金色の螺旋

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第八章 霞む四星

五.淡い異香
 村を出て暫く走って行くと、平坦な草原が広がっていた。真白い穂先を靡かせる薄が続いているばかりで、視界を遮るものは一切無い。昼間だというのに太陽は厚い雲で隠され、空一面を染め上げているのは、淀み、くすんだ鈍色であった。
 茂る尾花の先に、魁斗が初めて目にする男が立っていた。長閑な背景に甚く不似合いな彼は、血の如く赤い右目以外を覆い、頑強な肉体にぴたりとした黒い衣服を纏っている。
 其の身から発する気は、人の身に宿すには余りにも大きい。男が佇み、息をしているだけでも大気を激しく震わせ、慟哭させる程の圧倒的な力は、魁斗に対し己が存在を知らしめているかのように見えた。
 正面から向かい合うと、男は長身の魁斗よりも背が高く体格が良い。束の間、目と目を見交わして、先に言葉を発したのは魁斗の方だった。
「俺を待ち構えていたみたいだが……何の用だ? 茗の青竜」
 眼前の男が青竜上将軍であることは、話に聞いていた風貌や神人にしては異質な神気から、問わずとも明らか。しかし巨大な敵と相対しても、魁斗の表情には一片の恐れも無い。
「……貴君が昊天君か。成程、見事な隠神術だ。朱雀からの情報を得ていなければ、分からなかっただろう」
 朱雀の名を聞き多少の反応は示したが、魁斗は平静を保ったまま言葉を続ける。
「おまえの主は俺を配下にしたがっているようだが、其の話ならきっぱりと断ったぞ」
 青竜は、何も答えない。魁斗は腰の刀に手を掛け半歩下がると、好戦的な目付きで笑み掛ける。
「戦り合うのなら、受けて立つ。俺には時間が無いんでね」
 戦いを挑まれるのなら、逃げる理由は無い。絶大なる強敵であり、簡単に勝てる相手ではないことは分かっていたが、魁斗には渡り合える自信が有る。今後も麗蘭たちに害を為そうとするのなら、此処で倒しておくべきだとも思っている。
 少しの間双方共に動かず、睨み合う。魁斗は警戒しながら相手の意図を窺っていたが、顔を隠していることもあり、全くと言って良い程掴むことが出来なかった。
「手合せ願おう、昊天君。貴君は此の先間違い無く、陛下の計画の障りと為る」
 低い声を響かせると同時に、青竜は背負っていた大剣を抜き払う。漸く戦意を見せた敵に、魁斗は大きく頷いて応えた。
「……言っておくが、私は貴君が半神であろうと、魔界の公子であろうと、懼れぬ。茗のため、陛下の御為とあらば容赦無く斬る」
 人界一と謳われる実力と、大国茗の禁軍を束ねる将としての雷名が、青竜の言葉に重みを与えている。普通の剣士ならば竦んでもおかしくない程の威容を見せられても、魁斗は泰然としていた。
「望むところ。俺とて聖安に付いている以上、障壁に為る奴は倒さねばならない」
 正眼に構えた青竜と、鞘から抜剣してやや斜め右上に構える魁斗。剣を突き合わせた瞬間から、より一層張り詰めた空気が流れ始める。
――紅燐、姿を現さないな。
 敵は青竜、他のことを考えている余裕など無いのだが、如何しても彼女のことが魁斗の脳裏を過ぎてゆく。
――だが此れで……踏ん切りが付いた。
 紅燐のことを頭から追いやるようにして地を蹴り、青竜の許へと飛び込んで行く。袈裟掛けに剣を下ろすと、下方から振り上げてきた青竜の剣と打ち合い、鍔迫りと為る。
 上手く捌いて間合いを取り、魁斗は俊敏な動きで再び踏み込む。神力を刀に載せているため、青竜の大剣と切り結んでも破損の心配は無い。凄まじい速さで剣撃を操り出し、敵の刃を受け流しては、また斬撃を落とす。
――何かが……変な気がする。
 互いに力を探り合っている早い段階で、魁斗は妙な点に気付いていた。刀を合わせるうちに、其の違和感は大きく為ってゆく。
――此れが青竜の剣か?
