金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

十八.女傑乱心
 金竜出現の報は、茗国内の民――広い領土内で、八年前の大惨事を知る者たちを特に震撼させた。前線で直接金竜と対峙した燈雅に依り箝口令が敷かれたが、茗軍に甚大な被害が出ていて長くは隠せず、数日後には都中に知れ渡っていたのだ。
 圭惺にて聖安側との停戦が成された後、珠帝の命を受けた燈雅は帝都洛栄の利洛城へと戻った。久し振りに自身の後宮で夜を過ごし、翌朝空飛殿での朝議に出て、珠帝に挨拶と報告をする積もりでいた。
――枢相韶宇の館が襲撃され、本人を含めた一門の者全てが一夜にして鏖殺されたという知らせが皇宮に届いたのは、将に其の朝だった。


 早朝、韶宇が定刻と為っても参殿せず、不審に思った枢府の下官が人をやって見に行かせた。宮殿近くに位置する広大な屋敷に着くなり、遣いたちは敷地から溢れる凍え切った静けさと、外にまで漏れ出ている異臭に眉を顰めた。
 家門は閉ざされており、声を張り上げて呼び掛けても応えが無い。仕方なく裏口へ回ると人一人通れる程の隙間が空いていたため、身体を縮めて何とか中へと入り込んだ。
 彼らの目に映し出された裏庭には、赤黒い塊が点々と落ちていた。枢府の下人たちは斯様な物体を見たことが無く、まじまじと見詰めてみて漸く、其れらが館に住む家人や下男下女の死骸だと気付いた。
 喉や腹には食い破られたような穴が空き、内腑がはみ出て辺りに飛び散っているものや、手や腕、頭などの部位が無くなっているもの、胴の所で両断されているものなど、一目では人と判別するのが難しいものばかり――「此れ」が人の所業でないことは明白だった。
 人体から生々しく吐き出された血や肉片に依り、庭の置石や木々、草花、青々としているはずの芝生までもが赤く染め上げられ、池の水にも毒々しい赤が溶け込んでいる。幾つかの肉塊は投げ入れられたのか、血の池の上にぷかぷかと浮かんでいた。
 ほんの数刻前まで生きた人だったであろう屍は、奥の家屋の方へと続いて倒れていた。夜半、寝ていたところを襲われ外へ逃げようとしていたのか、庭に居たところを追われて中へ駆け込もうとしたのかは分からぬが、どちらにせよ、此処は地獄と化していた。
 惨状を目の当たりにした遣いの下人たちは、激しい吐き気に耐え街路へと戻り、幾度か落馬しそうに為りながらも利洛城へ帰城した。話を聞いた枢府の者が兵部に報告し、即刻禁軍の一隊が枢相邸へと送られた。現場の状況や死体の態様から『人ならざる者』の仕業である可能性も考慮して、隊を率いる将校は神人の者が選ばれた。
 駆けつけた兵たちに依り、最初の発見者である下人たちも立ち入らなかった敷地の奥も検められた。館内も、外と同じく惨たらしい屍で埋め尽くされており、男も女も、子供も老人も尽く殺戮されていた。
 韶宇翁は母屋の自室、寝台の上で、首から下全てを食い尽くされて頭だけが見付かった。残された頭も脳の一部と目玉が食われ、直ぐに本人だと特定出来ぬ有様であった。
 邸宅全体には妖気が充満しており、神人である将校や兵は、此の虐殺が妖の為した惨劇だと容易に判断することが出来た。
 幸か不幸か、下手人である凶暴な獣は既に屋敷から居なく為っていた。手掛かりと為るのは、明らかに普通の妖のものではない巨大な妖気の残り香と、其処彼処に散らばっていた白く長い獣毛のみだった。
 茗の宮廷で権力を振るい、近年では珠帝までもが手を焼いていた老獪韶宇の死は、誰一人として予期しなかった形で突として齎されたのだ。

「陛下、お怒りを承知で伺います。韶宇を殺したのは貴女ですか」
 戦地から帰還して間も無い皇子、燈雅は、継母である女帝珠玉に単刀直入に疑念をぶつけた。
 枢相の死を受け開かれた御前会議が散会した後、彼らは珠帝の室で二人切りと為り対座していた。
 痛ましい悲劇は妖獣に依る惨害だと結論付けられ、不幸にも犠牲に為った韶宇のため、諸臣は一週間の喪に服すことと為った。事の次第を聞いた燈雅は、韶宇暗殺を命じたのは間違い無く珠帝だと睨んでいた。
「答える前に教えてくれ、燈雅よ。何故そう思ったのだ?」
 気分を害された様子も無く、何時も通りに華やかな笑みを浮かべ、珠帝は問い返した。
「私の勘に過ぎません。邸を襲った妖獣というのは、近頃貴女が側に置く黒巫女が差し向けたものでは?」
 妖の少ない此の茗で、田舎の山里ならまだしも、帝都洛栄で妖に人が喰い殺されるなど聞いたことが無い。犠牲者が韶宇というのも怪し過ぎる。昨今韶宇の敵は珠帝だけではないが、先日圭惺で黒巫女と対面していたのもあり、燈雅は今回の事件と彼の巫女を真っ先に結び付けていた。
「……其の通りだ。巫女殿の主であられる『我が君』が、妾の願いを聞き届けてくださったのだろう」
――『我が君』だと?
