金色の螺旋

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第九章 滅びの響

七.垂れ込める黒雲
 連なる峰の隙間から、東の空に朝日が昇りゆく。光を浴びた世界は彩りを取り戻し、黄に紅にと色付き秋めいた山々が凛として佇んでいる。
 十年程で二度も大戦の舞台と為った圭惺平原は、人々の血を吸い、幾多の嘆きを聴いてきた哀しみの地。しかし其の風光明媚な景観は大陸でも有数であり、滔々と流れる川や葉が散り波紋の描かれた池、川辺に広がる紅葉の森は見事なもの。戦場と化しているとはいえ、今は束の間の休息。朝の静けさに包まれて穏やかな時が流れている。
 青空が眩しく晴れ渡り、清々しい風が過ぎてゆく様からは、昨日此処で血生臭い戦いが繰り広げられたとは信じ難い。兵たちが引き上げ時に置いていった人や馬の死体が、其処彼処に打ち捨てられているのに気付きさえしなければ。

 聖安の本陣から少し離れた、采州侯率いる地方軍の陣営に、一際目立つ少女剣士が居た。禁軍にも地方軍にも、神人であれば女性は珍しくないが、彼女は若過ぎた。実際の年齢は十四だが、痩せ気味な身体と幼い顔立ちがより年少に見せている。
 青磁色の髪は耳が隠れる程度の長さで、膝丈の薄い着物を纏い腰に小刀を差している。可愛らしいが美貌であるとはいえず、そもそも一見しただけでは少年なのか少女なのか判らない、中性的な容姿であった。
 夜が明けると程無くして、少女は幕舎からひとり姿を現した。四半刻程歩いて小川の流れている所まで来ると、川縁で大きく深呼吸をする。
「良かった、誰もいない」
 やっと一人に為れたことに安堵して、暫し空を仰いでいた後、しゃがんで両手を川に差し込む。清らな水で顔を洗い、掌で両頬を叩く。
「ふう、さっぱりした! 冷たくて気持ち良い!」
 持ってきた手拭いを出そうと、懐に手を伸ばす。
「……あれ? 忘れて来ちゃった」
 直ぐに諦めて何の躊躇いもなく、短い着物の袖で顔を拭う。髪や衣服が濡れても気にしない様子や其の所作は、全く年頃の少女らしくない。
 既に、卯の刻を回っている。やがて再び鼓が鳴らされ、戦が再開されるだろう。さすればまた、重い鎧を身に付け剣を持ち、男たちに混じって戦わねばならない。
 昨日、戦いが始まってから日が落ち中断されるまで、彼女は緊張している間もなく刀を振るい続けた。『命の奪い合い』は初めての経験で、手足が震え何度か刀を落としそうに為った。自分にとって『殺さないように戦う』というのはとても難しいのだと思い知った。確かめている時間も無かったが、もしかすると何人かは殺してしまったかもしれない。
 少女は聖安西部出身の神人で、妖討伐軍に入るために白林を訪れていた。街に着き剣を振るえると知られるや否や、采州候麾下の一兵に加えられ前線に送られてしまったのだ。
 茗との戦だということは当然知っているが、何の為に争っているのか、勝てば……或いは負ければ如何為るのか、少女には余り理解出来ていなかった。つい先日まで、高名な白林の神人軍に入って妖と戦うものだとばかり思っていたこともあり、此のおかしな成り行きを未だに受け入れられていない。
 今一度高い空を見上げてから、両肩を動かして深く呼吸をする。何かの感触を思い出すようにして、手指を開いたり閉じたりする。
「……やっぱり、死んじゃったかなあ。そんな積もりじゃなかったけど」
 気にしても仕方がないと、彼女にも十分解っていた。経緯はどうあれ戦場に投げ込まれた以上、目の前の敵を力で捻じ伏せねば自分が命を失くしてしまう。
 一晩経って出した答えは、とにかく早く慣れることだ。殺したくないのなら、少しでも早く戦闘に慣れて余裕を作るしかない。
 自分が死ぬかもしれないという不安よりも、敵の生命を奪う恐怖に悩まされる――彼女は並外れて強いが、戦の一駒と為るには幼過ぎ、また優し過ぎた。
