金色の螺旋

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第八章 霞む四星

四.深紅の女
 天近き『昊』の名を持つ公子、魁斗が国を出奔したのは、十六の時だった。
 父王が死に、血で血を洗う王座の奪い合いが有った。兄弟同士であっても互いの死を望み、醜い姿を晒し合い、遂には……魁斗が心から敬愛していた者を失うことと為った。
 自分を取り巻く世界を嫌悪し、忌まわしき現実に絶望した魁斗は、一族と絶縁する覚悟で魔国を飛び出した。其れ程までに、あの『家』の中に居たくなくなっていた。
 加えて、魔国で最も強く美しい公子であるがゆえに、生まれながらにして嵌められた足枷を取り払いたかった。半神半魔という稀有なる血が齎す、あらゆる威光を拭い去りたかったのだ。
 国を出て、一応は『解放された』はずだったが、魁斗の心は苦しみに喘ぎ、何かに枯渇していた。
 紅燐という女と出会ったのは、そんな折であった。
 偶然立ち寄った町で出会って惹かれて、女の凛とした美しさに捕らわれた。其のまま一夜を共にすると……もう、後戻り出来なくなっていた。
 彼にとって『初めての女』ではなかったが、心底から恋に酔ったのは、此れが初めてだった。全てに嫌気が差していたあの時、彼女の存在は強烈な深紅の光と為って魁斗に注がれた。
 珍しく他人に心を許した魁斗は、自分の出自や生い立ち等を含め、普段は人に明かさぬ様々なことを話した。幾ら並の少年と比べて大人びているとはいえ、相手が十歳近く年上の優しい女ともなると、少なからず甘えたい気持ちが出たらしい。若くして多くの辛酸を舐め続け、知らず知らずの内に傷付き続けてきた彼は、女に己を曝け出すにつれて癒され、救われた。そして同時に、時と場合に依っては彼女の存在が自分を弱くすることにも気付き始めていた。
 あの日、女が冷艶なる紅玉髄の瞳を細めて自分に剣を向けたとき、発する言葉を探し倦ねて戸惑った。悲嘆に暮れ、胸に迫る哀しみに押し潰され、果ては女を愛したこと自体を悔い、打ち拉がれた。
 今と為っては、あの瞬間を鮮明に思い出すことは出来ない。記憶を辿ろうとすればする程苦しみが増し、耐え切れなく為るのだから。



