金色の螺旋

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第九章 滅びの響

四.邪神の戯れ
 深沈たる半宵、茗軍の大将である青竜上将軍は、圭惺から遠く離れた所に独りでやって来ていた。
 軍議が終わり、見張りの兵以外の大半が寝静まった頃に人知れず幕舎から抜け出し、馬を走らせて本陣から離れた。月が完全に雲で隠れた暗闇の中でも何ら支障は無い。馬は夜目が利く動物であるし、青竜には人を超えた邪眼がある。
 瑛睡が夜襲を命じる可能性は、ほぼ無いと見ていた。聖安の誇る彼の将星は、奇抜な策は好むが卑怯な手法を激しく嫌う。どんなに不利な戦であろうと、夜討ちのようなやり方は極力避けるはずだ。
 戦いの途中で将である自分が陣を離れることなど、有り得てはならない。其れは当然承知している。だが青竜は、危険を冒しても『其処』に行かねばならなかった。もし此の戦が無ければ、片時も其処から離れなかっただろう。
 信の置ける口が堅い配下の一人に、夜明けまでに万一動きがあれば知らせに来るよう命じてある。何事も無ければ、態態幕舎の中にまで自分が居るか否か確かめに来る者も居ない。青竜は邪眼を手に入れてから、他人を自分の側近くまで立ち入らせない。其のことを良く知っている茗軍の者たちも、青竜を敬愛しながら必要以上に踏み込もうとしないのだ。
 もし予期せぬ事態に陥ったとしても、副将である燈雅が居る。青竜は言動で示すことは無かったが、あの若き公子の能力にかなりの期待を寄せている。ゆえに彼ならば、自分が圭惺に戻るまでくらいであれば、難なく凌いでくれると思っていた。
 自分は敢えて本営から出て行かず、燈雅を最前線で戦わせることで功績を立てさせるというのは、珠帝の意向を汲んだ上でのことだった。後方から戦況を見守っていたところ、皇子たちの中でも武勇に優れ戦の経験も有る燈雅は、青竜が思っていた以上の活躍を見せてくれた。敵の将官たちも名のある者ばかりだったが、多少の場数の差など物ともせず、若さを感じさせない十分な統率力を振るっていた。
 明日には、青竜自身が第一線に出て行く。恐らく瑛睡もその積もりだろう。初日は聖安側の猛攻で決め手を欠いたままと為ったが、元より数においても軍備においても有利なのは茗軍の方。拮抗状態は、次第に茗の優位へと傾いてゆくはずだ。
 とある森奥の小さな屋敷の前で、青竜は馬を止めた。戸を叩くと、余り間を空けずに中から人が出て来る。はじめは少しだけ戸を開け様子を窺い警戒していたが、青竜だと判ると恭しく頭を下げ、彼を建物内へと招き入れた。
「長春、夜更けに済まない」
「いいえ、将軍さま。さあ此方へ」
 青竜を迎えたのは長春という名の年増女だった。手燭を持って足下を照らし、先に立って青竜を案内する。足早に進んで行き、さほど広くはない建物の一番奥の室へと入ってゆく。
 調度に乏しい部屋の片隅には寝台が在り、其の上で壁に背を付けもたれるかっこうで一人の女が座っていた。長い黒髪を垂らし、虚ろな瞳を正面に向けている女は、青竜たちが入室してきても全く反応を示さない。
「……紅燐」
 感情の無い声で呟くと、青竜は背負っていた大剣を傍らに置き、紅燐の直ぐ横に在る椅子に腰を下ろす。手袋を取り指先で彼女の額や頬に触れてみるが、本当に生きているのか疑う程冷えている。
「変わらずか……?」
 背後に立っている長春に問い掛けると、彼女は静かに頷き答えた。
「……はい、三日前から何も変わりませぬ」
 身体を動かすどころか話すことも、表情を変えることも無い。夜に為ると眠りに就くことがあるが、今宵のように就かない夜も在る。まるで魂の抜けた人形と化したようだ。
 目が見えているのか、耳が聴こえているのかすらも判らない。目の前で匕首を出し、彼女の胸を突き刺そうとする振りをしてみても、眉一つ動かさないのだ。
 紅燐に何が起きたのか、明らかなことは只一つ。彼女の身体が彼の邪神に依って生かされ、支配されているということ。
 三日前、黒神の力に浸された紅燐が魁斗と相見えた時。魁斗は彼女が事切れたと思い込んでいたが、真実は違っていた。彼女の命を奪い消失したと思われていた黒の神気は、彼女を殺すこと無く奥深くに留まっていた。
