金色の螺旋

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第九章 滅びの響

十四.秘めたる憂い
 人界に金竜が放たれた日。未だ其れを知らされていない茗の宮中では、朝早くから珠帝と重臣たちに依る御前会議が開かれていた。
 空飛殿の広間に集った臣下は、三公九卿や枢府の面々、及び都に残っている禁軍の将官たち。更に、大御史である白虎も居る。中央に坐した珠帝の前に、二列で向かい合い並んで座っていた。
 先ず圭惺の戦闘に関し、初日であった昨日の様子が伝えられた。約十年振りの聖安との戦で、かつて著しく疲弊していた彼の国の軍事力が目覚ましい回復を遂げていたことや、若き副将燈雅皇子の活躍を伝え聞き、皆様々な反応を示した。
 戦の勝敗については、殆どの者が楽観的な見方をしていた。他でもないあの青竜が、大将として戦陣に臨んでいるのだから、敗北など在り得ないと踏んでいたのだ。青竜の力が衰えている事実を知る、珠帝を含むほんの数名だけを除いては。
 戦況が確認され、今後の方針がまとまった後、珠帝に程近い位置に居る老いた男が口を開いた。
「陛下。一つ伺いたい儀がございます」
 珠帝は男、韶宇翁を一瞥して、微かに片眉を上げた。
「許す」
 此処に会する前から、彼女には韶宇が必ず問うてくることが分かっていた。そして案の定、予想していた通りの話題を持ち出してきた。
「死したはずの玄武上将軍が生きていて……数日前に此の利洛城に舞い戻り、事もあろうに陛下の御命を狙ってお手打ちに為ったとか」
 直接珠帝に言わぬだけで、既に誰もが知っている『事実』である。其れを敢えて、確認するかのように尋ねてくる韶宇に、彼女は笑みを浮かべて返答した。
「其の通りだ。玄武元上将軍は妾に剣を向けた。大逆の咎で、妾自ら手を下した」
 珠帝の微笑には、怒りや苛立ちが器用に含まれていた。まるで本当に、玄武に反逆された憤りを皆の前で押さえつけているかのように見せていた。
「本来なら凌遅(りょうち)刑ののち首を晒すべきだが、そうせずに斬り捨てて直ぐ火葬し弔った。二十年にも亘って茗に尽くした功により、安らかなる死を与えてやったのだ」
 大逆とは、人が犯す罪の中で最も重い罪。たとえ身分の高い者であっても、見るに耐えぬ酷刑で以て、地獄の苦痛と恥辱を味わいながら贖うべき大罪。剣を振るえる女王であるがゆえに、珠帝はしばしば大逆の咎人を自ら斬るが、其の場合でも後で死体を刻んで晒したり、家畜に食わせたりといった過酷な処置をしてきた。
 そう考えると今回は異例だが、珠帝の性質と長年の玄武の功績を思えば自然といえた。彼女は時に、女とは思えぬ程気性が荒く残虐な面も見せるが、己が信を置き大切にした者に対しては並々ならぬ情けを掛けるのだ。
「茗に住む玄武の一族の者にも同じく温情を与え、全員を国外追放とする積もりだ」
 異論を唱える者は、誰も居なかった。初めに問うた韶宇にも、玄武の措置についてとやかく言う積もりはないようだ。
「流石は陛下。大変慈悲深くていらっしゃる」
 態とらしい態度は見せず、顎髭を撫で頷きつつ巧みに感心してみせた韶宇は、軽く咳払いした後に顔を上げた。
「……陛下。其の玄武元上将軍のことで、もう一つお伺いしとうございます」
「許す」
 此処からが、韶宇が真に言及したい本題である。彼の意図が分かっていながら、珠帝は快く発言を許可した。 
「先だって陛下より、玄武元上将軍は聖安軍と戦い殉死したと伺いました。あの時、将軍は生きていたのですね」
 韶宇が突いたのは、珠帝にとって答えに窮すると思われる部分。皆が固唾を呑んで見守る中、彼女は意に介さず答えた。