 あの珠玉が、夫であり彼女の唯一の主君であった先帝以外の者を『我が君』と呼ぶのには、異常な違和感が有った。相手が人ならざる神であるというのも尚更おかしく、義理の息子として珠帝の人となりを知り尽くしているはずの燈雅には信じられなかった。
「玄武は死ぬ前に、妾を殺す策略を韶宇に持ち掛けられたと言っていた。白虎に枢府を調べさせ、証拠と為る連判状を探させたが、遂に出てこなかった。おまえは此れを如何考える?」
「事実、韶宇が関わっていなかったのか――関わっていたとしても、そんな証跡を残す馬鹿な真似はしないでしょうね」
 元より、燈雅は玄武が珠帝に叛意を示したというのに疑問を持っていた。あの玄武が殺意を持って斬り掛かったとすれば、珠帝といえど無事に済んではいないだろう。
 ゆえに、玄武が表面上反逆したのだとしても、其れは珠帝の敵である韶宇翁を失脚させるためだと推察していた。生涯珠帝以外の誰にも仕えなかったあの男が、最後の最後に見せた忠心なのだと考えていた。
 連判状の存否については何とも言えなかったが、仮に在ったとしても弑逆に失敗した時点で疾うに燃やされているであろうし、そもそも玄武のでっちあげに過ぎないのかもしれない。
「……真実が如何あれ、玄武が遺してくれた素晴らしい機会を、無駄にする訳にはいかぬからな」
 継母の凄みの有る微笑に、燈雅は思わず溜め息を漏らしそうに為った。此の表情は、何か途轍も無い大事を起こそうとしている時の其れだ。
 今の政情では堂々と排斥出来ぬ韶宇を人外の力を使って殺し、在るかどうかも分からぬ裏切りの証をちらつかせて邪魔者を消す――韶宇さえ居なくなれば、連判書を捏造するなど幾らでも可能だろう。
 珠帝のやらんとしていることは分かったものの、燈雅は賛同出来かねた。金竜が現れ、国を挙げて戦わねばならぬ此の情勢下、重臣である韶宇を殺した――此の機に彼の一派を片付けてしまう気なのだろうが、国の存続の危機においてやることではない。たとえ、韶宇が真に謀反を企んだのだとしても。
 現に群臣の中で、此度の事件が珠帝に依るものだと気付いている者は少なからず居る。人外嫌いで通る彼女が非天の手を借りたという異様な事態を危険視し、警戒する動きも出よう。
――金竜の復活で、とうとう陛下も道を外されたのか?
 口には出さず、燈雅は珠帝の双眸を見据えている。彼女からは焦燥も憤りも感じられず、むしろ落ち着きすら見える。
――幾ら胆力の有る陛下とはいえ、今、何故笑えるというのだ。『あの』金竜が、何時また出現するとも知れないのに。
 怪しむ燈雅をよそに、珠帝の破顔は止まらない。
「時に、おまえは圭惺で金竜と戦い退けたそうだな。誉めて遣わす」
「ありがとうございます」
 突然話題を変えてきたのを訝りつつ、燈雅は軽く頭を下げた。
「例の黒巫女より、金竜は光龍という巫女と対峙し青竜に封じられたと聞きました。依然、青竜は所在不明ですが」
 終わりの一言には、珠帝が何か知っているのではないかという思いが込められていた。
「……案ずるな、全て妾が把握しておる」
 全て、と言い切る珠帝の返答は、やや首を傾げたく為るものの、上辺だけの威勢というわけではなさそうだった。
「湧いた蛆を死滅させねば。もはや我慢が為らぬ」
 赤い唇の片端を吊り上げ、後継と見込んだ青年の目を鋭利に射抜く。
「燈雅、とくと見ておくがいい。敵の平らげ方を教えてやろう」
 質問する間も与えず会話を終わらせ、珠帝は立ち上がって背を向ける。彼も合わせて席を立つと、後ろを顧みて言い添えた。
「其れともう一つ。排除した者たちの後釜はおまえが適当に選んでおけ。どうせ、仮初に過ぎぬからな」
 燈雅には、此の言葉の意味が分からなかった。彼が継母の心中を全て知るのは、少し先のことに為る。



 宣言通りの粛清は、韶宇の死が発覚した翌日から始められた。
 玄武の死後、白虎に捕らえさせた韶宇の部下を拷訊し、其れらしく作った連判の書を本物だと吐かせて即刻処刑した。其処に名が記されていた韶宇派の官吏たちは、御史部に依って次々と捕らえられ、同じく激しい拷問の末首を刎ねられた。『珠帝暗殺』の計画に参加していなかった者も、少しでも疑いが有れば連行されて鎖に繋がれた。場合に依っては、其の罪状が女子供を含む一族全てにまで及ぶことも有った。