 名高い上将軍の剣は確かに重く、速い。だが、予想していたものと何処かが違う。
 更に其の感覚は、剣を重ねるごとに強く為ってゆく。攻撃を打ち込み、弾き返される度に、増々不自然さが際立ってくるのだ。
――気の流れが調和していない。青竜くらいの男が、力の使い方がなっていないなんて、有り得るのか?
 身に纏う力だけで見れば、確かに『金竜』を封じているという青竜の特徴に合致している。だが魁斗は、今相対している青竜が自分の力を操り切れていないと見ていた。戦いを始める前には分からなかったが、剣を交えてから顕著に為ったようだ。
――俺を殺すと言っている割には、決定的な一撃を出し渋っている。其れに、こいつからは闘気が殆ど感じられない。戦う意思が有るのか疑問な程に。
 蘢たちから聞いていた青竜は、命を奪うことを躊躇わぬ男だ。殺そうとしているにしては打ち込みが弱過ぎる。
 一度遠間に離れると、青竜は三尺もの大剣を右手で振り上げ、後ろへ回して右下方から左上方へと切り上げる。神力の疾風が生まれ刃を成し、離れた位置に居る魁斗へと投げ込まれてゆく。
 鋭利な風刃は音を生じさせながら周囲の草を切り刻み、大地を抉り取って土埃を舞わせつつ、瞬く間に魁斗を襲う。魁斗は其の場から動かず、青竜の攻撃を刀で次々と受け止めていった。
 刀を振るいながら、魁斗はあることを確信する。青竜が大きな神力を放出した時、決定的な事実を見抜いたのだ。
「おまえ、青竜じゃないな」
 彼がそう言い放った瞬間、青竜は突然手を止めた。大剣の剣先は下ろさぬまま、右眼を細くして魁斗を凝視する。
「……馬鹿げたことを。戯言を弄していると、命を捨てることに為るぞ」
 青竜に焦りの類は見られず、至って冷静である。だが魁斗には、此の男が『青竜ではない』と考えるに足る充分な理由が有った。
「隠している積もりなんだろうが、時々癪に障る気が漏れ出ている……黒神の手の者か?」
 魁斗が心の底から嫌う、黒い神と同質の神気。『青竜の振りをしている』男が有しているのは、紛うこと無き黒の力。
「力の性質を変化させ、俺の目を欺こうとしたんだろう。随分と器用だな」
 目の前の男が本物ではないと、既に信じて疑わない魁斗だが、偽者が己の神気の質をほぼ完全に変化させていたことについては素直に感心していた。加えて、青竜の真似を出来る程強い力の持主であることにも。
「目的は何だ。俺を麗蘭達から引き離し、足止めすることか?」
 男は魁斗の詰問に応えること無く、何かを考えているようだった。此れ以上魁斗を騙し続けることは出来ないと、諦めたのだろうか。
「……流石です、昊天君。偉大なる恩師を演じるのに……やはり私などでは役不足でした。幾ら『彼の君』にお力を借りたといえど……」
 男が突としてそう言ったかと思えば、彼の背後から漆黒の濃霧が現れ、其の身体を取り囲み始める。魁斗が驚き呆然としていると、男は霧の中で見る見るうちに姿を変えてゆく。やがて黒煙の中から現れ出たのは、魁斗が良く見知った人物であった。
「まさか……」
 意外過ぎる現実を突き付けられ、魁斗の顔色は一変する。手強い敵を前にしても揺らがなかった彼の心が、あっという間に掻き乱されたのだ。
「紅……燐?」
 かつて、魁斗が幾度も手指に絡めた黒々とした髪に、彼の姿を何度も映し出した紅玉の瞳。ほんの一時、愛を交わした心優しい女が、『敵』として姿を現したのである。
「おまえ……其の気は何だ? 何でそんな……そんな力を身に付けている?」
 彼女が『青竜』の姿形で現れたことよりも、魁斗にとって重要なのはそちらの方。黒神との関わりなど持たぬはずの彼女が、彼の邪神と同じ力を使って魁斗と戦っていたことが解せず、また受け入れられなかった。