「あれは、聖安と戦を始める名分だ。実際の生死は問題にしていなかった」
 包み隠さぬ言葉に、韶宇は目を細めた。
「恐れながら、陛下は我ら臣下をも謀られたということでしょうか」
 此れは、珠帝を試す詰問。そして上手く行けば、彼女の権威を失墜させることも可能な問いだった。
「妾は常に、己の名誉より茗にとっての最善を考える。そなたらもそうであろう?」
 間を空けることなく珠帝が選んだのは、彼女らしいといえばらしいが、愚かとも取れる答えである。『騙された』重臣たちの反応は、耳を疑う者や以ての外だという顔を隠せぬ者、腕を抱えて考え込む者、それぞれであった。問い掛けた韶宇はというと、表情を変えることなしに只、深く首肯した。
「……仰せの通りでございます。詰まらぬことを申し上げた点、お許しください」
 先程の珠帝の答えは、韶宇がより激しい攻撃を仕掛ける好機だったはずだ。ゆえに韶宇の追及がたった此れだけで済んでしまったことを、意外に思う者も居た。しかし珠帝には、老獪な枢相の魂胆がちゃんと見えていた。
「玄武と結託して弑逆を企てた者については、大御史に調べさせ既に何名かの者を尋問する準備を整えている。直、全貌が明らかと為ろう」
 そう言って、珠帝が離れた席に居た紫暗を見やると、彼は黙ったまま頭を下げた。
「宿敵聖安との戦いの最中、妾を狙い国を乱そうとする者など、何度八つ裂きにしても足りぬわ。必ずや捕らえ、一族諸共責め苦を味わわせてくれる」
 焔の女傑は、感情を抑えるのを止め怒りを露わにしていた。此の場に集った者たちは、珠帝が大罪人を捕らえ次第、言葉通りに嵐の如き復讐と裁きを下すと確信した。



 御前会議が終わって数刻が経ち、紫暗は朱鸞宮に参殿した。女官に珠帝への取次ぎを頼み、控えの間でひとり許しを待つ。指で額を抑え、答えの見えない問題を沈思していた。
――陛下にしては、酷く短慮な言動だった。
 正殿に訪れる度に増してゆく『黒の気』もさることながら、珠帝の様子も解せない。紫暗の知る限り、彼女が重臣たちの前で失策を演じたのは初めてだ。
 以前の珠帝ならば、「謀った」などという言葉を浴びせられた瞬間、相手が誰であろうと即刻斬らせていたであろう。かつては其れが許されたが、今の政情ではそうもいかない。
 先刻の会議では、珠帝と韶宇という一臣下の力関係が浮き彫りと為った。更に、聖安との戦に走り茗の忠臣たちを騙したことを、公に認めてしまったのだ。
 国内が安定している時なら、珠帝の権威を示すためにもある程度の強引さは逆に求められる。だが、今はそういう時ではない。戦いの渦中、臣下たちを主導し国を纏め上げなければならないというのに、此の事態は望ましくない。
――此れまで通り、玄武は随加で死んだということにしておけば良かったのだ。臣下に嘘を吐いたことなど、隠しておけば……
 しかし紫暗は、珠帝にとって其の選択肢は無かったのだろうと思い直す。大逆で裁かれ死んだという『事実』を世に知らしめることこそ、玄武の最期の望みだったのだから。
 考えているうちに、紫暗を呼びに女官が入って来た。
「大御史様。珠帝陛下のお許しがありました。どうぞ此方へ」
 此の日、珠帝は普段使っている自室ではなく、正殿内に在る別室に紫暗を呼んだ。紫暗を含む四神たちを召す際、何時も自室の前室に来させるので、其れもまた珍しく感じられた。
 入室すると、竜胆色の深衣に着替えた珠帝が立っていた。昼間なのに態態太陽を遮って暗くしてあり、燭台に火が付けられている。
 紫暗が跪き頭を垂れると、珠帝は室に居る数人の女官を下がらせ、彼に顔を上げるよう命じた。
「あの老爺め、いよいよ妾に対する忠節や礼儀を忘れたようだ」