 未だ紅燐が生きていると見抜いた青竜は、魁斗に気取られぬよう彼女を連れ出し、此処に預けた――彼女の為、魁斗からは何としても引き離さねばならぬと思っていた。金輪際、紅燐は魁斗に会うべきではない。会わせぬ為には、魁斗に彼女が死んだと思わせておいた方が都合が良い。
 戦場から此処までは馬を使えばそう遠くはないが、此の三日間は一度も来ることが出来なかった。明日初戦が終わり、聖安に入ってしまえば益々来られなくなるのを懸念して、無理をしてでも訪れたのだった。
「……不思議なのです。何時もならお側を離れようとしないあさぎが、あの様にじっと此方を見たままで……近寄っても来ない」
 長春が示した窓辺を見ると、紅燐の使役する美しい鳩が止まっていた。忠実で賢い鳥は、主の身を案じながらも彼女の身に巣食う力を警戒し、近付けずにいるのだろう。
「食事をお持ちしても何も口に入れようとされません。此のままだと、いずれ弱って……」
 心配げに言う長春を一瞥し、青竜は首を横に振る。
「いや、其れでも……生きてゆける状態なのだ。今はな」
 隠れていた黒の力は、紅燐が此処で目を覚ました際に再び現れた。其れ程目立つ量ではないが、黒神は此れを使って彼女の生死を如何様にも出来る。彼女の命は、黒神に握られているも同然なのだろう。
「おまえは休め。私はもう暫し様子を見てから戻る」
 そう言われてからも、長春は紅燐を見詰めたまま、直ぐに出て行こうとしない。
「……『燐』のことが心配なのは分かるが、少しは休め。私が戦に出ている時に、おまえに倒れられたら誰が面倒を見てくれるのだ」
「はい。でも、将軍さまもお疲れでしょう」
 思いも寄らぬ長春の言葉に、青竜は少しだけ驚いた顔をした。
「……案ずるな。私は既に、人と同じではない。おまえとて知っているだろう」
 隠された青竜の左目をちらりと見てから、長春は躊躇いながらも頷いた。たった一人で、ほぼ付きっ切りで紅燐の様子を見ていたのであろう。疲労の色を滲ませた彼女は、遠慮がちに一礼して退室する。
 長春が出て行くと、青竜は再び紅燐の方へと向き直った。自分の顔の覆いを取ると、生気の宿らない紅玉色の双眸を見る。
 紅燐は青竜にとって、同じ四神と呼ばれる仲間であり、部下であり、神術や武術の弟子であり……歳の離れた妹のような存在でもある。不幸な境遇であった彼女を珠帝が助けて以来、長い年月を共に過ごしてきた。
 邪眼を得たことで、青竜は強さと引き換えに様々なものを喪った。紅燐は彼を人として見て、人として繋ぎ止めてくれる大切な存在。こう為った今、立ち上りゆくのは黒神への怒り。彼女の心を、命を弄んでいる邪神を葬り去りたいという憎しみの感情が、否が応でも沸き起こる。
――此の憐れな女が、何をしたというのだ。此のような災いを身に受けてしまうのは……何故なのだ。
 変わり果てた紅燐を見て増してゆく、恐れと不安。彼女と同じく邪神と結んだ珠帝は、如何為ってしまうのだろう。そう己に問い掛けてみたところで、浮かんでくるのは破滅の道を辿る主と故国の姿しかない。
 抑え難い苛立ちにも、青竜は至って冷静であり決して自らを乱すことはなかった……というより、乱せなかった。彼が心身の均衡を崩すことは、身の内に封じ込めた金竜に自由を与えることに繋がる。そして其れは、彼だけでなく此の人界全てに厄災を齎すことに為るのである。
『青竜、此ればかりは、そなたであっても……口を挟むな』
 珠帝は青竜の嘆願であっても、聞き入れようとしなかった。腹心である彼にすら全てを明かしていない決意は固く、曲げる積もりは無いのだろう。
――だが、紅燐のことを伝えれば……屹度。
 紅燐は珠帝にとっても代え難い臣下であり、目を掛け慈しんできた存在でもある。其の紅燐が、黒神によって受けた悪辣な仕打ちを知れば、珠帝も考えを変えるに違いない――青竜は、そう安直に考えていた。
「左様に……容易いものかな」
 突として、誰かが呟いた。青竜は直ぐ様室内を見回すが、やはり誰も居ない。此の室には先程から、青竜と紅燐の二人しか居ないはず――だがそう為ると、声の主は只の一人のみだ。
 まさか、という疑いを持って紅燐の方へ目をやる。すると心を失ったはずの彼女が、自分を見て静かに笑んでいた。 
「『あの女』は既におまえの手を離れたぞ、青竜。艶めく身体も美しき心も全て、今や私のもの」
――紅燐ではない……!
