
「いいえ……何にも嘆かず、呪いもしませぬ。只、消えたいと願いました。其れが……身勝手な私の望みでした」
「……けれど、『彼』が君に制裁を加えることは無かった」
 力無く頷いた女の瞳から、一雫の涙が流れ出て頬を伝っている。十数年間、人前であろうとなかろうと、殆ど落涙したことの無い彼女が、如何いうわけか此の少年の前では感情が溢れるのを抑えられない。
「私から剣を奪って……只、悲しそうなお顔を為されました。卑劣な私を蔑むことなく、ご自分を裏切り寝首を掻こうとした私に恨み言ひとつ言うこと無く……只一言、『去れ』と」
 愛する者の苦しげな顔が脳裏に焼き付けられ、決して忘れることが出来ない。女にとっては其れが罰であり、彼の悲哀を抱えて生きることが贖罪であった。
「あれから二年経ち、主が私に下した命は……味方に付けろというものでした。意を決して、あの方の御前に立ってはみたものの……」
 城塞都市白林の直ぐ外で、再会した時のことを思い出す。閉じ込めていた情熱が甦り、我知らず余計な心情を露わにしてしまった。
『私は、貴方さまを再び……敵にしたくはありませぬ。応じていただかねば、次に見える時は刃を向けねばなりませぬ……あの日のように』
 口走ってから、女は自分の本心に気付いた。時を経た今も、彼の存在が如何に大きなものであるかを。覚悟を決めたとはいえ、本当は、彼と敵対などしたくないのだと。
「私を敵だと思ったことは一度も無いと、仰った。澄み切った濁りの無い瞳で、真っ直ぐに私を見詰めて……」
 あの時、再び会ってしまったがゆえに、女の歪んだ望みは膨れ上がり、何時しか抑えられなく為っていた。彼と接触したのは主の命で、『もしも』等という想像は無意味であろうが、仮に会わなかったなら、斯様に苦しみを重ねることは無かったかもしれぬ。
「……あの再会の日から……いえ、屹度もっと前から、私の中で奇妙な願いが生まれ出ました……狂っているのやもしれませぬ。しかし其の願いに取り憑かれ、他に如何することも出来ずに……今、貴方さまの御前に」
 女の話が終わると、少年との間に暫し静寂が流れた。女は目を伏せ、人ならざる者に依って下される大いなる裁断を待つ。跪く彼女を感情の篭らぬ瞳で見下ろし黙考した後、少年は深々と頷いた。
「卑怯で、醜悪で、純粋で……愛おしい程愚かな女」
 口の端を上げ微笑を浮かべて静かに言う様は、『少年』とは思えぬ威厳を感じさせる。女は身を固くして、彼の決定に耳を傾けた。
「君の願いは聞き届けた。最期の時まで抱き離さなければ、全て叶うだろう」
 其の返答を聞いて、女は閉じていた目を開ける。紅玉色の瞳から零れた涙を指で拭い、少年に向けてもう一度恭しく頭を下げた。
「……偉大なる御方よ、一つ、尋ねても宜しいか」
 女の問いに、少年は沈黙する。其の反応を無言の肯定と受け取った彼女は、ずっと気に掛かけていた疑問を思い切ってぶつけることにした。
「我が主を……如何なさるお積もりか」
 邪神……『非天』と取引をして、犠牲を要さぬはずが無い。女は己のことよりも、主に降り掛かるかもしれない災厄の方を案じていた。
「与える代わりに……其れと等しい価値のものを貰う。勿論、君からも」
 女の顎に優しく手を掛け顔を上げさせた少年は、彼女の双眸の奥を見詰め、捕らえる。女は彼の瞳が持つ深淵へと瞬く間に吸い込まれ、抗えなく為る……戻れなく為る。
「倦んで倦んで……仕方がないんだよ。何かを望む人間が居れば与えて……奪う。面白ければ、何でも好いのさ」
 心地良い少年の声が、女の耳から入って身体に溶けてゆく。美しい姿と魅惑的な声、甘い誘いでか弱き人間を失墜させ、意のままに弄ぶ。其れが残虐な戯れの一つだと分かっていても、人々は少年を……『黒の君主』を望んでしまうのだろう。
――魁斗さま。
 暗く冷たい闇黒が広がり、自分が其れに浸りゆくのを感じながら、愛しい青年の名を切なげに呼ぶ。声には出さずに、心の奥……深いところで。
――私は、貴方が此の世で最も憎む存在を受け容れる。そして今度こそ、貴方と私は……!
 かくして、邪神と結んだ女……朱雀は、魁斗を呼び出すに至る。己を、そして魁斗を、恐るべき禍事が襲うとも知らずに。
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