 婉然として笑んでいるが、其の瞳と声には静かな怒りを包含していた。
「妾を殺し損ねて後に引けないと思っておるのか、戦の混乱に乗じて宮中を掻き回しておるのか……どちらにせよ、捨て置けぬ」
 あの夜、玄武が珠帝に渡した書状には、とある枢使の名が記されていた。其の男の影に隠れているであろう「首謀者」の名を、玄武から直接聞いたわけではない。しかし珠帝の頭に真っ先に浮かんだのは、枢相韶宇の顔だった。
 聖安を煽るため、珠帝が枢府を無視して勅令を出したのは記憶に新しく、先帝の甥を新帝に擁立しようとしているのも、前々から紫暗が掴んでいた事実。韶宇には、怪しまれる理由が十分有ったのだ。
『紫暗に奴の身辺を探らせてみるのがよろしかろう。奴と私、他にも数名の名が並んだ連判の書が出てくるはず』
 彼の言った通り、珠帝は紫暗に命じて枢使や韶宇の周辺を調べさせた。紫暗が玄武と最後に会った際、本人の口から「韶宇翁に暗殺を持ち掛けられた」と聞いていたこともあり、ますます韶宇が犯人だという疑いが濃く為った。
 紫暗は枢使を直ぐには捕らえず泳がせて、韶宇の容疑を固めるべく秘密裏に調査した。ところが幾ら調べても、韶宇に繋がる証拠は出て来なかった。
 枢使が一人罪に問われたことで、其の上役である韶宇に嫌疑を掛けることも出来ようが、本人が否定すれば手荒な真似は出来ない。以前紫暗が緑鷹に説明した通り、今韶宇を安易に攻めれば、望まぬ内戦を招きかねないのだから。
「玄武は韶宇の力を甘く身過ぎていたのでしょう。確たる証拠が出てこなければ、奴程の権力者を罪に問えるはずがありません」
 紫暗の顔には、半ば諦めが混じっていた。珠帝は椅子に腰を下ろすと、先程女官に運ばせた桂花茶を飲む。
「昔から玄武はそういう事情に疎いゆえ、仕方あるまい。其れに、彼奴は長らく此処を離れていたからな」
 諮問機関である枢府があるとはいえ、珠帝が枢府を掌握して枢相を操り、ほぼ絶対的な統治者として君臨していた時期も在った。もしかすると、玄武の感覚は其の頃のまま止まっていたのかもしれない。
 彼が随加駐留を命じられ茗を出てから二年程で、宮中の権力図は大きく変わった。枢相韶宇が勢力を拡大し続け、珠帝が簡単には抑えられない程の存在と為っていたのだ。聖安との戦を始め、国内に波風を立たせたくない今の状況では猶更、強攻策は取れない。
「せめて、玄武が言っていた連判状さえ見つかれば……堂々と拷訊して幾らでも吐かせられましょうに」
 抑揚のない声で言う紫暗に、珠帝は白い歯をこぼした。
「……其の綺麗な顔で、眉一つ動かさずに恐ろしいことを言う。おまえは相変わらずよの」
 下目で彼を見ると、肩に掛けた毛皮を弄び始める。
「そもそも、本当に韶宇翁が黒幕かどうかさえ怪しい。あの時、玄武は妾に自分を斬らせようと必死であった。おまえにも嘘を言っておくことで、妾を其の気にさせようとしたのではないか」
 重臣たちの中で女帝に反抗できる唯一の男、韶宇翁に頼まれたと言えば、確かに説得力が増すだろう。されど、紫暗の意見は少し異なっていた。
「其れもあるやもしれませぬ。只私は……韶宇が関係していないとすれば、玄武が韶宇に罪を被せ此の機に葬らせようとしたのでは、と」
 あの緑鷹が本当に策略めいたことをするのかどうか、紫暗には疑問だった。だが最後に会った時の落ち着いた彼を思い出すと、強ち間違いとはいえない気もしてきた。
「……成る程。言われてみればそうかもしれぬ。今と為っては確かめようもないことだが」
 もはや真相は分からぬが、紫暗も珠帝も、大して知りたくもなかった。二人とも、今更知ったところで如何にもならないと思っていたからだ。
