金色の螺旋

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第八章 霞む四星

七.赤光の盟約
 十九年前、あの雨の日。珠妃と呼ばれていた女の命により、緑鷹は主君を弑逆した。彼の王は名君と呼ぶに十分な王ではあるが、保守的で退屈させる王だった。其の治世に安定は望めても進化は望めぬという、凡庸ではないが非凡でもない、無難な為政者であった。
 緑鷹にとっては、大して思い入れのある帝ではなかった。此の先何年仕えても何の面白味も無い、詰まらぬ男だと思っていた。ゆえに暗殺の下命は刺激的であり、珠妃という女に対する興味をより一層掻き立たせた。
 王が死に、珠妃の即位が決まった日の夕刻……緑鷹が紫暗を訪ねる前。珠妃は後宮とは別の自分の宮に、緑鷹を人知れず召致した。当時から警戒心が強く、自室に他人を入れようとしなかった彼女が緑鷹を呼んだのは、此れが初めてだった。
 生成りの白い喪服を纏った珠妃は、長椅子に腰掛けて手摺に肘を置き、悠然と構えて微笑んでいた。彼女はまだ二十歳にも為らぬ、うら若き嫋やかな美女。帝国一と謳われる美貌は花開いたばかりだが、威風は既に、長年玉座に君臨する王の其れであった。
 彼女の鮮やかな笑みを見たとき、緑鷹の目は思わず眩みそうに為る。自分の下した命とはいえ、夫を喪って悲しそうな表情をするのでもなく、企みが成功して満足げな表情をしているのでもない。彼女にとっては至って普通の、何時も通りの艶笑は、ほんの一瞬ではあったが緑鷹を凍り付かせた。
「緑鷹、実に冴えた……見事な一閃であった。やはりおまえに任せたのは正しかった」
 今朝方、緑鷹が皇帝の御首を一刀のもとに刎ねた時、珠妃も其の場に居合わせていた。其れは彼女の命令であり、譲れない要望でもあったのだ。
「お褒めに与り光栄です」
 跪いた緑鷹は、ぎこちなく頭を垂れて応えた。未だ年若く、只でさえ気位の高い彼は、貴人の前での振る舞いに慣れていなかった。
「おまえの働きで、妾は玉座を得ることが出来た。おまえの望みは何だ? 妾に叶えられることなら、何なりと聞こう」
 そう言われ、緑鷹は暫し沈思していた。珠妃の申出を訝しがり、彼女が美麗な笑みと言葉の裏に隠した真意を探っていた……彼は珠妃の次の出方を警戒していたのだ。暗殺を請け負った自分は口封じのため、殺されてもおかしくないのだから。
「……一つ、お尋ねしても?」
 謀叛の話を受けた時から、緑鷹には気に為っていたことが有った。手筈通り皇帝を殺し、自分に命が残っていたら、珠妃に尋ねてみようと思っていた。
「何故、私をお選びになったのですか。剣の腕ならば……少将の方が優れているはず」
 彼の言う『……少将』とは、後に青竜と呼ばれる青年のことである。矜持に満ち、己の実力に自信を持つ緑鷹らしくない問いだった。しかし、少将の腕は此の頃既に帝国随一と言われており、緑鷹でさえも素直に認めざるを得なかったのである。
 緑鷹は頭を下げたままであったが、彼の声からは、腹立たしいのか悔しいのか、とにかく得心がいかないという心情が漏れ出ている。主の前でもそうした感情を隠し切れない彼を見下ろし、珠妃は愉しげに答えた。
「おまえならば、一太刀で陛下を斬れると思ったからこそ……任せたのだ。少将は陛下に恩が有った。確かに力量は申し分無いが、其の時に為って剣閃が鈍らないとも限らぬ。彼奴は真面目過ぎるからのう」
 其の答えは、緑鷹が予想していたものと大体のところ一致していた。彼は少将と同じ禁軍属ながら、直下で働いたことは無い。只、少将が愚直なまでに堅実な男だということは聞いていた。
「一撃で……冥府へ送ってもらわねばならなかったのだ。陛下を苦しませるのは、実に忍びなかった」
 珠妃の此の言葉は、緑鷹の予想を飛び越えていた。彼女ともあろう『女傑』の発言とはとても思えず、彼女の本心とも思えなかった。
「其れは……真のお心でしょうか」
 怪訝そうに、憚ることなく問うた緑鷹に対し、珠妃が気分を害した様子は無い。
