金色の螺旋

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第九章 滅びの響

十一.光を継ぐ少女
 遥か、神代。天から地に落とされた五頭の竜王が、荒ぶる破壊の力を持て余し悪逆無道を尽くしていた。
 人界では幾つもの国が滅び、数多の人々が死んだ。人が全て死に絶える前に、時の天帝神王は三人の息子と二人の神巫女に竜の討伐を命じた。
 五体のうちで最も凶悪なのは、邪神として堕する前の黒神が倒した『土竜』である。次いで残忍なのは、眩い金色の竜鱗に包まれ見た者の目を潰すという『金竜』で、退治を命じられたのは光龍、奈雷であった。
 神王より賜いし神剣天陽を携え、彼女は竜の前に現れた。

 其の御剣――抜かずとも、翳せば忽ち光を放ち、横溢する慈悲で地上を照らす。
 其の光――邪悪なるものを斬り払い、人の子を救済せんとする天の意志。清廉なる只一人の巫女だけが纏うことを許された、他に比するもののない鮮やかな閃き。
 其の巫女――奈雷。天に愛され地を愛し、人を助ける美々しい女。薄群青の長い髪を靡かせ、剣を手に舞う姿は優美であり、勇壮でもある。

 奈雷の気高き威容と燦たる輝きに、陰りを帯びた黄金竜の眼が眩み、幻惑される。其れでも尚、竜は恐るべき邪気を衰えさせずに荒れ狂う。黒黒とした猛炎を吐き出し巫女を威嚇するが、神剣とともに下された神命が……人を屠る悪を許さぬ強き魂が、彼女を決して怯ませない。
……長い長い戦いの末、巫女は金竜を打ち負かす。しかし彼女ですら、此の神に伍する巨獣を消滅させることは出来なかった。
『光龍』として振るえる全ての神力を注ぎ込み、奈雷は竜を人界のとある地に封印した。彼女が怪物と何処で戦い、何処に封じたのか、千年以上もの間誰も知らなかった。知り得ているのは、天に座する神々だけ。邪念を持つ者が奈雷の術を解き、再び此の世に驚異を齎そうとするのを防ぐため、戦いの地について人界では語り継がれなかったのだ。
 奈雷が死してから、千五百年。強固であったはずの封印は、突如として破られた。一体何故なのか……何者の仕業なのか、誰にも分からなかった。彼の巨悪が解き放たれ『茗』という国を脅かし、一人の英雄が己の身体を擲ち救ったのは――今からそう、遠い話ではない。