「陛下、お伺いしてもよろしいでしょうか」
 紫暗が尋ねると、珠帝が無言で頷く。
「玄武を『裁いた』のは、本当に陛下なのでしょうか」
 彼が思っていた以上に早く、珠帝は平然と答えた。
「ああ。妾が此の手で、心の臓を貫いた――何故左様なことを訊く?」
 珠帝が緑鷹を殺したと聞いた時から最も解せない点を問うたのだが、紫暗は其の質問が意味を為さないことに気付いた。
 彼女の答えが真実であるかは、紫暗には判断出来ない。彼もまた、人の心中を見抜くことに長けているが、相手が珠帝となると話が別だ。彼女が「自分が殺した」と言った以上、一先ず信じるしかない。
「……玄武は、さぞや喜んでいることでしょう」
 口を衝いて出た言葉に、珠帝も、そして紫暗自身も驚いた。
――馬鹿な。俺に奴の何が分かるというのだ。
 数十年来の付き合いとはいえ、全く違う気質の緑鷹とは相容れるところも少なかった。特に此の数年は、互いに何をしているのかすら十分に知らなかった。だが緑鷹の最期を聞いて、彼が何故そんな幕引きを望んだのか理解出来た気がしたのだ。
 不思議そうにしていた珠帝は、やがて得心がいった顔で頷く。
「そうか、おまえたちは……昔から似たものを持っていたな。傍目から見ても分かる、通じるものを……あの頃から」
 頬杖を付いて、珠帝は遠くを見る目で紫暗を眺めた。彼は斯様な珠帝を目にし、強い違和感を覚えた。此の女は滅多に過去を省みないし、昔の話を持ち出さない。だが今は、彼女が進んで思い出に浸っているように見えた。
「……紫暗。おまえに特別な任を与える。他言は無用ぞ」
 唐突に告げて、珠帝は椅子から立ち上がり紫暗に近付いてゆく。再び頭を下げた彼の直ぐ前まで来ると、やや身を屈め小さな声で話し始めた。
「いずれ、妾が玉座を退かねばならぬ時が来る」
 意外な発言に驚き目を見開いたが、紫暗は動かず俯いたまま聞いていた。
「妾には、おまえたちが居た。だが『あれ』には……数十年もの間共に覇道を行く者が、未だに居ない。あれは妾が心から見込んだ後継だが、其れを案じておる」
 彼女にしては穏和な、其れでいてしっかりとした調子で語られる憂い。主の弱気とも取れる姿を見て、紫暗は己の目と耳を疑った。
「おまえが『茗』に拘りが無いのは知っている。だが、妾が居なくなった後もあれに仕えて欲しいのだ」
「陛下が……居なくなった後……ですか?」
 驚愕の余り思わず面を上げた紫暗は、珠帝の顔を無意識に見詰めてしまう。互いに目が合い、彼は無礼を恥じ急いで目を逸らすが、彼女の方はまるで気に留めていなかった。
「もし、あれが……帝位についた燈雅が、おまえが仕えるに値しない男だと感じたならば、容赦無く見放しても良い。あれが其の器かどうか見極めるまでは、傍で仕えよ」
 珠帝が「居なくなる」という言葉が飲み込めぬまま、其の約束を必ず守るという意志も持てぬまま、紫暗は頷かざるを得なかった。
「……御意に」
 彼が釈然としていないのに気付いているのかいないのか、珠帝は構わず話を続ける。
「『緑鷹』が生きておれば、おまえだけでなく奴にも託す積もりであった。奴はあれを気に入っていたからな」
「……陛下。何故、左様なことを」
 天井を仰いだ珠帝は、口を開いて言葉を発し掛けた。何か言い掛けて飲み込み、もう一度紫暗を見下ろした。
「長く苦楽を共にした奴が死に、我らの時は無限ではないと……感じただけ。其れだけのことよ」
 紫暗には主の真意を覗くことは出来ない。されども、主の言葉に含みが有ること位は読み取れた。
――緑鷹の死が、陛下を弱腰にさせた……だと。
 怪訝に思っていると、珠帝はまたしても突然話を変えた。
「玄武は月白姫の居場所を聖安側に伝えたらしいな」