「信じられないであろうが……緑鷹よ。妾は陛下を愛していたのだよ」
 彼女の眼差しは驚く程優しく、切ない。其の瞳こそが真実であると……緑鷹には見抜けなかった。
「では……」
 何故弑し奉ったのですか、と口に出し掛けて、止めた。愛していたなどと、綺麗な虚飾を並べる珠妃の矛盾を突いてやろうと思ったのだが、下手な失言で彼女の感情を逆撫ですることは、今は賢明ではない。
 されど、珠妃は緑鷹の内心を容易に見抜いていた。彼女は不意に立ち上がり、黄昏の赤光が注ぎ込む窓辺へと歩いてゆく。雨が降っているというのに、雲間から落陽が見えている……そんな珍しい夕空を仰いだまま、静かに呟いた。
「愛した御方と寄り添い、生を終えるのも……良いのだろう。だが妾には、何かが違った。あの違和感に耐えられなかった……妾が全てを懸けるべきものは、他にあるのではないかという疑念に、辛抱出来なくなったのだ」
――では、結局……愛していなかったのではないか。
 緑鷹は、珠妃の言うことを少しも飲み込めなかった。彼自身、愛というものを知らぬ。しかし此の女が真情を述べているのだとすれば、彼女の『愛』が普通の人間の言う『愛』と違うのだということは、何となく理解していた。
 腑に落ちない顔をした緑鷹の方へ向き直ると、珠妃は再び華の如く微笑んだ。其の時には、僅か一時見せた憂いの表情ではなく、何時も通りの強かな顔に戻っていた。
「おまえの望みを……当ててやろうか」
 身を屈め、片膝を付いている緑鷹と目線を合わせると、耳元で妖しく囁く。其の艶声は、若い緑鷹をいとも簡単に扇情する……悪戯めいた色香を含んでいた。
「おまえは一見単純で、刹那的な生き方をしていると思われがちだが……実際は表層だけだ。心奥ではより深く、尊く気高いものを望んでいる」
 短気で気性が荒く、傲岸不遜で利己的。冷酷で、己の欲望を満たすためなら手段を選ばぬ男。少年の頃から、周囲の緑鷹に対する見方は変わらない。本人にもそうした自覚が有ったため、珠妃の口にした評価は思い掛けないものだった。
「……おまえは羽虫を潰すように人を殺し、傷付ける。まるで玩具を扱うように……女を犯す。そういう面ばかりが表に出て、おまえの真の志を覆い隠しているのだ」
 事実緑鷹は、其の人間性が起因と為り軍内部でも持て余されていた。恐ろしく腕が立ち、天才と呼ばれることも有ったが、運が悪ければ将校にすら為れなかったやもしれぬ。
――思えば……俺を何かと取り立ててくれたのは、此の女だけだったな。
 貴族の出でもない、何の後ろ盾も無い彼に目を掛け、事あるごとに機会を与えてくれたのは……他の誰でもない、珠妃ただひとりだけ。
「妾の下には、意志無き者など要らぬ。『王たる』妾と近しい夢を持つ者にこそ、相応の地位を与えて歩ませたい。おまえの望みは……」
 黄みの白い喪服袖を払い、繊細な指先で緑鷹の頬に触れる。凝然たる彼を、炎炎とする双眸に映し込み、凜凜と言い放った。
「高みへ……より高みへ。己の剣でのし上がり、一国を……やがて此の世を震撼させる男と為る。其れこそが、おまえが真に成し遂げたい夢であろう」
 たった一言が、緑鷹を茫然とさせる。雷に打たれたような衝撃に、彼は目眩を覚えそうに為った。珠妃の言葉が、何年もの間忘れていた宿望を思い出させ、彼を心底から揺さぶったのだ。
「……約束しよう。至高の玉座に付いた妾の剣と為ってくれるのなら、妾が……茗の王たる妾が、おまえが高みへと上る助力と為ろう」
 緑鷹は放心して絶句したまま、暫しの間動けなかった。紫暗とだけ共有し、忘却していた遠大な夢を、眼前の女に難なく言い当てられてしまったことが信じられない。だが同時に、自分でも不可思議なことに、浮き立ち躍るような感覚を抱き始めている。
 彼が惚けていると、何時の間にか珠妃は椅子に戻って座していた。
「如何だ。おまえの口から……応えてくれぬか」
 反射的に顔を上げた緑鷹は、彼女の艶姿を再び目に入れる。きつい西日に照らされて、珠妃の纏う白い着物は赤く染め上げられていた。其の様は、彼女の心から迸る炎が全身を包み込んでいるようにも、彼女が殺した夫の血を浴びたかのようにも見えた。