 聖地珪楽より一歩出ると、外界には奇異な様相が広がっていた。重なり合う暗雲が太陽を遮って蠢き、日中だというのに空は深い紺青色をして、遠くから雷の鳴る音が聴こえていた。
 ひとり神宮を飛び出した麗蘭は、神門を潜って参道を通り、鎮守の森を抜けた。暫く身体を動かさなかった所為で、時折足が縺れてよろけそうに為ったが、其の都度身を起こし懸命に駆けて来たのだ。
 扱いに慣れた弓矢を背負い、見事な美しさを備えた剣を持っている――彼女が受け継いだ光龍の御剣、天陽である。
 開けた草地に出ると、より雲が濃く空が暗い方を見定め、其の方角に邪悪な気配が満ちていることを察知する。目を細めて剣を腰帯に差すと、背中の弓と矢を外した。
――間違い無く、奴だ。青竜との邂逅で見えた奈雷の記憶の中に居た……!
 矢を番えてきりりと引き絞る。尋常ならざる集中力で、狙いを付けると同時に矢に神力を籠めてゆく。
 雷雲渦巻く闇の彼方から、巨大な竜が驚くべき速さで空を駆けて来る。怒りゆえか苦しみゆえか、怪音を轟かせて呻きながら風を切り、麗蘭へと一直線に向かい来る。彼女は前方から吹く大風を受け揺れる身体を、地に付けた両足で支えて歯を食いしばり、周囲に神気の壁を築いてゆく。
――未だだ。脅えず、引き付けろ。
 時を見誤れば、命は無い。早過ぎても神矢が届かず、遅過ぎれば竜爪に掻き殺される。
――怯まず射れば、外すことなど万に一つも無い……信じろ。私は、清麗蘭は、決して外さない。
 やがて、金の竜は其の全貌を現した。麗蘭の他には見向きもせずに、上空から降下して彼女の許へと吸い寄せられる。高度を低くした竜が通り過ぎた後は、竜の身体から放出された瘴気に依って草や木が毒され、一掃されて黒い塵と化していく。
 怖くないというわけではない。此の場所に立ち金竜の邪気を感じ始めてからというもの、麗蘭の魂は凍るような慄きに震え、身体は悲鳴を上げている。其れでも彼女は、珪楽の地を背にして守るように立ちはだかり、非天の竜の両眼を勇ましく睨まえていた。
――今だ!
 射ったのは、竜の額の中心部分。麗蘭は、怪物の恐ろしげな姿が見えてから自分に近付くまでの僅かな時間で何処を狙うべきか、正しく見極めていた。傷を負ったのだろうか――竜の其処から気が漏れ出ていることを、彼女は見逃していなかった。
 白い光の尾を伸ばし、澱んだ空を真一文字に裂いて飛ぶ麗蘭の矢は、金竜の眼と眼の間を貫いた。たった一矢射ち込まれただけで、竜は動きを止めて後ろに仰け反り、激しい苦痛に耐えかねて空中で暴れている。
 体内から紅色に煙る瘴気を噴出し麗蘭を攻撃するが、彼女が張った神気の結界は強く、物ともしない。竜が体勢を立て直したところで再び矢を構え、続けざまに第二矢を頭部に射掛ける。
 竜頭目掛けて飛ぶ光の矢は、命中する寸前で弾かれ砕け散った。一射目で受けた麗蘭の神力を凌ぐ邪気を放ち、己が身を守ったのだ。
 敵の防御を見越していた麗蘭は、矢を放った後も隙を作らぬよう、次の動きに移っていた。素早く弓を背負うと腰に差した剣に手を掛け、鞘ごと帯から外す。迷っている暇は無く、意を決して頭上の竜に向け翳すと、其れだけで剣は――神剣天陽は、凄まじい光の焔を迸らせた。
 薄暗闇を、純白の一閃が駆け抜ける。金竜が巨躯を翻して直撃を避け、天に昇った閃光は黒雲を切り裂き、雲の間から降り注いだ陽の光と共に地上を照らす。神巫女の神力が生み出す輝きに晒されると、竜は更なる苦しみに襲われ動きを封じられ、滞空したまま身悶えていた。
「麗蘭!」
 自分を呼ぶ声に振り返ると、珪楽の森から魁斗が現れた。麗蘭が突然出て行った後、魅那と天真、そして蘢を、聖地の奥深くに位置する上宮の方へと避難させ、急ぎ駆け付けたのだった。
「魁斗、感謝する。どうやらちゃんと戦えるようだ」
 清かに笑む麗蘭は、己が手にした神剣を魁斗に示した。冴えた光を帯びた剣に視線を落とし、魁斗も頬を緩めた。
「……ああ。そうみたいだな」
――何を恐れることがある。今の私には、仲間が付いているではないか。
『人はいずれ、自分の許から離れてゆくもの』
 魁斗はそう言っていたが、少なくとも今は……自分の側には仲間がいる。いつか離ればなれに為るとしても、今此の瞬間だけでも、己の手で守り抜きたい。
「あれ程迷っていたのに、『守りたい』と思った途端、此の剣に手を伸ばしていた」
 そう言って微笑むと、麗蘭は天陽の柄に右手を掛ける。左手を鞘に添えて、傍らの魁斗の方に体を向けた。
 麗蘭の瞳から、恐れや惑いが消えたわけではない。其れでも彼女は凛として胸を張り、魁斗を正面から見据えていた。
 気丈さの中に垣間見えるのは、少し触れれば折れてしまいそうな儚い心。其の弱さが不可思議にも麗蘭の美しさを際立たせ、魁斗の目を奪っていた。
「……麗蘭、其れがおまえだ」
 危うく見惚れそうに為ったところで、魁斗は何とか言葉を発していた。
「抜け。おまえ自身がおまえを思い出した今なら、抜けるはずだ」
 魁斗の言葉が、麗蘭の決意に踏み出す力を与えた。剣を持つ両手を顔の前まで上げると、今一度天陽を見詰めてみる。
 繊細かつ美麗な装飾が施された金の柄に、剣首を彩る紅玉の飾り。見た目の割に驚くほど軽く、まるで長年持ち続けてきたもののように手に良く馴染む。
――此れはやはり、私の剣なのだ。紗柄とも奈雷とも違うやり方で、私は此れを振るう。此れを振るって、光龍としての使命を為す。祖国を、大切な人を……守るために。
 ゆっくりと瞼を下ろしながら、麗蘭は覚悟を決めた。主である天帝聖龍に向けて、ではない。母である恵帝に向けてでも、師の風友に向けてでもない。他ならぬ、己のために。
 一つ……深い息を吐いて、麗蘭は目を開けた。左手で鞘を握り直すと、天陽を引き抜いた。
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