 其れは、青竜には一目瞭然だった。紅燐を取り巻く黒の神気は瞬く間に膨れ上がり、既に神人のものでは有り得ない質と量に為っている。何よりも紅燐の浮かべている微笑が、明らかに彼女のものではない。斯様に妖美な笑みを、人間が拵えられるわけがない。
「黒神……か?」
 問いつつも、青竜は立ち上がって大剣を手に取る。一方で『紅燐』は寝台から出ようとせず、相変わらず壁に背を付けたまま動かない。
「紅燐に何をした……!」
 眉根を寄せ、覆いを付けていない右目だけで『紅燐』を睨む。
「『此れ』は生きた屍。此の黒神が降り立つこと位にしか用を成さぬ……見るがいい、只の容れ物同然だ」
 そう言うと、紅燐……黒の邪神は両手を耳横辺りでひらりと動かした。青竜は紅燐の身体が物の如く扱われているのに憤ったが、何とか怒りを堪えていた。
 今、空間を満たしている冷気は尋常ではない。普通の人間であればとっくに気が触れていてもおかしくない邪悪な力の下、こうして平静を保っていられるのは、青竜の左眼に潜む人ならざる異形の存在ゆえだろう。
 莫大な黒の力に毒された紅燐を、如何すれば救えるのか――考えを巡らせ始めていた青竜を見透かして、黒神は話を続けた。
「助けたいか? 此の女から私の力を取り払いたいのだろう。其れは誰にも能わぬことだ。只一人……我が命を脅かす巫女を除いては」
 付け加えるように添えられた言葉は、何か意味深なものを感じさせた。
――神巫女『麗蘭』のことか?
 麗蘭ならば、紅燐の呪縛を解けるというのだろうか。其れが本当だとしても、黒神が何故態態口にしたのか、青竜には解せない。
「おまえは実に面白い。私を前にして恐れを抱かず、研いだ敵意だけを向けてくる。人間は大概興を湧かせてくれるが、中でもおまえは、特に退屈させない」
「……貴様にとっては、私は『未だ』人間だということか」
 自嘲気味に言った青竜に対し、黒神はより愉しそうに口角を上げた。
「邪神をも恐れぬ強さは、おまえが封じた獣を制するためのものか? 其れとも、超然としているのは総てを捨てているからか?」
「何……?」
『捨てている』という言葉に、青竜は思わず聞き返してしまう。黒神は一度眼を閉じ再び開けると、彼の顔を見詰めて首を傾げた。
「いや、或いは……総て諦めているのか? 未来に対し抱くのは諦念のみ……いずれ私に屠られるであろう主君のことも、おまえが飼う其の竜に滅ぼされるであろう祖国のことも……如何することも出来ないと分かっている」
 青竜は覆われていない右目を見開き、言葉を発さぬのではなく失っていた。黒神が簡単に言い表した『結末』は、青竜が描いていた想定し得る最悪な終焉其の物だったのだ。
「そう悲観するな、人の身で竜の化身と為った不運な人間よ。おまえの役目は終わりつつある」
 紅燐の唇で、声で、恐るべき災いを語った黒神は、満足そうに目を細めた。
「此れは、私を愉しませてくれた礼だ。上手くゆけば、『定め』よりも早く……忌々しい呪いから解き放たれるかもしれぬぞ」
 我に返った青竜が反応するよりも前に、黒神は紅燐を通して其の力を振るっていた。己の身体に重苦しい光が降り注いだかと思うと、次の瞬間から顔の半分が激烈な痛みに襲われる。
――左眼が……!
 邪眼が、炎で焼かれているように熱い。剣を取り落とすと呻き声すら上げられず、口を引き結んで其の場に崩落ちてしまう。
 かつて青竜は、此れと同じ苦痛を受けて悶え苦しんだことがある。長い戦いの末金竜を押さえ込み、禁術を用いて自分の左眼に封じた時だ。
 黒神は光が引いた後、両手で顔を押さえて蹲る青竜を見下ろしていた。声は出さず、閉じた口の端を僅かに歪ませ、紅玉髄の瞳を愉しげに輝かせて。
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