「大丈夫……今日は、昨日よりも上手くやれる」
 二日目なのだから、立ち回り方の要領も掴めているはず。そう自分に言い聞かせ心を落ち着けようとするが、異様なまでの胸騒ぎは中々止んでくれない。
 そもそも今朝は、起床した時から嫌な予感がしていた。杞憂で済んでくれれば良いが、単なる気の所為として忘れてしまえる程漠たるものではない。
「……おかしいな、あたし、鈍いはずなんだけどな」
 類稀な神力を有する此の少女には、巫女と為るには重大な欠点が有った。神術を操るのは申し分無いが、目に見えぬものを感じ取ることはからきしなのだ。未来を垣間見る先見の力はもちろんのこと、妖の気を読むことすら苦手で只人同然。ゆえに、彼女は女でありながら巫女に為ることは出来なかった。
 不可解なのは胸騒だけではなかった。ふと視線を上げると、空の様相が明らかに妙なことに気付いたのである。
「何あれ……?」
 西方の空だけが異様に暗く、不気味に澱んでいる。夜が明けたばかりだというのに黒い雷雲が立ちこめて、渦を巻いてうねっている――少女は生まれて此の方、斯様な昊の姿を見たことはなかった。
 彼女は暫時其の光景から目を逸らせず、背筋が凍る思いをした。しかし奇怪な現象を追究しようとはせず、気持ちを切り替える積もりで再び両頬を打つ。
「よし、戻ろう」
 急いで戻らねば戦いが始まってしまう。軍規が頭に入っていない彼女にも、遅れるわけにはいかないこと位は分かっていた。  
 川に背を向け走り出そうとする。慌てて地を蹴ろうとした瞬間、耳を聾する程の強烈な音が鳴り響いた。
「……わっ!」
 少女が上げた驚きの声は、其の怪音に依って即座に掻き消された。再び西の奇態な有様に引き戻されると、漸く事の重大さを理解し始めた。
 思わず目を見張り、せわしない瞬きを繰り返してしまう。彼女の目線の先には蠢く蛇の如き巨大な『何か』がおり、薄闇に覆われた天海を泳いでいたのだ。
「妖? あんなの、見たことない……」
 此処からではあの巨躯が良く見えない。あの長大な異形が一体何であるのか、気を判別出来ない少女には窺い知れない。
 感知に優れた神人ならば、彼の怪物を肉眼で見られる距離に居れば先ず、恐ろしさの余り震え上がり身を竦めることだろう。ところが彼女は幸か不幸か、其の『恐怖』を感じる力を持ち合わせていない。帰ろうとしていた陣の方ではなく、得体の知れない『妖』の許へ行くことを決めると、好奇の眼差しを向けて力強く駆け出した。



 開戦から一夜明けた早朝。茗の副師燈雅皇子は戦の準備に入っていた。革製の鎧を身に付けると、部下が持ってきた刀を受け取る。彼が得意とするのは長柄の鳳嘴刀であり、戦場では必ず此れを用いていた。
 七尺近い長さの刀を持ち上げ幕舎を出て行く。結局殆ど睡眠を取っていないにも拘わらず、彼の動きは何時も通り軽やかである。
 外に出てみると、昨晩彼に諫言した副官が迎えに来たところだった。
「殿下、お早うございます」
「……朝から険しい顔ですね」
 副官だけではない。傍らに並ぶ鎧甲を付けた四、五名の将官たちや其の側近である将校たちも、それぞれが無骨な顔に困惑の色を浮かべている。
「……此処では申し上げられません」
 周りで動き回る兵たちを一瞥してから、副官が首を横に振った。燈雅の目にも、何らかの問題が起きたことは明らかであった。
「では、中で」
 燈雅は副官だけを連れ再び幕舎内へ戻る。一旦大刀を置き、中に残っていた部下や下男たちも外に出し、改めて副官に向き合った。彼は焦りに耐えつつ、怪訝そうな燈雅に極力抑えた声で告げた。
「殿下、青竜上将軍のお姿が見えません」
 予想外の言葉に、燈雅は耳を疑った。
「刻限に為っても出て居らっしゃらないのです。いや、そもそも幕舎に居られるのかすらも分かりません。中を確かめようにも、将軍の許し無しに入ってゆける者がおらず……」
