金色の螺旋

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第九章 滅びの響

十五.誘惑
 圭惺平原では、聖安、茗両軍の将による会談が行われていた。
 平野の中心に用意された小さな天幕に、瑛睡上将軍と燈雅皇子のほか数名ずつの将官たちが会し、卓を挟んで両軍の者が向かい合う形で座っている。慣例で定められた距離を置いて、天幕から離れた所に双方の兵が待機し、話し合いの行方を見守っていた。
 聖安軍の少女、友里から金竜の話を聞いた瑛睡は、燈雅皇子に会談の申し入れをする使いを送った。書簡の中で既に目的は伝えてある。先方が提案を受け入れざるを得ないことは明らか。後は、極力手早く話を纏めるのみである。
 青竜ではなく燈雅の方に使者を送ったのは、金竜から少女を救ったのが燈雅らしいという報告を受けたため。そして、金竜が復活したということは、青竜に何か起きた可能性が極めて高いためである。案の定、燈雅は茗軍の大将代理としてやって来た。
 久方振りに会う燈雅皇子は、瑛睡の目から見ても徒ならぬ風格を帯びた才気煥発な若者だった。顔付きに滲み出る聡明さも、身のこなしにまで現れる優れた武才も、皇族らしい優雅さも兼ね備えている。数年前に会った時には、若い頃の玄武を彷彿とさせる短気な性格が目に付いたが、其れも随分と落ち着いたようだ。
「休戦をお望みであると」
 先に切り出したのは燈雅の方だった。其の声には、焦りの色はまるで感じられない。
「左様。僭越ながら、殿下も同様のお考えだと拝察いたします」
「……ええ。其の通りです」
 燈雅にも瑛睡と同じく、無用な腹の探り合いをする気は無いのだろう。口の端を上げ余裕すら見せてはいるが、茗の皇族である彼が金竜の出現に気を揉まぬはずがない。一刻も早く戦を中断し、巨大な災禍に対抗する準備に入りたいに違いない。
「『巨大な妖』が出現し、我が茗軍の被害は甚大。討伐するまでは両軍共に警戒態勢に入るゆえ、戦は一時中断する……此れで如何ですか」
「十分かと」
 金竜の存在を伏せておくという燈雅の案には、瑛睡も反対する理由は無い。兵たちに恐怖心を抱かせ、下手に混乱させるのは賢明とはいえない。
 早々に合意が取れると、燈雅の副官が協定の内容を紙に書き記し、同じ書面を二枚用意する。瑛睡と燈雅は一枚ずつ取り、自分の印章を押すと交換し、受け取った紙にも押してそれぞれのものとした。
 会合が終わり、皆席を立った。瑛睡は座したまま燈雅を見上げると、退室しようとする彼を呼び止めた。
「殿下、少しだけお時間を頂けませぬか。我らだけでお話したいことがございます」
「……良いでしょう」
 彼らを残し他の者が居なくなると、瑛睡が再び口を開く。
「金竜と戦われたとか」
 詰まるところ、瑛睡が此の場で最も聞きたかったのは、金竜に関することだった。燈雅の方もある程度予想していたらしく、答えを渋る様子も無かった。
「ええ。封印から放たれたばかりだからか、噂に聴く程の強さではありませんでしたが」
 過度な自信、慢心は見られない。燈雅は只、己が身を以て見知った事実だけを告げているように見えた。
「私の兵をお助けくださったと聞きました。感謝いたします」
 瑛睡は立ち上がり、低く頭を垂れた。
「礼には及びません。彼女に会えたおかげで、貴方と容易く話を纏められたのですから」
 茗においても尊敬を集める瑛睡公に頭を下げられて尚、燈雅は恐縮する素振りすら見せない。
「……一つ、伺ってもよろしいか。無論お答えにならなくとも、結構」
 燈雅が頷いたのを見て再び椅子に坐すと、瑛睡は返答を期待出来ない問いを投げ掛ける。
「青竜は……何処へ」
 茗側からすれば、場合に依っては答えられない質問だろう。瑛睡は其れを承知で敢えて尋ねたのだが、返って来たのは意外な反応だった。
「貴方止まりの話にしていただければ、話しましょう」
 躊躇いの無い、即答。問うた瑛睡の方も、戦略上の目的というよりは自身の興味の方が強かったため、其の条件を呑むことには抵抗を感じなかった。