 思いも掛けない蘭麗の話を持ち出され、紫暗は主に気取られないように眉を顰めた。
「戦が始まった今、彼の姫を取引の材料として生かしておくか、用済みと見なして殺め、恵帝に首を送り付けるか……決めかねているところだ。紫暗、おまえは如何思う?」
 蘭麗姫の処遇に関し、珠帝が斯様な考えを持つのは至極当然のこと。紫暗もそう分かってはいるが、何故か主の言葉が自分を試しているように聞こえてならかった。
「陛下の御心に従いましょう」
 滑らかに出ない自分の言葉に、納得できない紫暗。戸惑う彼を見て、珠帝は顔を綻ばせた。
「悪ふざけが過ぎたようだ……姫を餌にして、神巫女らを誘き寄せるが良い。後は我が心ではなく、おまえの心の向くままにせよ」
 下されたのは、珠帝が所望するはずの神巫女を捕えよ、という命ではなく、『紫暗の心の向くままに』というもの。其の曖昧な命令は、如何解釈すべきか彼を迷わせ、悩ませるだけだった。


 紫暗が退出した後、珠帝は外に控えていた女官を呼んだ。殻の茶壺を指差し、また桂花茶を持ってくるように命ずる。
 肩を上下させ、苦しそうに息を吐く。前額に浮き出た汗を絹布で拭い、着崩れない程度に着物を緩める。
 人前では気力で耐えているが、明らかな身体の不調はそう長く隠せるものではない。発熱し胸が苦しく為る此の症状は、侍医の見立てでも原因が分からなかった。
 彼女本人は、此れが人の病ではないことを知っている。人の身で人ならざる力を受け容れているがゆえの、副次的な反応――其れ以外の何物でもない。
 程良く冷ました茶を女官が運んでくると、珠帝は大きめの器に並々と注ぎ一気に飲んでしまう。再び室で一人に為り、椅子の上で腕を垂らして目を瞑る。
――早く……部屋に戻らねば。今宵は彼の君が御出座しになる。
 先刻、紫暗を自室に召さなかった理由は二つ有る。一つは、あの室に邪神が降臨するという『予感がした』から。そして二つめは、黒い気が満ちた室に紫暗を呼ぶのが憚られたからである。
 今日は、朝から異様な胸騒ぎに駆られていた。強く為り過ぎた神力で、御前会議での韶宇による糾弾を予期したのか、此れから起こる別の何かを感じ取ったのか――判然としないが、不安の念は珠帝を惑わせ、紫暗に弱さを晒させる一因と為った。
 日が沈むまで未だ時間が有るはず。時刻を確かめるため立とうとするが、上手く力が入らない。
 症状が悪化する程、焦慮する。黒の力が濃く為る程、恐怖する。珠帝にとって忌むべきは気弱さだが、紫暗の前で不覚にも露呈してしまった。緑鷹ひとり居なくなることで、此処まで揺るがされるとは思ってもみなかった。
 また、『麗蘭』を見張らせ昊天君を引き入れるために差し向けた紅燐も、幾日も音沙汰がない。忠実忠実しい彼女にしては奇妙で、ほぼ間違いなく何か有ったことが窺えた。
 苦しみに耐えていた珠帝は、沈みゆく意識の中で心地よい『闇』を見付ける。今の彼女が安らぎを得ることの出来る、唯一の冷ややかさだ。
――彼の……御方か?
 目を開けると、室の隅に巨大な獅子が居た。白い鬣を付けた黒色の獣は、紛うことなき黒神の下僕。珠帝は身を起こして立ち、黒の気に誘われるようにして近付いてゆく。前足を揃えて彼女を見詰めている獅子の背には、何か大きな塊が載っていた。
「青……竜……?」
 伏せたかっこうで背負われ、力無く手足をだらりとさせている黒衣の男を見るや否や、珠帝は凍り付いた。彼の身体からは生気を感じられず、九年もの間焔の女傑を怯えさせ続ける邪悪な力のみが、なみなみとして溢れ出ていた。
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