 全て聞き終えぬうちに、燈雅は溜息をついて出口の方へ歩き出していた。非常時だというのに誰一人将軍の幕舎に立ち入らないことに関しては、咎めることもなければ呆れもしなかった。青竜上将軍は『そういう存在』なのだと承知していたからだ。
「殿下、どちらへ……」
「確かめる外は無いでしょう」
 気は進まなかったが、燈雅には自分が出向くしかないと分かっていた。もし幕舎にも居ないのであれば、騒ぎに為るのは目に見えている。
 直、戦を再開する時刻と為る。昨夜の軍議では鼓が鳴るとともに青竜が最前へ出ることに為っているため、当然兵たちに怪しまれてしまう。
「私一人で良い。貴方たちは構わず、戦いを始める準備を」
 外で待っていた者たちを退かせて道を空けさせると、燈雅は早足で上将軍の幕舎へと向かう。歩きながら意識を研ぎ、『怪物』の特徴的な気を感じ取ろうとする。
――確かに、昨日まではあった奴の気が無い……隠神術を用いている可能性もあるが。
 目的の場所へと辿り着いた燈雅は、躊躇無く幕を開けて中に入って行く。大きな卓と椅子が置かれただけの広々とした空間には、誰の姿も見当たらない。仕切で隔てられた寝所も確かめたが、やはり蛻の殻であった。
 軽く舌打ちした燈雅は、腕を組んで立ち尽くす。
――私が指揮を執るしかあるまい。
 選択の余地は無かった。こうしている間にも、戦鼓が鳴らされる時が刻一刻と迫っているのだ。
「燈雅殿下!」 
 外から声が聞こえ、燈雅は直ぐに出て行く。先程居た者とは違う将校が、片膝を付き待っていた。
「殿下、い、一大事でございます」
「如何したのです」
 下を見ると、頭を垂れた男が屈強な体を震わせている。燈雅の記憶に依ると、西方の見張りを任せている者だ。
「りゅ、りゅ……竜が……! 金色の……竜が!」
「……面を上げて、はっきりと言いなさい」 
 男の面相が、平生とはまるで違っていた。目をかっと見開き、血の気の無い白色のこめかみに青筋を立てている。
「せ、西に……金の竜が現れました。陣を……陣を敷いていたわ、わわ我らの軍を戮し、あああ暴れ回っております!」
「な……に……?」
 燈雅は喫驚し、雷に打たれたような心地に為って茫然とする。言葉を失い愕きに竦みそうに為るところを、我に返って何とか耐えた。
 四方に誰も居ないのを確かめてから、膝を曲げ腰を落とし、男の胸倉を荒々しく掴んで立たせる。公子のこんな様子を一度も見たことが無かった男は、一瞬恐怖を忘れて驚いた。
「……本当ですか? 本当に、『金の竜』だったのですか?」
「は、はい……櫓から確かに見ました。陽光に照らされ、確かに黄金に輝いて見えました」
 其の答えを聞くまでもなく、燈雅には男が事実を言っていると分かっていた。
――青竜の失踪と『金の竜』の出現……辻妻が合う。
 一度目を閉じ深く嘆息すると、燈雅は男から手を離した。
「珠帝陛下に文を書きます。急ぎ、洛永に遣いを送りなさい」
「は……はい」
「其れから……」
 言い掛けて止めた後、燈雅は指で眉間を抑えて何かを思案していた。少ししてもう一度男に向かい、加えて命を下す。
「私が行く。『金竜』の許に案内しなさい。今は未だ、本陣の兵たちに決して知られてはなりません」
 皇子の意志は固く、言葉は力強かった。自ら赴き怪物と相対することに、何の迷いも無かった。直ちに将官以上の者を集め、最も適切と思われる命を次々に下してゆく。青竜不在や人ならざる驚異の出現に動揺する者たちを、冷静な判断で以って動かしていった。
 燈雅は薄々気付いていた。今自分が采配を誤れば、全てが崩壊するのだと――恐ろしい滅びの響が、茗や聖安だけでなく、人界中に広がることに為る……と。
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