「承知。お約束いたします」
 口にした以上、瑛睡は自軍の者に漏らす積もりは無かった。燈雅の方も、彼がそういう男だと知った上で言い方を選んだのだろう。
「……私にも分かりません。昨夜のうちに陣から姿を消しており、其れきり」
 溜息を付いて一言答えたが、青竜の行方については他に何も話さなかった。燈雅自身、其れ以外本当に何も知らないのかもしれない。
「全く、人ならざる者に踊らされるのには、嫌気が差してきましたね。そうではありませんか? 瑛睡殿」
 迷惑そうな笑みを零す燈雅に、瑛睡も頷いて同意を示す。
「金竜を倒すことが出来るという女……神巫女といいましたか。もし本当に存在するのなら、今こそ姿を現して欲しいものだ」
 此の発言の意図するところが解らず、ほんの一瞬、瑛睡の顔が強張った。しかし、燈雅が其れに気付いたかどうかは分からなかった。
……やがて散会と為り、二人はそれぞれの本陣へと戻って行った。


 幕舎に戻った燈雅皇子は、革鎧を外して手早く着替え、長椅子に座って足を伸ばす。気だるげに眼を閉じると、窓から入り込んだ朱色の光を浴びる。
 気付かぬうちに時は過ぎゆき、夕刻と為っていた。早朝から金竜と対峙し、重要な判断を下して瑛睡上将軍との会談に臨んだため、かなり疲労が溜まっている。あれから圭惺に金竜が現れたとの報告は無いが、ゆっくり休んでいる暇は無い。
 部下を呼び、水を持ってくるように命ずる。朝から殆ど何も食べていなかったが、何故か空腹感は無い。水瓶を受け取り冷水を喉に流し込むと、息を吐いて身体を横たえ、もう一度瞑目した。
――神巫女などと、我ながら無意味なことを口走ったものだ。
 彼は伝承に登場する女の存在を信じていない。此の世界には、光龍と呼ばれる美しい少女が非天と戦ったという話が多数有るが、全て単なる御伽噺にしか過ぎないと考えている。
 先刻瑛睡の前であんな発言をしたのは、以前珠帝が漏らした言葉を突然思い出したからだ。
『光龍ならば、神の力を振るって金竜を退けられるという――真だろうか』
 たった一言で、燈雅は驚きに打たれた。此の疑問は、彼の知る珠帝が決して抱きそうにないものであったからだ。
 冗談なら未だしも、あの時の彼女には戯れの心が一切現れていなかった。神をも敬わぬ珠帝が唯一懼れているもの――其れが『金竜』だと、燈雅が気付いた瞬間だった。
 其れから少しして、珠帝は禁軍に命じて聖地珪楽に踏み入った。聞くところに依ると、彼の地に祀られている光龍の神剣を得るためだという。
 神巫女の魂と神剣を守る巫覡たちを殺め、聖地を血で染めた珠帝。信仰を持たぬ燈雅でさえも、過ぎた所業だと思わざるを得なかった。珪楽は何百年もの間茗の民たちの聖域であり、拠り所でもあったのだから。
……そして其の一件は、珠帝ともあろう女傑が光龍のことに為ると見境を失くすという、危うい事実を証明した。
 近年の彼女は、重用していた玄武を遠い地に追いやったり、宮中の権力均衡を崩し聖安を挑発してみたりと、真意が読めぬ行動が目立つ。そして最たるものは、先日の玄武の死である。
 珠帝は年々、徐々におかしく為っているのではないか。茗を継ぐ者と定められてからは特に、燈雅の疑念は一層強く為るばかりだ。
 しかし珠帝の御前に立ち目と目を見交わすと、そうしたものは直ぐに吹き飛ばされる。彼女の炎は変わらぬ輝きで以って対した者を絡め取り、彼女こそが王だと再び信じ込ませてしまうのだ。
「……似ておられる、あの方と」
 何時の間にか微睡んでいた燈雅は、不意に落ちてきた女の声に目覚める。驚いて身構えるようなことはせず、眠そうな瞼を開けて女の姿を認めた。
「何方です。昨晩の娼妓ですか?」
 ぼやけた視界がはっきりしてくると、自分を見下ろしている黒髪の女が初めて見る女だと判る。ぞっとする程艶美な顔貌を見るなり、燈雅は魂を抜き取られたかのように動けなく為った。
 ややあって勢い良く身を起こすと、女の腕と腰を掴んで強引に引き寄せる。彼は己の乾いた唇を一舐めしてから、女の紫水晶の如き眸を食い入るように見詰めた。
――此の女は……人間か?