 問われた紅燐は、魁斗の声が酷く弱々しいのを気にも止めず、目を伏せて事も無げに答える。
「貴方を今度こそ、殺す為に……力を借りたのです。いと高き闇の君主に」
「何……だと?」
 魁斗の思考は混乱していた。何を、如何すればあの憎き神と紅燐が結び付くのか、皆目見当が付かなかった。只、はっきりとしていることは一つ。彼女が黒神の力を其の身に湛えているということ。
「奴に身を委ねたのか……?」
 尋ねずとも、紅燐の返答を待たずとも、疑問の余地は無いのだと、魁斗はちゃんと分かってはいた。
「何で……其れが如何いうことか、分からないおまえではないだろう?」
 人ならざる者……非天と接触し、あまつさえ邪悪な神力を分け与えられる。斯様なことが、何の犠牲も伴わぬはずが無い。
「人の身で、そんな力を出していたら……おまえの身が保たない。下手をすれば……死んでしまうぞ」
 今更そう言ってみても、もはや遅い。青竜に変化して戦っている時から、既に気と力を制御出来ていなかったのだから。
 紅燐自身涼しい顔をしてはいても、彼女の身体は黒神の力に依って破壊されかけていた。邪神の力とは、妖たちを狂わせ死に追いやる程の凶悪なもの。人である紅燐が受け容れて、無事で済む訳がないのだ。
「存じています。私は命を捧げてでも、貴方を殺さねばならぬのです」
 清楚な美貌には、血の気が無く疲労の色が滲み、こめかみに汗の雫が浮かんでいる。女性にしてはやや広めの肩は上下を繰り返し、良く見ると手足もまた、不自然に震えていた。
「何故、其処まで……珠帝の命か? 主命が、おまえに命を投げ出させるのか?」
『我が主、珠帝の命なのです』
 二年前のあの日、紅燐は確かにそう言っていた。魁斗にしてみれば納得のいく理由で、其れ以外は考えられなかった。紅燐が彼に対し殺意を持つ程の私怨を抱いているなど、ある訳が無い。
「……昊天の君、貴方は私に何を期待しておいでなのですか?」
 紅燐が言い放ったのを聞き、魁斗は己の耳を疑う。自分に対して彼女が斯様な物言いをしたことなど、此れまで一度たりとて無かった。
「私が貴方を狙うのは主命であるからと、ご自分を納得させたいのですか? 貴方の敵は私ではなく、『珠帝』なのだと……信じたいのですか?」
 淡々とした紅燐の言葉に胸を突かれ、魁斗は言葉を失った。気付いてはいたものの自ら認められずにいる、心の内を鋭く言い当てられ、彼女の問い掛けに直ぐ答えることが出来なかった。
――確かに、俺は自分を安心させたいだけなのかもしれない。愚かなことだとは思う。だが……悪いことなのかどうかは、良く分からない。
 下ろしていた刀の柄を握り締めると、魁斗は軽く目を閉じた。
――再び俺を裏切ったなら、容赦はしないと……『朱雀』を敵として見なすと、はっきり告げた。必要なら戦いも辞さないと思っている。だが黒神の所為で……紅燐が傷付き命すら奪われそうに為るのを、黙って見過ごしていいのか? いや、良いはずがない。
 渦巻くのは、紅燐ではなく黒神への怒り。紅燐の命など気にも留めず、彼女と魁斗の因縁に土足で踏み入った彼の邪神が赦せない。魁斗は自問し自答することで、己の心を確かめてゆく。
――やはり俺には……紅燐を憎むことなど出来ないのだろう。其れに……
 黒神と結び付くという、考え得る最悪の方法を選択した紅燐。彼女が其の身に受けた黒の力を一刻も早く浄化せねば、取り返しの付かぬことに為る。
――俺は、紅燐を死なせたくない。助けたい。紅燐は……未だ俺を……!
