金色の螺旋

前に戻る目次次へ

第九章 滅びの響

十二.戦巫女の記憶
 流れゆく雲の隙間から、太陽が覗いては身を隠す。時折下りてくる麗らかな光の筋が、無情な肌寒さを和らげてくれる。
「紗柄、待って!」
 呼び止められ、少女は振り返った。一人の青年が呼吸を荒げ、小さな丘を越えて走って来る。
「……雪」
 心配そうに少女を見詰める眼差しは、柔らかで温かい。
「怪我をしたんだろう? 見せて」
 青年は少女の右腕を指差す。肘よりも下にできた切傷から血が出て、着物に滲んでいる。
「こんなもの、直ぐに治る」
 少女は冷たい目で青年を睨み付けるが、彼は怯まない。
「……見せて」
 やや強い口調で言われ、少女は鬱陶しげに息を吐き腕を差し出す。青年は出来るだけ優しく、力を掛けないようにして彼女の袖を捲る。白い前腕には痛々しい刀傷が走っていたが、程無くして、少女が身の内に湛えた神気に癒され跡形も無く消えてしまった。
「……だから、治ると言った」
 腕を強く引き青年の手から離れると、機嫌を損ねた少女が目を逸らした。
「治るのだとしても、痛みはあるでしょう」
 青年は再び少女の手を取り、自身の懐から手拭いを出すと、消えた傷から流れ出た血を静かに拭いてやる。彼女は顔を顰めてはいたが、今度は振り払おうとはしなかった。
「……済まない。君なら、私を護ろうとしなければ怪我など負わなかったはずだ」
 声を震わせ俯く青年を見て、少女はきっぱりと言い放つ。
「……先刻のように下手に動くな。知っているだろう? 私は一人で戦える」
 此処数日の間、少女たちは敵に追われ続けている。武器を持った大勢の兵に何度も囲まれたが、其の度に少女の剣技で切り抜けて来た。
 少女は幼い頃から青年に仕え、彼を守る護衛を務めている。彼女には天より下された命が有るが、其れを果たす積もりは些かもない。力を与えられた彼女は、神巫女としてではなく、此の主を守り抜くため戦うことを心に決めていた。
「君にとっては、私なんて戦力外だと思うけれど……だから昔から剣を教えてって頼んでるのに」
 不満そうな顔で言うと、青年は少女から手を離す。
「何故、私が。おまえは王子なのだから、大人しく護られていれば良いんだ」
「……そんなこと言わないでよ。私にだって男としての矜恃は有るよ」
 青年は、雪の如く真白い髪を掻き上げ困ったように言った。少女は彼の病的に白い肌とひ弱な身体付きを見やると、小さく溜め息を漏らす。
「何度も言わせるな。おまえは黙って護られていろ。私が動けなくなったら、間違いなくおまえも終わりだぞ」
「でも……」
 彼が何か言い掛けたのを、少女が聴く耳を持たずに首を振って制止する。
「行くぞ、追手が来る」
 腰に差した剣を左手で握ると、少女は右手で青年の手首を掴み歩き出す。すると突然、青年が少女に掴まれていない方の手で、彼女の右手を包み込んだ。
「約束して。もう、怪我はしないで」
 少女の深紫色の瞳を真っ直ぐに見詰めて、彼にしては鋭い語気で言う。
「紗柄なら、出来るはず。私を死なせずに、自分も傷付かずに戦えるはず……もっと紗柄自身を大切にして」
 指摘され、少女は大きく目を見開いた。彼女は只、戦うことに……青年を守ることに必死で、己のことなど少しも気にしていなかったのだ。
「私も、邪魔に為らないようにするから」
 生まれつき体が弱く、王宮から殆ど出たことの無い青年が命を狙われ、何日もの間野山を駆け巡り逃げ隠れしている。そんな状況で、彼は意外にも泣き言一つ口にせず、何時もと変わらぬ穏やかな笑みを見せる。戦うことにも、憎悪され追い回されることにも慣れている少女とは違い、心身共に疲れ切っているであろうに。
――自分を気に掛けねばならないのは、おまえだ、雪……なのに。
 かつて同じ体験をした少女には、青年の思考が理解出来なかった。何故、怒らずにいられるのか。己のことよりも少女のことを気遣えるのか。何故……心を汚されずにいられるのか。
 幾年もの間、少女は彼と共に過ごしてきた。彼の近くに居ると、凍えた心も陽光に照らされたように安らぎ、信じられない程優しい気持ちに為る。だが時折、彼の光に目が眩み、己の醜さを嫌という程思い知らされる。
――おまえを、守る。少なくともおまえが居る間は、私は人であることを止めずにいよう。悪意に満ちた此の世界でも、おまえが居てくれるのなら……
「雪。おまえの手……大きく為ったんだな」
 少女が何気なく発した一言で、青年は面映ゆげな顔をする。其の微笑みこそが、彼女が全てを懸けるもの。たとえ神命に背くことに為ろうと譲れない、唯一の至宝だった。

……此れは、天陽を受け容れた麗蘭が見た『紗柄』の記憶。連綿と受け継がれる神巫女の魂に刻まれた、神に愛でられし少女の痛みと歓びの一欠片である。
前に戻る目次次へ
Copyright (c) 2012 ami All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system