 突如現れた凄絶な美しさが、抗い難い力で燈雅の理性を狂わせる。白磁の肌も黒い髪も、厚い紅唇も。彼の肌蹴た胸元を撫でている、しんなりと細い指先も。何もかもが彼を誘惑し、正常な思考能力を尽く奪い去ろうとしている。
「……抱きたいのですか? ご自由になさいませ」
 燈雅に征服されることを望んでいるかのような、期待に満ちた声。彼の背に自ら手を伸ばし、恥じらいも無く身体を摺り寄せてくる。此れ程の美女に斯様な嬌態を見せられ、耐えられる男がいるだろうか。
 女を手に入れるのは余りに容易い。何時も、迷わずそうしていることだ。しかし燈雅はらしくもなく、燃え上がる欲情に身を任せようとはしなかった。
 一度此の女と繋がりを持てば、深い淵に落ちゆき二度と抜け出せなくなる予感がした。今まで自分のものにして、妻にするなり妾にするなり、捨てるなりしてきた女たちとは根本的に違う。何の犠牲も払うことなく手中に出来る女とは、とても思えなかった。
 葛藤に苦しむ燈雅を嘲笑うかのように、女は口の端を歪めて小首を傾げた。女の肉感的な唇や華奢な首筋を吸い、着物の下の豊麗な胸を弄びたいという欲望が、容赦なく彼を責め立てる――其れでも彼は、根拠の無い直感を信じて耐え抜いた。己を支配し掛けたものを何とか遠ざけると、女から視線を逸らして手を離した。
「そなた、天人か? でなければ……妖の類か?」
 女が只人でないという確信は在った。しかし彼女からは、其の正体を示す気や力を感じられない。綺麗に隠しているのならば、気を操ることに余程長けているのだろう。
「いいえ。貴方さまと同じ、人でございます。されど」
 乱れた彼の襟を直してやると、女は立ち上がった。
「貴方さまがお嫌いな『非天』の王、禍つ神に仕えておりまする」
 純白の千早に黒い袴を付けた黒巫女――瑠璃。聖地に入り身に纏う闇を弱められた彼女は、主の手を借りて完全に力を取り戻していた。
「玉座欲しさに、聖安との戦を続けるお積もりかと思っておりましたのに。違ったのですね」
 思いも寄らぬ言葉に、燈雅は不審そうに眉根を寄せる。何も考えず、目先の利のみ追求するならば、彼女の言う通りぎりぎりまで戦を続けるべきだろう。だが、燈雅は其処まで間抜けではない。
「私が欲しいのは、金竜に破壊された後の亡国ではありませんよ」
 苦々しく笑って、燈雅は傍の卓に在る水瓶を手に取る。残っていた水を全て飲んでしまうと、音を立てず元の場所に置いた。
「其のお答え、安心いたしました」
 満足げに言い、長い髪を耳に掛ける。髪か着物に焚き染めているのか、そこはかとない香りが漂う。
「貴女が、陛下が側近く置いているという黒巫女ですか」
「……瑠璃と申します。燈雅皇子」
 珠帝が人ならざる者に通じる巫女を近付けているという噂は、臣下の間でも広まっていた。普通の王ならば当たり前だが、彼女の場合は違う。此れまで神に縋らぬ治政を行ってきた焔の女帝を知る者には、彼女の意志が弱まったと印象付ける原因と為る。
「何用ですか。私を誘って、妃に為りたいという訳でもないでしょうに」
 此の巫女は、燈雅が知る『女』とは凡ゆるものの次元が異なっている。多くの女が自分に望む殆どのものが、此の黒巫女にとっては取るに足らぬものなのだろうと、彼は早くも悟っていた。
「……消えた金竜と、青竜上将軍の行方。お知りになりたいでしょう?」
 出し抜けに言われ、燈雅はまたも言葉を失った。彼の答えを待つことなく、瑠璃は淡々と話を進めた。
「金竜は転生した光の巫女の所へ行きました。其処で、駆け付けた青竜上将軍に再び封じられたのです。金竜を宿して倒れた将軍を、私の使い魔が洛永の皇宮……珠帝陛下の許へとお連れしました」
「転生した光の巫女? まさか、光龍とかいう女の話ですか?」