 そう強く思ったのは、魁斗が紅燐の真意の一端を掴んだと確信したからであった。しかし彼女を救うには如何すれば良いのか、上手くいきそうな手段が浮かんでこない。
「貴方さまは、もっとお強い方だと思っておりましたが……裏切り者の女一人に罰を与えることも出来ないのですか」
 呼吸を乱しながら、紅燐は嘲笑する。魁斗は其の笑みが、彼女の優しい顔に全く似合わないと思った。
「……では、ご覚悟を」
 口端をきゅっと結んだかと思えば、紅燐は魁斗の視界から消え失せた。間を置かずに下方に現れると、彼の首を狙って剣を薙ぎ払う。
 刃を下にして受け止めた魁斗は、手に伝いくる大きな衝撃に度肝を抜かれた。此れは、女の筋力で出せる力ではない。
「紅燐っ……止せ!」
 彼の制止を気にせず、両の手で刀を握り畳み掛けて攻撃する紅燐。刀には黒の力が載せられ、一太刀浴びれば骨を打ち砕かれかねない程の斬撃を作り出している。
 全てを無理なく打ち返してゆく魁斗だが、反撃することはない。紅燐から刀を奪おうとしてみるが、黒神に依って身の内に眠る力を引き出され、高められた今の彼女には、中々隙が生まれない。
 まるで何かに取り憑かれたように、紅燐は刀を振り被り、突き、斬り払う手を休めない。元来穏やかな彼女とは別人に見える其の様が、魁斗への殺意ゆえなのか、心まで邪気に喰われたからなのか……或いは別の、強い想いゆえなのか、魁斗は見極めようとしていた。
 紅燐の剣は激しさを増し、同時に彼女を覆う闇の力も強まってゆく。神力が増幅される一方で人らしさが薄まり、身体に掛かる負荷は大きく為る。
……やがて限界に達したのか、紅燐はよろめいて剣を下ろし、片膝を付いた。心の臓が異常な音を立て、全身を流れる血が火のように熱い。上手く息を吸い込めず、苦しさの余り胸を掻き毟ってしまう。
「紅燐、もう止せ。本当に死んでしまう」
 地に突き刺した剣で身を支え、必死に立ち上がろうとする紅燐に、魁斗が手を差し伸べる。しかし、彼女は息絶え絶えに為りながら其の手を払い除け、心配げに見詰める彼を鋭い目で射抜いた。
「如何して……!? 何故殺そうとなさらない?」 
 其れは、苛立ちと困惑が混ざった声だった。
「此の力が……憎いのではないのですか? 其のお美しいお顔を歪ませて……黒神への憎悪を話してくれたでしょう?」
 刀を掴んでいる手が滑り、紅燐は横に倒れそうに為る。魁斗が支えようと身を屈めるも、彼女は自ら体勢を立て直し、首を横に振って彼の助けを拒否するのだった。
「貴方には……此の先果たさねばならぬ崇高な使命が……お有りのはず。こんな所で……足止めされて良い理由など無いでしょう?」
 震える唇は青褪め、顔は死人の如き土色だが、紅の瞳だけは強い彩光を湛えている。生きる力を掬い取られた身体とは異なり、心は未だ熱を篭めているようだ。
――何故、如何して……俺にはおまえが……死に急いでいるとしか思えない。
 魁斗には、紅燐の思考が普通ではないと分かっていた。彼が何よりも憎む黒神の力を借りたからといって、そう簡単に彼女を殺そうとするはずがないではないか。
 其れに感情もまた、乱れている。魁斗を殺すと言って凄んでいたかと思うと一転して、自分を傷付けない魁斗を煽っているのは、不自然に見えてならない。
――黒神に魅入られた所為か……
 彼の神に対する憎しみが、魁斗の中でじわじわと甦り……炎々と燃え広がる。激発する熱情に呑まれそうになりながら、何とか己を保ち理性を守ろうとする。
「もう、止めよう。おまえの本当の望みは俺を殺すことではないんだろう?」
 言い当てられた紅燐は尚も屈さず、魁斗を見上げて烈々たる瞳を輝かせている。
「何を……仰る。私は……」
「俺を殺す力を得るのが目的なら、何で態々青竜に化けたりしたんだ?」
 魁斗の言葉は容赦無く核心を衝く。彼女を救うには、既に時が無いのだ。
「おまえが殺したがっているのは他でもない、おまえ自身だ……違うか?」
 そう言った途端、紅燐の双眸に暗い影が差したのを、魁斗は見逃さなかった。自分が放った言葉こそが事実だと、信じていた彼ではあったが、其の内容は酷く残酷で、哀しいものだった。