 斬首されなかった者も、官職を罷免されて爵位を取り上げられ、国外追放と為った。一日あたり数十人がこうした刑を宣告され、三日経つと韶宇の一党は皇宮から居なくなっていた。
 勅命により御史部が主導した訊問は昼夜問わず続けられ、処刑には何時も珠帝と燈雅が立ち会っていた。
 嬲り殺された者の中には真に逆心を持っていた者もいれば、そうでない者も居るだろうというのが燈雅の考えだった。首と胴が離れる直前まで珠帝の方を見て無実を訴え、慈悲を乞うていた者も居たが、珠帝は玉座の上から頬杖を付いて罪人たちを見下ろし、冷淡な視線を送っていた。
 即位した少女の頃から、珠帝の激烈な残忍さは周知されており、此の処断自体が特段珍しいわけではない。だが、連日同席させられた燈雅は、やはり何かがおかしいという思いを重ねてゆく。
 自身を裏切り殺そうとした者たちを裁いているにしては憎しみも感じられず、まるで無感情。罪人の後ろ首に斬首刀の刃があてられても、呪詛の言葉を浴びせられても、驚く程反応が無い。憤怒を露わにしたり僅かな同情を示したりといった、人間らしい情感が少しも見えないのだ。
 完全無欠であるはずの女帝が狂い始め、滅びの道を歩み始めた――燈雅の勘は、彼にそう警鐘を鳴らす。果たして韶宇の打倒は、ほんの始まりに過ぎなかった。
 当初は韶宇一派の一掃が目的と思われたが、刑戮や禁獄、身分剥奪は其れが済んだ後も続けられた。韶宇とは対立していた者や、長年珠帝に忠誠を捧げてきた者さえ、其の対象と為り始めたのだ。
 側から見れば、珠帝が有能な文官、武官を明確な基準も無く無差別に粛清しているようにしか見えなかった。結局韶宇暗殺から一週間程度で、百人近くの官吏や軍人が何らかの処罰を受けていた。
 珠帝の行った弾圧といえば、即位直後の反対勢力の排除が有名で、治政が安定した後も敵と見なした者は国を大きく揺るがさぬ範囲で容赦せずに潰してきた。しかし誰彼構わずという訳ではなく、客観的に見て分かる明らかな理由が存していた。ゆえに、此度の粛清は恐怖を煽るだけではなく奇異なものとして見なされた。
 腹心中の腹心である玄武の『裏切り』と死に続き、青竜と朱雀の相次ぐ失踪。更に人質である聖安の公主を奪われ、其の責を取って大御史の任を解かれた白虎の失脚。極め付きは、宿敵聖安との戦いの最中での金竜出現――珠帝の長い在位期間において、斯様な衝撃が立て続けに起きたのは初めてであり、彼女が常軌を逸し始める原因としては十分だった。
 人界全土に名を知られた大女帝が、治世二十年目にして乱心したという噂は急激な速さで広まってゆく。他でもないあの珠帝が、自ら宣戦布告した戦を蔑ろにし、疑心暗鬼に囚われ臣下を戮しているという噂が、宮廷を抜けて帝都洛栄、茗国内を駆け巡り、敵国聖安をはじめとする大陸諸国へ拡散されてゆく。
 そうした折に、聖安から珠帝宛に一通の書簡が届く。聖安の恵帝が直々に、和平に向けた会談を申し入れてきたのだ。
 先方の臨席者には聖安国主恵帝の名と、帝位継承権第一位である第一公主「清麗蘭」の名が記されていた。
 恵帝と同様、和睦すべきと考えていた燈雅は、珠帝が政敵を捕らえ罰するのに注力している間も幾度か上奏していた。無視するのでも拒むのでもない珠帝は、其の進言を巧みに躱し続けた。其れでいて、燈雅が独断で決めた圭惺初戦での停戦協定についてはすんなりと追認していた。
 継母の正気を疑い始めていた燈雅は、彼女が敵国からの申出を受け入れるか否かの深意が掴めなかった。戦を再開すれば、茗だけでなく人界全体が絶望の底に突き落とされることは目に見えている。万一そう為れば、ある程度強硬な手段に出ても、珠帝を諌めねばならない――燈雅はそう覚悟を決めていた。
 しかし、彼の危惧も杞憂に終わる。諫言する必要も無く、珠帝は恵帝との和議に応じる姿勢を見せたのだ。
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