……熾烈な光に晒され、緑鷹はゆっくりと目を閉じた。


 残照が消え掛け、宵闇広がる時分。紫暗の屋敷から帰って来た緑鷹は、何時も通りに待っていた瑠璃を抱いた。事を終えて暫し余韻に浸った後……酒が入っていたこともあってか、彼はやや饒舌に為り、今まで語ろうとしなかった己の過去を、ぽつりぽつりと話し出したのだった。
「其れで、何と答えたのだ」
 寝台の上、緑鷹の傍らで横臥していた瑠璃が、彼の頬に刻まれた傷を手の甲で撫でている。閉じていた瞳をうっすらと開いた緑鷹は、小さな溜息をついて首を横に振った。
「……忘れた。其の後が思い出せん」
 ややぞんざいに言うと、顔を逸らしてまた瞑目する。
「本当か? 一番重要なところではないか」
「……二十年も前の話を、みんな覚えているわけがなかろう」
 珍しく答えを追求してくる瑠璃を躱し、残った右手で彼女の髪を梳く。珪楽で蒼稀上校から受けた右肩の刺傷は、『黒の神巫女』の神術で塞がれているとはいえ未だ……痛む。
 聖地珪楽より帰ってからというもの、瑠璃の黒い神気は確実に弱まっていた。隠神術を維持するのも辛いらしく、緑鷹と居る時はほぼ完全に解いている。身体が拒む聖の神気を大量に受けた所為、というのは明らかで、暫く経った今も回復の兆しは見えなかった。
 こう為ることは、聡い瑠璃には当然分かっていたはず。あの時、無理をして緑鷹を連れ帰ったのは何故なのか……彼には分からなかった。
――俺に情が湧いたのでもなかろうに。
 非天という者は、人と同じ心を持たぬそうだ。特に『黒神の黒巫女』というのは、美しい姿をしてはいるが魂は獣の其れであり、本心から泣くことも笑うこともない。殺戮を好み、色を好む性は、此の世の悪の象徴たる黒神ととても似通っているのだという。五百年ごとに転生するが、闇龍として生まれた女は皆同じ性質を持つらしい。
 普段書など読まぬ緑鷹が、瑠璃が闇龍であると知ってから手に取った書に記されていた。真実かどうかは分からぬが、完全に外れているということもないのだろう。
「俺は、陛下に会いに行く。恐らく……おまえとはもう会えぬだろう」
 突として言った緑鷹に、瑠璃はほんの数瞬だけ困った顔を見せた。直ぐにまた元に戻り、何とも無かったように笑み掛けると、片手で頬杖を付いてから小首を傾げた。
「やはり、行かねば気が済まぬか。見掛けに依らず忠義に厚いのだな」
「……そんなことはない。俺は『上』に対する礼節など重んじぬし、国にも皇家にも忠誠心など持ち合わせていない」
 緑鷹は、何者にも恭順しないのだ。軍人であるがゆえ、若い頃は仕方無しに上官の命に従ったものだったが、気に入らない将官を殺して大事になったこともあった。
「陛下に対しては……そういう類とは一線を画するものが有るのだ。唯一、あの女に対しては」
 そう言って直ぐ、彼は口に出さずに言葉を訂す。
――いや、今は……また違う意味ではあるが、此奴もか。
 此れまで如何な女を抱いても、妻を娶っても子を産ませても生じなかった愛惜の情が、瑠璃だけに喚び起こされた。闇龍の持つ魔性に溺れただけなのかもしれない。だとしても、彼女が自分にとって特別な女だということは変わらない。
――全く、本当に……人のことは言えなかったぞ……紫暗。
 古き友が月白姫に入れ込んでいるのに気付き、年甲斐も無く冷やかしたことも有った。まさか自分が同じ状況に陥るとは、思ってもみなかったのだ。
 嘆息し、瑠璃の白い胸元へと顔を埋めて極上の若い肌を堪能する。幾度も幾度もこうしてきたが、彼にとってはいよいよ此れが……最後なのだ。
――あと少し……此のままで居てから、内廷に向かおう。
 何時に無く穏やかに瑠璃を抱く緑鷹を、彼女は虚ろな瞳で見下ろす。別れの覚悟を決めた男に対し、闇の巫女がどんな心情を向けているのか、其の冷たい紫水晶の眸からは何ら読み取ることが出来なかった。
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