金色の螺旋

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第九章 滅びの響

十六.毒の享楽
 噎せる程充満した血臭と、死臭――視界に広がる鮮やかな紅色。人を狂わせる黒の気と共に、地底から這い出た絶望が渦巻いている。
 此処は紅燐が預けられていた奥間だが、以前と同じ部屋とはとても思えない。卓や椅子などの調度は倒れ、櫃の中にしまわれていた衣服などが散乱していた。
 室の真ん中には、首の無い女の死体が転がっている。紅燐の下女、長春の変わり果てた姿だ。
 周囲に粉々の肉片が四散し、彼女が死に際に噴き出した血で赤赤と染まっている。刃物で首を断たれたのではなく、『黒の力』を内から注がれ、無残にも破裂させられていた。
 寝台に腰掛け、肉塊と為った長春を見下ろしている女は他でもない、紅燐。黒神に身体を奪われた彼女は、柘榴を握り潰すかのように容易く、微笑みながら恩有る下女を惨殺した。
 昨晩、封印から逃れた金竜を追い、青竜が出て行った直後のこと。自室に引き取っていた長春は、異変に気付いて紅燐の室に戻った。其処で『彼女』……黒神と鉢合わせし、戯れに殺されたのだった。
 其の後黒神は、金竜の様子を見物するため紅燐から離れた。金竜が再び人々を恐怖に陥れる様や、麗蘭と魁斗が共闘する様、結果的に青竜が金竜を封じ直した様などを眺め見た後、何を思ったのかもう一度此の屋敷に戻って来た。
 またも紅燐の身体に降りた邪神は、唇の端に付着し固まった長春の血を、舌で舐め取りながら笑んだ。血塗れに為った自分の顔を手の甲で拭うと、其の血も口にし飲み下した。
「翠、何か?」
 黒神が室の入口に目をやると、彼の異母弟である妖王が立っていた。見知らぬ人間の内側に兄の存在を認めると、其の新たな奇行に目を細めた。
「……何だ、其の姿は」
 妖しく笑い、黒神は立ち上がった。異母弟の傍に歩み寄り、紅燐の指で彼の鎖骨を撫でる。
「居心地が好いから借りているんだよ。耀蕎の息子が愛しただけあって、人間の割には美しい身体でしょう。今は少し……汚れてしまったけれど」
 妖王から手を離すと、血で固まった黒髪を耳に掛けた。
「今此の状態で、僅かな間でも此の女に身体を返したら……如何為るだろうね? 自分の端女を惨たらしく殺したと知ったら、どんな顔をしてくれるかな」
 艶な笑みと巨大な黒の気の下に、悲しみに泣く哀れな紅燐の心を感じ、妖王は珍しく憐憫の情を抱いた。
 天帝聖龍の封術から放たれた後の黒神は、以前にも増してやることに遠慮が無い。かつては似た性質で人々を弄んだ妖王も、兄の所業には見るに堪えぬものが有る。先日起きた、琅華山での一件もそうだ。
「忌々しい竜王の気を感じて出て来てみれば、あんたの力を感じたんでな」
 千五百年前、奈雷が金竜討伐を命じられたように、妖王も父である前天帝から木竜討伐を命じられた。元々神であった彼にとっても竜王は強敵で、封印ではなく消滅に成功したものの、愉しい思い出ではない。
「圭惺で暴れたあれは、本来の金竜とは程遠かった。真の力を発揮した竜王は、一介の神人如きが相手に出来る獣ではない」
「其れはそうさ。青竜が施した術を解縛した時、完全に解放しないよう力を抑えておいたもの」
 事もなげに言った黒神は、倒れた椅子を手も触れずに起こし、悠然と座った。
「そもそも九年前に茗で放たれた時も、金竜は完全ではなかった。だからこそ、只の人の子である青竜が封じることが出来たのだろう」
 妖王の言葉に、黒神は満足そうに頷いた。
「開光した光龍の居ない世界で、千五百年前と同じ強さの金竜が現れたら……柔な人界など一溜まりもない。其れじゃあ、詰まらないから」
 そう言う黒神に、妖王は以前から気になっていた疑問を質す。
「黒龍、九年前に金竜の封印を解いたのもあんたなのか?」
「……さて、ね」
 問いに明確に答えぬまま、黒神は謎めいた含み笑いを見せた。
「君も居たなら、見てたでしょ? 麗蘭と天陽の素晴らしい光……あれは正しく、『奈雷』の光焔だった」
 常に虚無の翳りを帯びている黒神の瞳に、微々たる一瞬の輝きが宿る。其れを見逃さなかった妖王は、黒神が追い求めるものが何であるのかという誰も知り得ぬ真実に、より近付いたと確信した。
 非天たちの王であり、此の世で最強の神といわれる黒神の目的は一つ。手に入れる過程で愉悦に酔うことも有れど、彼の欲するものは只一つなのだ。大国の女王を惑わして戦を起こさせたのも、竜王を復活させて脅威を増大させたのも、全ては其の願いのため――妖王はそう、推測していた。
「茗の女帝に昊天君の女……麗蘭の妹にまで手を出して、念の入ったことだ。只の戯事というわけではなかろう」
「……蘭麗には何もしていない。そんなに勿体無いことはしないよ」
 心外だという顔で苦く笑った黒神は、しなやかな足を組んで頬に掛かった髪を払い除けた。
「君には僕が何をしたいのか、『大方』分かっているのだろう。僕がこう為ってからの付き合いが一番長いからね」
 言い終わるや否や、黒神は忽ち姿を消失させた。そして次に現れたのは、妖王の直ぐ目の前。彼の翡翠の双眸を、下方から愉快そうに覗き込んでいた。
「ねえ……翠。僕の毒蝶は如何だった? 美しく為ったと思わない? 君を惑わす程に」
 不意に尋ねられ、妖王は答えを詰まらせた。幾ら神巫女であるとはいえ、神でもなく妖でもない人の子――瑠璃に、一瞬でも魅了されたという屈辱が甦る。そして同時に、彼女が氷の如き美貌の裏に秘めた情熱もまた、呼び起こされた。
「何も気にせず、抱けば良いのに。ほんの一時でも溺れれば、君の胸に落ちた空虚を埋めてくれる……あれは、そういう子だ」
 己を射抜く紅燐の赤い瞳の奥に、妖王は黒神の深淵を見出す。心を見透かされたことに苛立ちを覚えるが、気持ちを昂らせたところで為す術も無いのは分かっている。
 兄から目を逸らして口角を上げた妖王は、溜め息をついて呟いた。
「毒の蝶……か。瑠璃が毒蝶なら、差し詰めあんたは毒の花というところか」
――瑠璃だけではない。圧倒的な美と力で人を誘い、甘い蜜を吸わせて虜にする。終いには引き千切り、感情の篭らぬ嗤笑を浮かべて踏み潰すのだろう。
 紅燐の身体を支配したまま、あどけない少年其のものの無邪気さで、黒神は笑む。自分が奏でた滅びの響が人界に鳴り渡り、深潭を齎す享楽に耽っているのだろうか。妖王にすら、彼の悦びの意味するところを完璧には汲み取れなかった。
……昏き神は、異母弟を残して忽然と姿を消した。崩落しかけた烈火の女帝の凡てを奪い尽くし、暗闇を広げてゆくために。

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