 真情を見破られた紅燐は愕然とし、遂に刀を手放した。支えを失った身体は横へと倒れ、透かさず動いた魁斗に抱きかかえられる。魁斗は紅燐に直接触れることで、彼女を蝕んでいる黒神の力を感じ取ることが出来た。
――俺ではだめかもしれない。だが、やってみるしか……
 自分の掌で紅燐の額を覆うと、呪を唱え始める魁斗。彼が持つ聖の神気に依って、彼女の受けた穢れの浄化を試みていた。
 だが暫く術を続けてみるものの、一向に良くなる気配は無い。彼自身は当然強力な力の持主だが、半神半魔であるがゆえに、此れ程巨大な邪気を清めるのに必要な『聖』の性質を持ち合わせていないのだ。
――奴め、俺が消し去れない程の力を注いだな。
 怒り、焦る魁斗の腕の中で、紅燐は震えていた。全てを諦めたからなのか、魁斗に抱かれているからなのか……つい先程まで燃え盛っていた紅燐の心は、嘘のように落ち着きを取り戻していた。
「魁斗さ……ま……」
 魁斗が見抜いた通り、紅燐の真意は『贖罪』只一つ。選んだ手段は、出来うることなら彼自身に罰せられたいという……真面目過ぎる彼女の、彼女なりの贖いの形。
――貴方が私の真の願いに気付いてくれるとは、思っておりませんでした。貴方が私如きの心情を理解してくださるとは……
 今更に為って、紅燐は気付いた。魁斗のことを信じられなかったのは、彼という青年を良く解せていなかったのは、自分の方だったのだと。
――私は貴方さまを欺いたのに、貴方さまは私を……ずっと信じて下さっていた。私が……如何に醜い姿を曝そうとも。
 紅燐は自分の口に手を当てると、背を丸くして激しく咳き込む。妙な感触を覚えて手元を見ると、鮮紅色の血が大量に付いていた。
「紅燐!」
 血に染まった彼女の右手を握り締めると、魁斗は苦悶の表情を見せて術に籠める力を強める。
「くそっ……!」
 黒神の力を前にして為す術も無い魁斗は、絶望に近い無力感に苛まれた。半神と呼ばれ持て囃されているものの、大切な者一人守れない自分が恨めしく、歯痒かった。
『与える代わりに……其れと等しい価値のものを貰う』
 朦朧とする紅燐の意識の底で、黒神の言葉が聴こえくる。こう為った今、邪神が奪い去らんとしているものが、紅燐にも漸く分かった気がする。
――私に……私が望む死を与える代わりに、愛しい魁斗さまを更なる奈落へと突き落とす……
 珠帝の命を果たせず、想い人を裏切ったという罪の意識により、死を以って償おうとした紅燐。魁斗を苦しめるという『対価』が、誠実で正直過ぎる彼女にとってどれ程酷なことなのか、黒神が知らぬはずはない。
「申し訳ありま……貴方の仰る……通りです。魁斗さ……」
 言い掛けて、咳き込み噎せてしまう。冷えてゆく身体を温めようとしたのか、魁斗は弱った紅燐をきつく抱き締める。ところが黒の力は、紅燐の命火をたちどころに奪ってゆく。
『君の願いは聞き届けた。最期の時まで抱き離さなければ、全て叶うだろう』
――私の願いは……魁斗さま。貴方の腕の中で……
「紅燐……! 紅燐……!」
 魁斗の呼び掛けも虚しく、紅燐の瞳は閉じられた。手足から力が抜けて萎れた花のように崩れ、間もなく動かなく為った。
「紅燐……」
……暫し其のままで、紅燐を抱いていた魁斗だったが、彼女の血で汚れた口元を着物の袖で拭いてやり、柔らかな草の上に横たえてやる。改めて其の美しい貌を見下ろしてみると、あれ程苦しみ抜いたにしては、穏やかで安らかな表情で、眠っているだけのようにも見える。
 久し振りに腕に抱く紅燐からは、微かだが桂花の香りがした。魁斗の知らぬところで彼女が纏った、異香であった。
 黒神の気は忽然と消え失せ、紅燐の気も完全に無くなった。其れは彼女が『死んだ』ということを意味していたが、魁斗には如何にも信じられない。『命を奪われた』というのは明らかであったが、俄かには受け入れられるはずが無い。紅燐は魁斗にとって、今でも掛け替えのない女なのだ。
 小刻みに震える両手で人形のような紅燐を起こし、胸元に耳を近付け心音を確認しようとする。其の時、魁斗の背を戦慄が駆け抜けた。
 ぞっと総毛立つ感覚が全身を巡ってゆく。四肢が硬直し、振り返りたくても振り返れない。
――誰だ……誰の気だ?