 先程まで思考していたことで、燈雅もつい聞き返してしまう。
「やはり実在するのですね……其れも今、現世に生きていると」
 疑わしげな顔をしつつ、此の女の言うことならばあり得ぬことではないと、用心深い燈雅も信じ始めている。
「其の力は神にも等しく、金竜をも捻じ伏せる強さを秘めています。伝説の通り、神々に愛された至上の美は天女の如く……」
「そなたよりも、美しいのですか」
 そう尋ねた燈雅に、瑠璃は甘い笑みを浮かべた。
「私など足下にも及びませぬ」
 彼女の瞳には、燈雅を試しているかのような、悪戯めいた輝きが有った。
「如何です? 手に入れたいとは……思いませぬか? 清らかで純粋な少女を意のままにするなど、貴方さまには簡単なことでございましょう」
 神の巫女を手に入れる――其れは、燈雅の思いも及ばぬ空想。急に尋ねられても、適切な答えが出てこない。
「迷いますか? では……彼の少女が貴方と同じく国を継ぐ定めにあるとしたら? 其れも、宿敵聖安の」
「……どういう意味ですか?」
 彼はますます耳を疑う。聖安の帝位継承者といえば、洛永の郊外に長年幽閉されているという蘭麗姫しかいないはずだ。
「お耳に挟んだことはございませぬか? 聖安には真の一の姫が別にいるというお話」
 言われてみれば、燈雅にも憶えがある。何年か前に、誰かとの会話でそんな話題が出ていた。
――あれは……あの話をしていたのは誰だったか……
 記憶を辿ると、左程苦労せずに思い出すことが出来た。確か数年前、他でもない珠帝から聞いた話だ。だが其の時は、彼女も本気で信じている口振りではなかった。
「聖安の恵帝が最初に産んだという子供……ですか。其れが光龍の化身だというのですか?」
 瑠璃の返答は無かったが、微かな笑みからは無言の肯定が見て取れる。
「そなたは私に何をさせたいのですか?」
 黒巫女が珠帝にもこうして接触し、光龍に対する興味を抱かせたであろうことは、容易に想像ができた。燈雅にも同じように吹き込んで、一体何を企んでいるのだろうか。
「……何も。只、貴方さまが気に為ったものですから」
 珠帝や瑛睡さえも一目置く優れた洞察力で、燈雅は其の発言の意図を読もうとする。ところが、瑠璃の思考は簡単には見通せそうにない。燈雅にとって、こんなに儘ならない女は実に珍しい。
「身体は直ぐ許すのに、心の内は決して見せないのですね。美しくても、触れてはならぬ女人のようだ」
 周囲に高い壁を築き心を開かぬように見えても、燈雅が一度、二度……と抱いてしまえば総てを晒す女なら、幾らでもいた。しかし、瑠璃はそういう女とは思えない。逆に一回でも手にしてしまえば己が喰われかねない魔性を孕んでいる。燈雅は若く自制出来ない面も有るが、そういう危険を進んで冒す男ではなかった。
「光龍は『妹姫』を追って茗に来ております。如何なさるかは、貴方次第」
 含みの有る言葉を囁いて、瑠璃は立ち上がった。
「待ちなさい」
 踵を返した彼女の手を燈雅が掴み、引き止める。
「先程、私が誰かに似ていると言いましたね。誰に似ているのですか?」
 暫く何も発さず、瑠璃は燈雅を見つめて動かなかった。此の時、思い掛けぬ所で、彼は黒巫女の瞳の奥に初めて人間らしい心を見た気がした。
「……はじめは似ていると思いましたが、やはり、余り似ていらっしゃらないようです」
 空いている手で燈雅の指を外し、瑠璃は立って歩き出した。外に向かい、途中で止まってもう一度振り返る。
「珠帝陛下が貴方をお気に召している理由、少し分かりました」
 言い残して、瑠璃は霧の如く姿を消した。
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