 魁斗が目を覚ましたのは、香鹿に一つだけある宿屋の一室だった。四神の一、朱雀……紅燐と取引きし、独りで香鹿村に赴いてはみたものの、彼女の気配はなく途方に暮れ、仕方無く宿を取ってみたのだった。
 あちらの要求通りの場所に来たからには、逃げも隠れもしない。麗蘭たちと早く合流せねばならぬこともあり、紅燐を探そうとも思ったが、止めておいた。一流の諜者である彼女が身を隠す積もりなら、そう簡単に見付かるはずが無い。逸る気持ちも有るが、紅燐が姿を現すまで待つと決めたのである。
――寝ちまってたのか。
 金の髪を無造作に掻き上げながら身体を起こし、やや着崩れた着物を直す。寝台に座ったままで格子窓を見上げると、隙間から薄曇りの空色が覗いている。
 巨大な力を有する魁斗だが、其れ故狙われることも多い。独りで旅をしていた時は、こうして宿に入っている時でも決して警戒を怠らず、不用意に居眠りすること等無かった。
 敵と闘うことを恐れ、怯えている訳ではない。むしろ剣を振るうことを好んでいるが、其の至上の剣技を無闇にひけらかすことはしない。真に強き彼は、己が本当の力を倒すべき敵にしか見せないと決めていた。
――独りでなくなると……途端に油断する癖が付くな。
 思えば彼が他人と共に行動するのは、紅燐と別れた時以来初めてで、二年振りのことだった。村や町に入り人と接触した時も、無意識に深い関わりを避けてきた嫌いが有る。
 恵帝に召され、麗蘭たちの旅に同行して欲しいと依頼された時も、恩人の頼みとはいえ返答に困り、迷った。麗蘭が光龍であることを聞いていなければ……更に、顔見知りの蘭麗を救い出す旅でなければ、受けなかったかもしれない。
 黒神の手で憎悪を刻み込まれ、複雑な出自ゆえに周囲からの邪心に曝され続けてきた魁斗は、世界と自分との間に高い壁を作り上げていた。そんな壁を打ち崩してくれた数少ない者の一人が、紅燐であった。
 白林近くで再会した時、彼女は自分の主である珠帝が魁斗を欲していると言っていた。しかし魁斗には、其の誘いに応じる気は微塵も起きなかった。
 一度は命を奪おうとしておきながら、手の平を返し『配下に』など、言語道断。珠帝のそうした性質に惹かれ、下った強者たちが居るのは確かであろうが、魁斗には受け入れられそうにない……そして其のこと以上に、珠帝の命により紅燐と引き裂かれた事実が赦せなかった。
――紅燐は『珠帝の命で』近付いたのだろうに……何処まで莫迦なんだろうな、俺は。
 手酷く裏切られようとも、未だに彼女を『敵』と認められない。脅迫染みていたとはいえ誘いに応じ、守らねばならぬ麗蘭を置いて単身此処までやって来てしまった。二年前、全て終わったはずだというのに。
『私は、貴方さまを再び……敵にしたくはありませぬ』
 あの時紅燐が口にした言葉は、彼女の真情なのだろうか。それとも、魁斗を惑わし任を果たそうとする、『朱雀』の手管によるものなのだろうか。
――分からないが……あの時のあいつは、確かに寂しそうに見えた。
 自分が恵帝の下で麗蘭に協力すると決めた今、紅燐が珠帝に仕えている限り、敵対する現実は変わらない。決して相容れることは無いのだと伝えるために、紅燐の誘いに対しはっきり『否』と言い切ったが、そうでもしなければ、迷ってしまいかねない自分が居たのだ。たとえ演技であろうと、悲しげな顔で目を伏せる彼女に手を差し伸べそうに為る……弱い、自分が。
 思考を纏められぬ自分に苛立ちつつ立ち上がり、刀掛けに掛けておいた剣を手に取る。何時来るとも知れぬ紅燐を待つ間、簡単に手入れをして、気を紛らわせようと思ったのだった。
 ところがそうする前に、魁斗は重大なことに気付いた。突として、信じ難い程凄まじい神力の持ち主が現れたことに。
――何だ、此れは……?
 余りの驚きに、動揺を禁じ得ない。整った顔に困惑の色を浮かべ、魁斗は刀の柄をきつく握った。
 神人でもなければ妖でもなく、ましてや神でもない、得体の知れぬ悪意に満ちた力。半神の魁斗ですら身震いさせる程の邪悪が、直ぐ其処にまで迫っている。
「まさか、そんなはずが……!」
 其の力の源に、一つだけ心当たりが有った。麗蘭や蘢から伝え聞いていた、ある人物の存在だ。不可思議な性質の邪力を纏い、鍛え抜かれた剛剣で人界中に名を知られた彼の将は、麗蘭を拐かそうとした上に、蘢に瀕死の重傷を負わせたという。
『私が青竜上将軍にお知らせすれば、貴方がたの許へ直ぐに向かわれるでしょう』
 人離れした力を持つ青竜にとっても、闘神の血を引く魁斗は強敵に為る。魁斗が茗側に付く可能性が低いとなれば、おびき寄せて隙を衝き、戦い葬るのが得策と考えたのだろう。
『約束を違えたら、幾らおまえでも容赦はしない……おまえを「敵」と見なすということだ』
――俺を裏切ったのか。あれ程……言ったのに。
 紅燐は、敵。一度は裏切られ命を狙われた。彼女が自分に仇為すのは本心からではないのだと……信じていたが、甘かったのかもしれぬ。
――また、俺を欺いたのか。紅燐……!!
 唇を強く噛み締めると、刀を腰に差して部屋から飛び出し宿を後にする。気を強く感じる方角を見定め、曇天の下を矢の如き早さで駆け抜けて行った。
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