 涙で霞んだ両目を袖で擦り、地面に投げていた刀を握る。正体不明の『力』を感じた方向へ何とか向き直ると、見覚えの有る黒衣の大男が歩んで来ていた。
「おまえ……まさか」
 先刻、紅燐が『其の姿』を取って現れた時とは、存在感がまるで違う。覆いで隠していない方の右目も、色彩と形は同じはずなのに、宿している眼光の質が異なる。人の形をしていながらも人ではない……しかし、確かに人であるという、度し難い、実に解し難い男。
「おまえが……青竜?」
 男は答えぬまま立ち止まり、魁斗を見据えていた。魁斗も彼から目を逸らせず、一瞬の油断も許さぬ緊張感が漂う。身を切られる哀しみと怒りに捉われ、気がおかしく為ってしまいそうな動揺が、男を前にしたことで冷まされ収まっていた。
――こいつ……本当に人間か? だが、かと言って……妖でもなければ神でもない。
 魁斗は此れまでに、妖だけでなく天の神にも非天の邪神にも会ったことがある。何れの存在にも……此の男は似ていない。
「……昊天君とお見受けする」
 低く響く青竜の声に、魁斗ははっと我に返った。
「朱雀を殺めたのは貴殿か?」
 青竜は冷静其のものだったが、彼の内に秘められた憤りと殺意を、魁斗は見逃さなかった。無論問いの答えは否であるが、もし是と答えれば、其の瞬間、斬りかかられていたかもしれない。
「……断じて、俺ではない」
 再び渦巻く、感情の奔流に手足が震えるのを抑え、声を振り絞って言い切る。真偽を確かめようとしているのか、青竜は暫時、差すような視線を魁斗に向けていた。
「……では、黒の邪神か?」
 そうだ、と答えようとしたところで、魁斗は言葉を飲み込んだ。黒神の術が原因で紅燐が倒れたのは事実だが、其処まで彼女を追い詰めたのは自分自身なのではないかという考えが、頭を過ったのだ。
――俺が、紅燐を殺したも同然……なのかもしれない。
 彼女が如何な経緯を辿り、黒神と結ぶに至ったかは分からない。だが何か切っ掛けは有ったはずだ。茗入りして間もなく、あさぎを通して話した時か。其れとも白林近郊で二年振りに再会した時か……いや、もっと前なのだろうか。
――もし俺が、違う言葉を掛けていたのなら……結果は違っていたのか?
 僅かな間、青竜と対峙していることを忘れ、紅燐との記憶が巡っては去ってゆく。耐え難い心の痛みゆえに、胸奥へとしまい込んでいた彼女との時間が、今更に為って呼び戻され甦る。
――助けられなかった……殺したい程憎い奴に、こんなに呆気なく奪われてしまった……!
 魁斗が返答に詰まっている間に、青竜は紅燐の許へと歩いてゆく。接近されても、魁斗が動くことは無かった。青竜から戦意が消失していたからだ。されど、たとえ青竜から殺気を感じていたとしても、魁斗は臨戦態勢に移れなかったやもしれぬ……彼は、憔悴し切っていた。
 青竜は片膝を付き、手袋を嵌めた手を紅燐の額に当てる。彼女の体内を流れる気を探り、死に至らしめたものは何なのかを突き止めようとしていた。
……そして、青竜は気付く。気を散じた魁斗が見落としていた、ある重大な点に。
「昊天君……朱雀の受けた『傷』が貴君に依るものではないことは、良く分かった」
 力の無い紅燐を起こした青竜は、其のまま彼女を横抱きにして立ち上がった。茫然と立ち尽くしていた魁斗は青竜へと向き直り、再びしっかりと目を据えた。
「貴君と朱雀の間柄を良くは知らぬが、敵であることには相違無い……そうだな?」
「……ああ」
 否定したくとも、しようがなかった。『朱雀』の上官であり師でもある青竜に、「昊天君の前に命を投げ出した」などと言えば、茗側にとっても、紅燐が完全なる裏切り者に為ってしまう。
「朱雀は茗の女、珠帝陛下の臣下だ。私が連れ帰ることに異存は無かろう」
 其の言葉に、魁斗は確信した。今の青竜は争いを避けようとしている。一刻も早く紅燐を連れ出し、静かな場所へと運んでやりたいのだ……と。
 何も答えぬ魁斗に背を向けると、青竜は元来た道を引き返して行く。二人の男には……此の時だけは、互いに何の敵愾心も無かった。有るのは只、大切な存在を奪われたという哀切と悔恨の情、黒神への怨嗟だけだった。
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